545 起床の身支度
リーナは後宮に戻ると着替えと入浴を済ませてすぐに就寝した。
朝から夜まで予定がぎっしりと詰まった土曜日が終わったことへの安堵が、すぐにリーナを深い眠りに導いた。
そして、翌日。
日曜日は何の予定もなかったが、土曜日に後宮側からの説明が受けられていないこと、室長マリリーが一時的に職務から離れていることへの対処が自動的に予定として加えられた。
いつもの習慣もあって、侍女が起こす前にリーナは目覚めた。
時刻は七時。
リーナは大きなベッドの端に、侍女を呼ぶ紐がないかと視線を彷徨わせた。大抵はベッドの端に呼び鈴を引く紐が垂れ下がっている。紐を引くと、控えの間などにいる侍女に呼び鈴が聞こえる仕組みだ。
それらしい紐を見つけたリーナが引っ張ると、さほどすることなく寝室のドアがノックされ、ヘンリエッタが姿をあらわした。
「おはようございます。お呼びでしょうか?」
「おはよう。起きる時間だと思うので呼びました」
「そうでございましたか。ですが、まだ眠いということでしたら、どうぞこのままゆっくりとお休み下さいませ。無理に起床する必要はありません。昼前にはお声をおかけ致します」
「今起きます。でないと夜に眠りにくくなるので」
リーナは二度寝しないことを理由と共に伝えると、ヘンリエッタは頷いた。
「素晴らしい判断だと思われます。すぐにお支度の準備を致します」
ヘンリエッタは一度退出したが、次に顔を出した時には十人以上の侍女達を伴っていた。
「おはようございます!」
侍女達は一斉に挨拶をすると、それぞれの分担する仕事に取り掛かった。
まずは脳の覚醒を促し、睡眠中に失われた水分の補給のためのお茶を用意する。通称、目覚めのお茶だ。
ワゴンを運んできたのは配膳長で、お茶を淹れるのは筆頭補佐のレーチェ。リーナに手渡すのはもう一人の筆頭侍女のバーバラだ。
リーナがお茶を飲んでいる間に、他の侍女達が衣装を運んでくる。説明はヘンリエッタからだった。
「ご説明致します。リーナ様のご衣裳については毎朝四着のドレスをご用意致します。その中から、ご気分にあうものをお選び下さい。ドレスを選んだ後は装飾品です。二セットからお選び下さい。靴は三足の中からお選びいただきます。この対応を変更したいと思われた場合は、いつでも仰せ下さいませ」
リーナはベッドの側に並ぶ侍女達に視線を移した。
一列目には四人の侍女がそれぞれドレスを持って立っている。二列目には装飾品のセットが収められた箱を持つ侍女が二人、三列目には靴が置かれた盆を持つ侍女が三人。合計すると九名だ。
起床の準備をするために大勢の侍女達が部屋に入って来たことに内心驚いていたリーナだったが、それぞれがこなす役割があるためだとわかりやすい。
少数の侍女達が必要なものを何度も取りに行くよりも、一人が一つ持っていれば用意する手間が省ける。
選ぶ方も次々と用意するものを検分できるため、考える時間も多く取れて判断もしやすい。結果的に身支度の時間を短縮できる方法なのだとリーナは理解した。
レーベルオード伯爵家でも、侍女達がリーナの身支度をするために来る。但し、ここまで大勢ではない。
リーナは少し考えた後、考えたことを口にした。
「ちょっといいでしょうか?」
「何なりとご遠慮なく」
「ドレスを自分で選ぶのは大切だと思うのですが、四着は多い気がします。せっかく早く起きても、選ぶものが沢山あると悩んでしまうので、二着にして欲しいです。それから、とても重要な予定がある日は、衣裳担当の方が予定に相応しいものを選んで用意して欲しいです。その方が早く支度ができていいと思うのですけど、どうでしょうか?」
「かしこまりました。では、明日からはそうさせていただきます。通常は選ぶドレスを二着にする、特別な予定の際は衣装担当が選んで用意するという変更だけでよろしいでしょうか? 装飾品と靴はこのままということになりますが」
リーナは少しだけ考えると答えを出した。
「……装飾品も靴もそれほど多くないので、私が毎日選ぶ必要はない気がします。ドレスに合うものを用意しておいてください」
リーナの持ち物は入宮したばかりであること、あまりにも多いと持ち込む際の検閲に時間がかかることから、かなり絞られていた。
しかし、入宮後にも荷物が届くこと、王太子からの贈り物も届くことがわかっているため、必ず増えていく。
とはいえ、リーナの意見は可能な限り尊重し、要望に応えるように言われているヘンリエッタは、現時点では問題ない対応だと判断して了承した。
「かしこまりました。ではそのように」
「後、もう一つ気になることがあるのですが」
「どのようなことでしょうか?」
「スズリの姿が見えませんが、どうしてなのでしょうか?」
現在、部屋にいるのは後宮の侍女ばかりでレーベルオード伯爵家から同行した侍女のスズリがいない。
側妃候補には身の回りの世話をする者を一名同行させることができるが、リーナの場合は二名の侍女が同行可能になっていた。
しかし、リーナに同行して後宮に入ると、自己都合によって後宮を出ることはほぼ不可能であり、守秘義務等を考慮すると、リーナと共に一生後宮で生活することになるかもしれない。
そういった事情もあって、レーベルオード伯爵は同行する侍女を一名だけにすることにした。
リーナはスズリが必ず自分の側に控えるようになるのだろうと予想していたが、土曜日の夜は部屋内にいるだけで身の回りの世話をすることはなく、今に至っては部屋の中にもいなかった。
「スズリ殿は現在、王宮及び後宮の関係者との打ち合わせをしております」
「打ち合わせ?」
「はい。側妃候補に同行する侍女は以前、身の回りのお世話をしておりました。ですが、現在は変更されております」
「えっ、どんな変更なのですか?」
「同行する侍女は秘書業務をすることになりました」
これまでは筆頭侍女などがそういったことをしており、同行する侍女は身の回りの世話を補助する役目をしていた。
しかし、側妃候補はスケジュールや予定等に気に食わない点があると文句をつけ、予定変更を要求するなど、大人しく受け入れない者達が多かった。
また、後宮の侍女達が身の回りの世話をするにも関わらず、同行した侍女も同じ業務を担当にしているため両者が衝突し、立場の上下に関する認識の違いや命令権に関わる様な問題も頻繁に起きていた。
そういったことに対応するため、側妃候補に同行する侍女の扱いが変更された。同行する侍女は秘書とみなされるため、侍女であっても侍女の仕事は基本的にしない。秘書としてスケジュール管理をする。側妃候補がスケジュールに文句をつけても、それは秘書の責任、担当業務ということになる。
また、侍女達は身の回りの世話をする業務に専念しやすく、同行した侍女との業務も別になるため、問題が起きにくくなると考えられた。
「本日は休養日となっていましたが、昨日の予定の一部が変更になってしまったことから、今日の予定として組み込まれることになりました。また、面会希望も多数届いておりますので、スズリ殿の方でどのようにするのか検討され、後ほど報告が来ると思われます」
「わかりました」
「では、ドレスをお選び下さい」
「ピンクにします」
リーナは優しい雰囲気の薄いピンクのドレスを選んだ。
ドレスを選ぶと、ドレスを持っていた侍女達がすぐに横へと移動し、後ろにいた装飾品を持った二人の侍女達が一歩前に出た。
用意された装飾品は金の一式と銀の一式。
「金と銀がございます」
どちらも素晴らしい装飾品だったが、休日につけるには豪華過ぎるとリーナは感じた。
「パールのネックレスがいいです。お揃いでつけるイヤリングもあるはずです」
「かしこまりました。早急にご用意致します」
アクセサリーを持った侍女達がまた横にずれ、靴を持った侍女が三人前に出た。
「靴をお選び下さい」
リーナは考え込んだ。
ドレスは四着。どれも違う色だった。
ドレスと靴の色を合わせるのは基本だ。但し、お洒落かどうかはまた別の話になる。お洒落の上級者ほど、基本通りである意味無難な組み合わせをあえて外す。
珍しい組み合わせで個性を出すのはいいが、一歩間違えるとおかしい、奇妙、センスがないということになってしまう。
侍女は様々な勉強をし、センスを磨く。衣装担当の者であれば、どのような小物や靴を合わせるかどうかもよく知っており、悪い組み合わせを採用することはない。
リーナはまだまだお洒落について勉強中だ。そのため、基本を重視して選んでいる。
しかし、ピンクの靴がない。
用意されたのは白、銀、青の靴。
白と銀はどのドレスにも合うが、アクセサリーを金にすると銀の靴は選びにくい。かといって、白い靴も選ぶ気がしなかった。
なぜなら、つま先部分にゴージャスなブローチのような飾りがついていた。
女性達に人気の厚底ビジューミュールだった。
靴は違うが昨日着用し、重くて歩きにくいと思った。休日であるなら、歩きやすくて疲れにくい靴が履きたいとリーナは思った。
青はほぼヒールのないリボンのついたものだが、色が合わない。
考えに考えた後、リーナはここにはない靴がいいと思った。
「ピンクの靴がいいです。ヒールがほとんどなくて、履きやすいもの。ミュールはやめて下さい」
「かしこまりました」
ヘンリエッタは平静な様子を保っていたが、心の中では動揺していた。
違う……私の知っているリーナとは……。
侍女見習いだったリーナはとても真面目で従順だった。すれたところもなく、素直で優しいが、高位の者のすぐ側で仕えるために必要な知識も技能もなかった。
はっきりいえば、貴族出自の女性とは思えないような部分もあった。化粧に全く興味がないというわけではないが、口紅さえつけていないというのは、もはや女性としてどうなのかと思う者達もいた。
懸命に勉強しようとしていたが、リーナ自身というよりも、その周囲の者達の方が熱くなり、リーナを練習するための人形のように扱っていた。
それでもリーナは文句一つ言わず、他の者達に言われた通りの化粧品を買い、優れた者達の技能を見るのも勉強だと思っていた。自分の状況を良い方に考え不満を抱くこともなく、他の者達に対して悪感情を抱くような素振りも全くなかった。
とてもいい子。でも、たやすく騙され、他者にいいようにされてしまう可哀想な子。
ヘンリエッタはリーナがレーベルード伯爵家の養女になったのも、王太子に見初められたのも、決して逆らうことがない女性だからだと思っていた。
そのため、身の回りの世話に関しても自己主張がほとんどなく、言われた通りに受け入れるだろうと思っていた。
ところが、リーナは予想外の行動をした。
リーナは決められていた身支度の方法について、より簡潔で時間がかからないようなものへの変更を望んだ。
自分で衣装を選ぶだけのセンスや能力がないため、専門の者に任せ、自分は最低限に選んだという体裁を整えるような変更だ。
しかし、今日のドレスについては自分で選んだ。
ドレスは四択だが、自分の好きな色やデザイン、着たいと思うものを選べばいい。休日であれば、催しにふさわしいものといった別の事情を考慮する必要もないため、非常に簡単だ。
どちらかといえば、その次の装飾品や靴を合わせる方が難しい。
しかし、それが難しい、面倒だと感じるのであれば、ドレスと靴の色が揃っているものを選べばいい。装飾品は金でも銀も合うようなものにしているため、深く悩む必要はない。
ところが、リーナはピンクのドレスを選んだ。装飾品は金でも銀でも問題ないが、同じ色の靴がないため、最も難しい選択になるはずだった。
但し、選びやすくなるような対策が施されている。
銀の靴であれば銀のアクセサリーと合わせやすい。白い靴なら花を模した豪華な飾りがついている。流行りの靴であるため、お洒落に見えるはずだった。
だというのに、リーナは侍女達が用意した選びやすく間違いのない選択肢を採用せず、自分の好みの装飾品と靴を用意するように言った。
それはつまり、相手の言いなりではないということ。明確な自己主張だった。
見た目も随分あか抜けたけれど、中身は同じだと思っていた。それは間違いだわ。リーナは変わった。自分の意志を主張できる。成長しているのだわ。
ヘンリエッタは自分の中にあるこれまでのリーナへの認識を改めなければならないと強く思った。





