539 倒れた男
「大丈夫?」
まったく心配していないのは明らかな問いかけに、ヘンデルは質問で返した。
「……無事終わった?」
「無事ではなかったかなあ」
王宮にあるヴィルスラウン伯爵の部屋に来たのは伝令役のジェフリーだった。
ジェフリーの役目は目立たないように王太子に同行し、午前中の様子を休んでいるヘンデルに伝えることだった。
「ようやく入宮日になったっていうのに、王太子殿下はレーベルオード伯爵令嬢をあんまり見ていなかったね。入宮式で口づけをしていただけましかな。あれがなかったら、本気で寵愛しているのか、確実に怪しまれたね」
「パスカルがいたでしょ?」
「側に立っていただけ。側近の立場だし、私情を挟んでいると思われたくなかったのかも? もっと溺愛風、メロメロ路線でよろしく、なんて言えるわけない」
ヘンデルの体調は上向いていたが、気分は一気に落ち込んだ。
本当はクオンの側にいたい。寝ている場合ではない。しかし、熱が下がるまでは絶対安静だという王太子の厳命に逆らうこともない。
大事な予定の最中に倒れて台無しにするわけにもいかない。しぶしぶ薬を飲んで休むという判断を後悔することもない。
「他には?」
「予定が大幅に遅延した。王太子殿下は昼食なし。事前対策会議も手早く済ませるみたい。軍の予定と合わせるべく調整中」
午後、王太子はエルグラードの隣国の一つであるデーウェン大公国の特別大使と会うことになっていた。
国土が海に面していないエルグラードにとって、海に面するデーウェンの存在は軽視できない。
後日官僚級での話し合いが設けられるが、夜間演習に出発する軍の様子をさりげなく見せ、デーウェンの特別大使を威圧することになっていた。
「そうそう、面白いことがあったよ。真珠の靴、レーベルオード伯爵家に届いて着用されちゃった」
「はあ?!」
寝ていたヘンデルは飛び起きた。
「なんで!」
「そりゃもう、伝達ミスに決まっているし?」
「ちょっ、あれは第二王子絡みだから不味い!」
クオンはリーナに特別な靴を贈ることにしたものの、自分には芸術的なセンスがないことを自覚している。
デザイン画が複数提示されたもののどれにするか決めかね、参考意見を聞くためにエゼルバードを呼んだ。
エゼルバードはデザイン画を検分しつつ、兄がどのような気持ちで贈り物を決めかねているのかを巧みな話術で探り、最終的にはエゼルバードが兄の気持ちをイメージしてデザインした靴を特注して贈ることになった。
その靴が正当な方法で贈られないということになれば、王太子よりも第二王子が激怒する。責任問題を回避できないのは必至だった。
「だよね。でも、安心していいよ。誰がミスったかはわかった」
「誰?」
ジェフリーはにやにや笑いながらヘンデルを指差した。
「王太子付き首席補佐官ヴィルスラウン伯爵」
「俺~?!」
ヘンデルは目を見開き、絶叫した。
「俺が変なこと言ったわけ? そういうこと?」
ヘンデルは体調が悪いにも関わらず、無理をしていた。あまりにも酷いために薬を取り寄せることにした結果、信じられないほどの高熱があることが発覚し、急きょ重病人として自室に隔離された。
また、ヘンデルが不調で隔離されたことについては緘口令が敷かれ、緊急要件に対応中、忙しいなどと誤魔化すことになった。
ただの過労だと主張したものの、病気であれば困る。王族にうつすわけにはいかない。入宮式という重要な予定があることを考えれば、即刻隔離の対応は正しい。
しかし、そのせいでヘンデルは引継ぎをしっかりとできていなかった。
「書類と王宮関係はヴァークレイ子爵、入宮式等の後宮関係はレーベルオード子爵に任せると言ったね?」
「言った」
後宮の入宮式は内内の行事になる。参列するのは入宮式に出席する王太子に同行する者達だけだ。
午前中だけとはいえ、王太子と首席補佐官が不在になるのがわかっていたため、キルヒウスが留守役を務めることになっていた。
そこで、入宮式や後宮に関わることはパスカルに任せると伝えた。
「真珠の靴は隔離の直後に届いた。後宮関係だからレーベルオード子爵が担当。でも、出勤前だからいない。緊急の招集もかけられていない。そこでレーベルオード伯爵家に届けられた。一刻も早く届けるように通達が再三出ていたから。笑えるよね!」
「はあ?!」
ヘンデルはまたも叫ぶしかない。
確かにパスカルに任せるとは言った。パスカルは王宮にいない。呼び出してもいないが、パスカルが王宮に来てから渡せばいいだけだ。
ところがそれ以前の段階で、靴がなかなか届かなかった。そのことに苛立っていたこともあって、一刻も早く届けるようにという指示が何度も出ていた。
それは事前に王太子が検分するためだったが、指示自体には理由についての説明はなく、単純にヘンデルの元へ早く届けろという指示だった。
ヘンデルの代理が急きょパスカルになったため、靴は一刻も早くパスカルの元に早く届けなければならないということになった。だからこそ、レーベルオード伯爵家に届けられてしまった。
パスカルは入宮式で何が贈られるのかを知らない。入宮式のために用意された贈り物が間違ってレーベルオード伯爵家に届くとも思わない。
届けられた靴は入宮式に出席する際の装い、着用するものと考える。宝飾で彩られた置物のような靴だが、リーナの靴のサイズで作られていることを考えれば実用品だと判断するに決まっている。
未着用、箱に入れたままの状態で王太子の元に届ける、あるいは入宮式に持って行くと考えるわけがない。
「それって俺のせい?」
「王太子殿下の決定ではないけれど、今の段階ではヴァークレイ子爵がそう判断した。王宮に不在の者に任せる指示を出したのがいけないって。レーベルオード子爵を王宮に呼び出すことを合わせて伝えるか、出勤してから任せる。あるいは靴に関してのみ別の者、筆頭侍従に預けて王太子殿下に検分させる指示を出しておけばよかった。体調不良とはいえ、命令権の行使には大きな責任が伴う。詰めが甘いって。コリンも全くその通りだと頷いていたよ。侍従側の責任問題にしたくないみたい」
ヘンデルは呻きながら倒れた。
「医者呼ぶ?」
ジェフリーは部屋の中にはいるものの、ヘンデルとは距離を置いている。医療用のマスクも着用していた。
ヘンデルの症状がうつるのを予防するためだが、引いては愛妻と愛娘にうつさないための処置でもある。
ジェフリーとしては高熱で仕事を休み、愛妻に看病されるのであればうつってもいい。むしろ、大歓迎だ。
しかし、現実は厳しい。愛妻は看病してくれないばかりか、女官として通常出勤する。残業させないように迎えにいくことも、一緒に食事し、ベッドで寝ることもできない。
娘にも会えない。治るまでずっと。まさに隔離される。そんな未来を、ジェフリーはなんとしてでも回避するつもりだった。
「……いいよ。俺のせいにしなよ。侍従がレーベルオード伯爵家に届けるように手配したくせに、なんて言わないよ。言ったらその侍従は終わっちゃうだろうし」
「そうそう。王太子殿下の厚い信頼と庇護を得ているヴィルスラウン伯爵なら、ちょっと頭を下げて謝るだけで済む」
「第二王子はどうかなあ……」
「王太子殿下の庇護は鉄壁だって」
「ロジャーにもちくちく言われる……」
王太子が第二王子をなだめたとしても、第二王子の怒りが収まりきらないかもしれない。
そうなれば、第二王子の側近に被害が出る。第二王子の側近はヘンデルのせいだと判断し、嫌味や何かしらの報復がある可能性が高い。
「さすがにそれは自己対応」
「だよな~」
うつ伏せ状態のヘンデルは泣きたくなった。勿論、気持ちだけの問題で涙は出ない。
「今日はずっとそこで寝てなよ。無理をしたら駄目だって。デーウェンとの交渉で忙しくなるし」
「あれは俺の担当じゃない」
「首席補佐官は基本的に全部担当。王太子の宰相みたいなものだし」
ヘンデルは黙っていた。裏宰相がいるとあえて言う気もない。
「あ、そうそう、もう一つ。日曜日に会いたいって。潜入姉妹からの伝言ね」
ヘンデルの精神は一層削られ、日曜日も寝ていたい気持ちになった。





