534 火星の間
火星の間はその名称通り、火の星を主題にした装飾を施した部屋で、赤と金の二色を基調にした豪華絢爛な応接間になる。
国王の第一側妃であるエンジェリーナは黄金の一人掛け椅子に座っていた。
黄色のドレスには全面に細かい金糸の刺繍が施されているため、黄金のドレスといっても過言ではない。
頭上には巨大なルビーがはめ込まれた黄金のティアラ、合わせられた豪奢な宝飾品。エゼルバードの母親として納得の美貌に加え、気品と気高さに溢れる姿はまさに火星宮の主にふさわしい姿だった。
「母上、ご機嫌麗しゅう。そのティアラは本当に母上の美しさを際立たせますね。まるで女神のようです」
エゼルバードは母親を褒めた後、リーナを紹介した。
「ご存知とは思いますが、リーナ=レーベルオードが入宮しました。側妃候補として後宮の真珠の間に滞在します。至らぬ点が多くあるかもしれませんが、勉強するための入宮です。リーナを妹のように可愛がっている私に免じて、どうかお手柔らかに」
エゼルバードは微笑みながらリーナを紹介すると、挨拶を促した。
「リーナ、母上に挨拶を」
「はい」
リーナはエンジェリーナの圧倒的に高貴な姿に圧倒されていたが、なんとか言葉を絞り出した。
「本日入宮致しましたリーナ=レーベルオードでございます。第一側妃エンジェリーナ様に謁見し、ご挨拶できますこと誠に……嬉しく、心より御礼申し上げます。どうぞ、よろしくお願い致します」
リーナは深々と頭を下げながら、言葉を間違えてしまったことに動揺していた。
本来であれば、光栄でございますなどと言うべきだったが、言葉が出て来なかった。咄嗟に嬉しくと言ってしまったが、それは自分よりも圧倒的に身分の高い女性に対する言葉としてふさわしくないというのは、リーナでもわかるほどの間違いだ。
エンジェリーナはリーナを強く鋭い視線で見つめたまま、何も言わなかった。
部屋が沈黙する。
そしてようやくエンジェリーナが発した言葉は、リーナへのものではなかった。
「私の可愛い天使、目の前にいる女性は言葉を間違えたのではなくて?」
エゼルバードは悠然と微笑みながら答えた。
「母上の高貴な姿に圧倒されて緊張しまったのでしょう。勉強中ですので、大目に見ていただけませんか? 母上の寛容さを示すいい機会になります」
「それはできないわ」
エンジェリーナは即座に却下した。
「挨拶は一生を左右しかねない重要なもの。決して間違えるべきではありません。レーベルオード伯爵家の令嬢であるなら尚更、誰もが納得するような完璧な挨拶をすべきです。私はエルグラード国王の妻なのよ? その誇りにかけて、間違った挨拶を受け入れるわけにはいきません」
エンジェリーナは不適切な言葉が含まれた挨拶の言葉をそのまま受け取るつもりはなく、断固として拒否した。
「但し、エゼルバードに免じてやり直す機会を与えましょう。一言ずつ非常にゆっくりでも構いません。その代わり間違えてはいけません」
エンジェリーナは冷たい表情と厳しい口調でそう言った。
リーナはその様子に震え上がったが、エゼルバードはそれを慰めるようにリーナの側に寄り、優しく言葉をかけた。
「母上はとても寛容で慈悲深い女性です。だからこそ、正しい挨拶をするための機会をもう一度与えてくれているのです。その気持ちに応えるには、ゆっくりでも言葉を間違えることなく挨拶をすることが大切です。まずは深呼吸をしましょう」
リーナはエゼルバードに言われた通り深呼吸をした。
エゼルバードは一回だけのつもりで言ったのだが、リーナは自分が落ち着くまで何度も深呼吸をした。
「……社交デビューしたばかりですので、このような状況で緊張するのは当然です。ですが、謁見の場であるからこそ、一言ずつであっても正しい言葉だけで挨拶をするのが大事なのです」
リーナはもう一度深呼吸をした後、二度目の挨拶をした。非常にゆっくり。一語ずつ。
しかし、エンジェリーナはその挨拶も却下し、再度やり直しを命じた。
三回目、四回目も駄目出しが続く。
最初はともかく、二回目から四回目の挨拶がどうして駄目なのか、リーナにはわからなかった。
どうすれば正しい挨拶ができるの? これまで教えて貰った挨拶では駄目なの?
混乱するリーナを助けたのは、それまで一言も発することなく黙って見ていたセイフリードだった。
「本当に馬鹿だ。緊張しているのはわかるが、基本を忘れている。王族への挨拶は最初に発言する許可を得る形で行う。国王への挨拶であれば、国王陛下に申し上げますと前置きをしてから挨拶する。あるいは、国王陛下にご挨拶申し上げますと言ってから、自分の名前や目的など、細かいことを伝える」
リーナはどこが間違っていたのかを知り、愕然とした。
確かに基本ができていない。これでは駄目出しが出ても当然だと納得するしかない。
セイフリードは更に言葉を続けた。
「入宮するという言葉もよくない。なぜなら、王宮に入る意味で使用されることもあるからだ。より詳細な説明を省く場合は、後宮へ入るという明確な言葉で表現した方がいい。どうせ、お前については事前にわかっている。教本にある例文をそのまま述べたような挨拶であっても、正しい言葉だけが使用されていればいい。挨拶の長さ、装飾語、言い回しの流暢さなどは無視してもいいということだ」
リーナは涙が出そうな気持になったが、懸命に堪えた。
なぜなら、自分がすべきことは泣くことではない。正しい挨拶をし終えることだとわかっていた。
リーナは五回目の挨拶を口にした。
「第一側妃エンジェリーナ様に申し上げます。本日、側妃候補として後宮に入りましたリーナ=レーベルオードと申します。どうぞよろしくお願い申し上げます」
リーナはしっかりと腰を落とし、頭を下げた。
エンジェリーナはこれまでのようにすぐに駄目出しを宣言することなく、リーナの発した挨拶の言葉や所作を吟味するように黙ったままだった。
重苦しい雰囲気の中、エンジェリーナは声高く叫んだ。
「ずっと待っていたのよ、小鳥ちゃん!」
えっ? 部屋に小鳥が?
思わずリーナは心の中で首を傾げた。
「遅刻するばかりか、挨拶もろくにできないなんて……もしこれが王妃への挨拶だったら大変なことになっていたわ! 最初の挨拶が寛大で慈悲深い私で助かったわね」
エンジェリーナの口調はとても明るく、親しみを感じさせるようなものになった。笑みを讃えた表情と気品が溢れる華やかな雰囲気でもある。
まるで別人になってしまったかの豹変ぶりに、リーナはただ驚くしかない。
「まあでも問題になったらなったで、都合がいいかもしれないわ。私やエゼルバードが沢山守ってあげられるものね?」
母親の確認するような視線に、息子は頷いた。
「さすが母上です。正しく理解されているようで、私も安心しました」
リーナを守るかどうか。それは王太子の意向に従うことと同じだ。
エンジェリーナは守るという言葉を発することで、リーナや王太子に味方をするという自分の意向を示した。
「母親ですもの。それに、ずっと娘が欲しかったから丁度いいわ」
エゼルバードは表情を変えなかったが、頷くことはなかった。
過去においてエゼルバードが妹のように扱った女性がいるのと同じく、エンジェリーナもまた娘のように可愛がるお気に入りの若い女性達がいた。
そして、その女性達は全員もれなくエンジェリーナの不興を買い、社交界から追放されている。
リーナは王太子に寵愛されている。気まぐれな猫に例えられる側妃の遊び相手にすべき者ではなかった。
「リーナは兄上のものです。忘れてはいけません」
「そうねえ……どうしようかしら?」
「面倒事は困ります。兄上を敵に回すのは利口ではありません。王妃のようにはならない、そうですね?」
「クラーベルと一緒にしないで。とても不愉快だわ」
「そう思っているうちは大丈夫でしょう」
エゼルバードはずっと頭を下げ、腰を低くする姿勢を保ち続けているリーナに視線を変えた。
「そろそろ、いいのでは? 挨拶は合格点のはずです」
「リーナ=レーベルオード、顔を上げなさい」
リーナはようやく顔を上げた。
「かなり甘いけれど、合格にしてあげるわ」
リーナはようやく挨拶ができたことに、心からほっとした。
「厳しいと思ったかもしれないけれど、これも勉強よ。社交界にデビューしたばかりの女性は何かにつけて悪口を言われ、些細なことで揚げ足を取られるわ。貴方にはより大きな悪意をぶつけてくる者達が大勢いるでしょうしね。この様子では前途多難だわ。王太子が他の女性を一掃するために仕立てた人形だと思われてしまうかもしれないわね」
エンジェリーナは遠慮なかった。
それに慣れているエゼルバードではあるものの、この場には警戒すべき相手であるセイフリードがいる。冗談のような口調で言っていたとしても、報告書にどのようなことが書かれるかわからない。
母親のせいで自分の立場が悪くなっては困るため、エゼルバードはしっかりと言葉にして注意することにした。
「母上、この場には冗談が通じない者がいます。他の側妃への挨拶もありますし、今日はこのへんで失礼します」
「仕方がないわね。でも、できるだけ近いうちにまた遊びに来なさい。エゼルバードだけでなく、リーナも。わかったかしら?」
「わかりました」
エゼルバードは返事をしたが、リーナは返事に迷った。
どうすればいいの……?
迷うリーナを助けたのは、またしてもセイフリードだった。
「ただの社交辞令だ。光栄だと答えておけ」
なるほどと思いつつも、教えられた通りに答えるのは悪い印象になるのではないかとリーナは思った。
第一側妃は国王の妻、リーナよりも圧倒的に上の存在だ。そして、エゼルバードの母親。クオンの弟の生母になるため、義理の母親のようなものかもしれないとリーナは考えた。
義理でも母親、そして家族。家族は大事にしないと。
リーナは単純にそう思った。
リーナにとって、家族というのはかけがいのない宝物だ。リーナ自身も養父であるレーベルオード伯爵との良好な親子関係を心から喜んでいる。
その認識が、エンジェリーナを大切にしたい、良好な関係を築きたいという気持ちにつながった。
「……寛大なるお言葉に、心から感謝申し上げます。またお目にかかれるのであれば、光栄に存じます」
エンジェリーナはにっこりと微笑んだ。
「貴方は勉強するために入宮したはずよ。私の相手をするのも勉強になるわ。ねえ、そうでしょう?」
リーナは素直に頷いた。
「はい。そう思います」
リーナの勉強熱心さは褒めるべき長所である。しかし、エンジェリーナと会うことは、必ずしもいい結果につながるとはいえない。
気に入られても気に入られなくても、厄介なことになる。
エゼルバードとセイフリードは報告書を見た兄が嫌そうに眉をひそめる姿を予想した。





