530 長い予定
時間は止まらない。着々と進んでいる。
しかし、予定も同じく着々と進むとは限らない。
後宮やリーナの担当になる者達を紹介し終えた後は、後宮の生活に関する説明が行われる予定だった。
しかし、すでに時刻は昼目前。後宮の生活に関する説明をするには明らかに時間が足りなかった。
「本来であれば後宮の生活に関する説明を行う予定でしたが、昼食時間が迫っております。そのため、そちらは別に時間を取るよう変更し、各自お使いいただくお部屋の方にご案内させていただきます。では、リーナ=レーベルオード様にお使いいただく真珠の間からご案内致します。他の候補者の方々は少しお待ち下さい」
リーナは部屋の中を見回した。そして、この時になってようやく壁際に三人の女性が立っていることに気付いた。
二人とはこの日初対面であるが、同じ日に入宮した女性達であることは一目瞭然だった。
カミーラとベルーガはデザインの違う白いドレス、金と銀にそれぞれ統一した装飾品など一見すると対象的に見える。しかし、それがかえって二人の個性や美しさを引き立てているばかりか、二人が並んでいるからこその美しさまで計算されているかのような立ち姿だった。
但し、残る一人は違う。完全に異色というしかない。
黒い生地に赤いレース、金の刺繍を施した豪華なドレス。ゴロゴロという形容詞が相応しい大粒のアメジストの装飾品。きつい印象を与える大人びた化粧と睨むような強い視線。どう考えても一人の名前しか思い浮かばない。
「ラブ様……」
リーナはクオンや後宮長の方ばかりを見ていたため、自分側であるものの、壁際の方に自分以外の候補者達がいることを見逃していた。
「初めまして。レーベルオード伯爵令嬢」
リーナはびくりと震えた。
初めてではない。リーナはラブと会ったことがある。但し、その時はリリーナ=エーメルだった。そのことを考えれば、確かにレーベルオード伯爵令嬢としては初めて会うことになる。
だが、リーナはすっかり怖気づき、冷静さを失っていた。
「私……」
気づかなくて、というのは無礼になることは間違いない。だが、挨拶をする時間があったのかといえば、なかった気もする。
初めまして? それとも、リリーナであったことは隠さなくていいから久しぶり? ああでも私の身分は低いわけだし、丁寧に言わないと……だけど、どの位丁寧にすればいいの? 四大公爵家だし、王族への挨拶位? それとも貴族への挨拶でいいの?
リーナはどうすればいいのかわからなくなり、言葉に詰まった。
「行くぞ」
なかなか言葉を発しないリーナを見たクオンはその手を掴み、強引に引いた。
午前中の予定通りに進んでいないのは、クオンにとって都合が悪かった。午後は王太子としての執務がある。会議もあるため、挨拶は後回しでいいと判断したのだ。
リーナは三人の入宮者達に挨拶をする機会を失い、真珠の間に向かうことになった。
リーナの知る側妃候補の部屋は四階にあったが、真珠の間は三階にある部屋の名称だった。
「こちらでございます」
まず、控室が三つ。これは護衛騎士、後宮の侍女、レーベルオード伯爵家の同行者別に一室ずつ使用することになる。
控室を抜けると、かなりの広さがある応接間になっている。ここが真珠の間と呼ばれる部屋になる。
真珠の間からの続き部屋として居間、寝室、浴室、化粧室などがある。また、続き部屋ではないものの、リーナ専用の食堂、書斎、音楽室、遊戯室などもあり、衣裳部屋に関しては第一から第十まで確保されていた。
「気に入らなければ別の部屋を用意させるが?」
クオンの言葉を聞いたリーナは勢いよく首を横に振った。
「嫌じゃありません! ただ、あまりにも部屋が多くて……」
「無理に使う必要はないが、できるだけ多い方がいい」
クオンはなぜ部屋の数が多い方がいいのかを説明をした。
「側妃候補は自由に後宮内を出歩けない。厳密に言えば、あらかじめ決められているような予定ではない目的で部屋の外に出るには、許可を取らなければならないのだ。だからこそ、部屋は多い方がいい。与えられた部屋に行くという名目で付近を出歩くことができる。許可を取らなくても自由に歩き回れる範囲が広がるということだ」
リーナは思い出した。
確かに側妃候補は特別な理由、勉強をするための部屋に行くか、何かしらの行事などがある場合以外は部屋から出ない。正しくは、部屋から出ることができないのだ。
許可を取れば可能だが、許可がなければ絶対に無理だ。庭園への散歩にもいけない。購買部にもいけない。必要なものは侍女に頼んで購入する。その結果、予定がない時間は許可がなければひたすら部屋で過ごさなければならない状態ともいえた。
そういったことを考えると、仕事をする侍女や召使の方が側妃候補よりも後宮内を出歩くことができる。自由度が高いのではないかとリーナは思った。
「しばらくの間はできるだけ外出を控えておけ。お前の側につく者の数は多いが、後宮に来たばかりの者もいる。不慣れな状態ではミスも起きやすい。まずは後宮での生活に慣れることが大事だ」
「はい。できるだけ早く慣れます!」
リーナは気合を込めて答えたが、クオンは笑みを浮かべると優しくリーナの頭を撫でた。
「スケジュールに従って過ごすだけだ。さほど難しくはないはずだが、予定の全てがお前の嗜好や都合に合わされているわけではない。無理はするな。勉強をするための入宮ではあるが、嫌なことは拒否できる。しばらくは休みを取り、一日中昼寝をして過ごしてもいい。お前の気持ちや体調を優先し、少しずつこなしていけばいいのだ」
「はい」
「殿下、そろそろお時間です」
パスカルが声をかけた。
クオンは時計を確認した。
部屋を見て回るまでは一緒に行動することになっていたが、完全に予定時間を過ぎているどころか、昼食を取る時間さえもない。
リーナとできるだけ長く過ごしたい気持ちはあるものの、リーナもこれから昼食だ。午後には側妃への挨拶回りもある。あまり遅い時間になってしまうと、それだけで側妃の機嫌が悪くなることもわかっていた。
「兄上、悪いが予定が遅延し過ぎている。リーナに同行する予定はキャンセルしたい。出発が遅れるのは困る」
レイフィールはこの日、夜間の軍事演習を指揮する予定だ。出発は午後遅くということになっていたため、リーナの挨拶回りに同行することもできるだろうと思われていた。
だが、予定が着々と遅延している。このまま挨拶回りに関しても大幅な遅れが生じると、軍の演習予定に影響が出てしまう恐れがあった。ならば、最初から同行することは取りやめ、準備に集中すると判断した。
「わかった。執務を優先しろ」
「すまない。正直、残った者達のことが不安ではあるが……」
レイフィールはエゼルバードとセイフリードに視線を向けたため、クオンも同じく弟達に視線を向けた。
「エゼルバード、セイフリード。私やレイフィールがいなくても、優秀なお前達であれば問題が起きても対処できる。自らが問題を引き起こさないように振る舞いもできるはずだ。後は頼んだぞ」
「お任せください」
「報告書はそれぞれ出すように」
クオンはリーナの額に軽く口づけると、気持ちをすぐに切り替え、真珠の間を後にした。
その後をレイフィール、パスカル、レーベルオード伯爵、更に王太子付き侍女長などの付き添い達も順に退出したため、部屋の中にいる人数が一気に減った。
リーナはクオンや家族がいなくなってしまったことで急激に寂しさと不安を感じた。
「大丈夫です。私がいますからね」
エゼルバードがリーナを励ますようにそう言ったが、すかさずセイフリードが不機嫌そうな表情と口調で応対した。
「兄上の代わりにしては不足すぎる」
「セイフリードよりもずっとましです」
「そんなことはない! 僕の方がよほどましだ! リーナは僕に仕えていたんだからな!」
「時間がありません。昼食を早く取りましょう。食事の支度をできるだけ早くさせなさい。食べ終わったらすぐに挨拶回りです」
エゼルバードはセイフリードの相手をしている暇はないと判断してそう言ったが、その場で最も上位の侍女である真珠の間付き室長のマリー=バレッタことマリリーは質問で返した。
「昼食の前に真珠の間付きの侍女との顔合わせをすることになっております。予定時間を過ぎていることを考え、食事が準備されるまでの間を利用して行いたいのですが、よろしいでしょうか?」
マリリーは予定時間が過ぎていることから、昼食をこれ以上遅らせるわけにはいかないと感じた。そこで、食事が支度される合間の時間を活用し、できるだけ予定されていた内容をこなそうと考えた。
食事が運ばれるまでの待ち時間を無駄にするのではなく、顔合わせの時間として活用するのはなかなかいい案だと思い、構わないという許可が出ると信じて疑わなかった。
だが、エゼルバードの表情は一気に冷たいものになり、セイフリードの不機嫌そうな顔はどす黒い怒りをはらんだようなものになった。





