525 入宮日
朝早く起きたリーナは眠くてたまらない状態だった。
しかし、優秀な侍女達はまったく問題がない、むしろこの時間であれば当然といった表情で、リーナの身支度を整える仕事を進めた。
全身を水で濡らしたタオルで拭き、寝汗を拭い去る。ガウンを着せた後、髪を結いあげながら化粧を施す。ガウンを脱がせ、繊細なレースがあしらわれた下着とドレスを着せる。宝飾品を飾り付ける。
靴が用意される頃になるとリーナの意識もはっきりとし始め出していたが、自分の足に収まる予定の靴を見たおかげで、完全に目覚めることができた。
「これを履くのですか? 事前に確認したものと違います」
確かに昨夜までは違う靴が用意されていた。
「こちらは王太子殿下からの贈り物です。早朝に届きました。」
「厚底ビジューミュールですよね?」
「そうでございます」
「雑誌で特集されていましたが、これはちょっと……」
ミュールはかかとが高く、つま先部分は覆われているものの、かかとの部分はあいており、留め具がないような履物になる。
サンダルの一種だが、スリッパに高いヒールがついたようなものだと認識している者達もいる。
ミュールは足の甲やつま先だけで靴全体を持ち上げるため、歩行がしにくい。バランスが取りにくいようなものも多くある。不意に脱げてしまう、転倒しやすいといった難点もある。
それを改善するため、ミュール本来のデザインを損なわないようにするベルト、かかとや足首に固定するストラップなどがついているものもある。
だが、そもそも高いかかとの靴自体バランスが取りにくく、歩行しやすいとはいえない履物という者達も大勢いた。
靴職人達が必死で考えた結果、靴の底を非常に厚くすることでかかとと同化させ、バランスを取りやすくするというミュールが考案された。
厚底ミュールは女性達の心を鷲掴みし、瞬く間に浸透する。
そして、この夏は厚底のミュールに宝石や模造品などの飾り(ビジュー)を付けたものが人気を博していた。
「ヒールが高くて履き慣れていない靴はちょっと……特に今日は転ぶと不味いですし……」
「ご心配には及びません。全体的に底上げされているだけで、ミドルヒール程度の傾斜になっております」
「重そうですし……」
「靴底部分はコルクです。木製よりも軽いと思われます」
「コルク? ワインの蓋に使われている?」
「一見しただけではわかりにくいのですが、靴底には軽くてクッション性もあるコルクが使用され、歩きやすく疲れにくいように考えられています」
侍女は届いたミュールに付属していた取扱い説明書の内容を思い浮かべながら説明した。
「靴底部分がキラキラしています。コルクには絶対見えません……」
厚底の靴はどうしても靴底の部分が目立つ。
そこで美しい色に塗る、布や革張りの上に刺繍やペイントなどを施すなど、様々な方法でお洒落に見えるような工夫が施されているものが好まれている。
贈られたミュールの靴底は、側面部分に小さな輝きを放つ透明な塊がびっしりと敷き詰められていた。
「宝石のように綺麗です」
リーナは靴底のビジューは模造品だと判断した。
すかさず侍女が否定する。
「宝石です」
「えっ!」
驚きつつも、リーナは安価な宝石があることを思い出した。
「水晶ですか? それともホワイトトパーズとか?」
侍女は冷静に答えた。
「ダイヤモンドです」
「絶対におかしいです!」
部屋の中にいた侍女達は心の中で同意したものの、頷く仕草は見せなかった。
「……もしかして、パールも本物ですか?」
「はい」
ミュールの前面、足の甲の部分にはびっしりと小粒のパールが並んでいた。
全体的には白い厚底のミュールでデザインもシンプルだが、パールとダイヤモンドで覆うように飾り付けられたミュールは贅沢この上ない逸品としかいいようがない。
リーナは思わず身震いした。
「置物として飾った方がよさそうです」
もはや宝飾品。靴とは思えないような高額品であることは疑いようもなかった。
「実用品ではないのかもしれません。確認した方がいいのでは?」
弱気になったリーナを、侍女達は励ました。
「リーナ様のサイズで作られています。実用品です!」
「王太子殿下から贈られた以上、別の靴を履くわけにはいきません!」
「王太子殿下のお心が込められている証拠です! 履いてこそ、真に受け取るということになります!」
リーナは覚悟を決めて立ち上がったが、すぐにバランスを崩してよろめいた。
「あっ!」
「リーナ様!」
「危ない!」
すぐに侍女達がリーナを支えようとするものの、なんとかリーナは自力でこらえた。
「ヒールが高すぎたのでしょうか?」
リーナは高いヒールの靴を好まず、ヒールがかなり低めの靴ばかりを履いている。
侍女達にしてみればたった前後の高低差はたった三センチという認識ではあるものの、厚底であることや宝石がびっしりとついていることから、予想以上に履き心地が悪いのかもしれないと懸念した。
「……ヒールは大丈夫です。でも」
でも?
侍女達はリーナをじっと見つめた。
「物凄く高価な靴だと思ったら、足が震えてしまって……」
リーナがぐらついたのは、高額過ぎる靴に恐れをなしたことが原因だった。
「贈り物の金額については考えるべきではありません!」
「ドレスで見えなくなる靴を気にされていては、前を向いて歩けません!」
「美しくもありませんし、危険です」
侍女達は正論をしっかりと並び立てることで、リーナを納得させようとした。
「思った以上に重いですね……宝石がない方が色々な意味でよさそうです」
「運動だと思って下さい!」
「健康のためです!」
「急ぎ足を防止するのは丁度いいかと」
リーナは贈り物の靴で歩く練習をした。
その結果、リーナはゆっくりではあるものの、ぐらつかずに前を向いて歩くことができるようになった。
できるだけ目立たないようにするため、黒塗りのシンプルな馬車でリーナ達は王宮まで移動した。
朝早いことや問題なく王宮につけるように道路も工事や点検などの名目で短時間封鎖され、警備も多く配置されていたことから、予定よりも早く到着することになった。
応接間に通されたリーナ達は王太子に謁見する予定だったが、王太子は国王の元に行ったまま戻らず、不在だった。
「王太子殿下が戻られる時間は未定です。入宮式に間に合わない可能性もあります。そのため、別室にて朝食をご用意致します」
そう説明したのは王太子筆頭侍従であるコリンだった。
「王太子殿下と謁見する前に朝食を?」
今日の予定は全て事前に決められている。
緊急対応で変更になる事態も想定しているものの、到着早々変更され、王太子と同席する形で朝食を取るのではなくなるというのは慎重に確認する必要があるとパスカルは判断した。
「王太子殿下のご判断です。ヘンデル様は殿下に同行されているため、私の方で対応することになりました。元々朝食の席をご用意するのは私の管轄です。お任せ下さい」
「部屋は?」
「変更ありません。緑の会食の間です」
「それだと、王太子殿下が戻るまでは食事を取れない」
会食の間は王太子が私的な食事の際に利用する。
王太子が寵愛する女性とその家族を私的な部屋に招待するだけでなく、食事をする許可まで与えるというのは極めて栄誉なことになる。
しかし、王族の私室であるがゆえに、王族がいない状態で食事を取ることはできない。
王族と食事中、王族が途中退席するのであればともかく、食事の席についていないということであれば、王族が来るのを待つのがマナーだ。食事が用意されても手をつけるのは無礼になる。
「問題なく食事ができますのでご心配なく。ご案内致します」
緑の会食の間に案内されたリーナ達は驚いた。
そこには王太子の姿はないものの、別の王族の姿があった。
「おはようございます。第二王子殿下」
パスカルはすぐに王太子の側近として挨拶をした。
「何度も挨拶を受けるのは面倒です。着席して食事をしなさい。問題にはならないことを、私が保証します」
緑の会食の間にいたのはエゼルバードだった。
「リーナ、父上、着席して下さい。第二王子殿下がいらっしゃるのであれば、その指示に従うことになります」
リーナ達は給仕をする侍従達にそれぞれの席へ案内された。
「なぜ、私がここにいるのかと思っていることでしょうね」
エゼルバードは笑みを浮かべながらそう切り出した。
「昨夜になって、ちょっとした問題が起きました。母上がリーナの挨拶に来る時間を確認したのです。ですが、入宮日にリーナが側妃達に挨拶する予定がないことが判明しました」
側妃候補は一時的に後宮に滞在する許可が出ただけの立場でしかない。側妃のように後宮の正式な居住権を与えられるような立場ではなかった。
そのため、側妃候補として入宮したとしても、国王の側妃達に挨拶をする必要はない。
しかし、リーナが王太子の寵姫として入宮するのであれば、後宮への正式な居住権を与えられたということになる。その場合は国王の側妃達に挨拶するのが礼儀だった。
「母上はリーナが挨拶に来るものと思っていただけに、気分を害してしまったのです。そこで、私が動くことになりました」
「その件は事前に話し合われ、通達されたはずです」
パスカルの言葉に、エゼルバードは首を振った。
「国王府や後宮には通達されたものの、国王の側妃達の方には届かなかったのです」
パスカルは心の中で舌打ちした。
「今朝、兄上と私の方で話し合い、リーナは母上達に挨拶に行くことになりました。午後は後宮内の施設等を案内される予定ですが、そこに側妃達への挨拶回りも付け加えます」
「わかりました」
「その際は私も同行します。うまく取りなすので心配はいりません」
事前に第二王子から側妃達に取りなすのではなく、挨拶する際に同行して取りなすという方法をエゼルバードは示した。
取りなしてくれること自体は嬉しいものの、リーナの入宮予定に自分を関わらせるべく、第二王子はわざと問題が起きるように誘引したのではないか。
パスカルとレーベルオード伯爵はそう勘繰らずにはいられなかった。
そもそも、午前中はなかなか起きない第二王子が、すっきりとした表情で朝早くから起きていること自体、怪しいとしか言いようがないとも。
「第二王子殿下の寛大なるご配慮に、心からの感謝を申し上げます」
パスカルの謝礼をエゼルバードは悠然とした笑みで受け止めた。
「リーナは私の妹のような存在ですからね。もしそうではなかったら、面倒なことになっていたかもしれません」
自分の力を誇示するようなエゼルバードに対し、パスカルは無表情を貫いた。しかし、無表情が常の父親はその表情を隠すように頭を下げた。
「娘への栄誉なるお心遣いに深く感謝致します」
「さすが父親です。息子と違って頭を下げたことは評価しましょう」
第二王子主催であるかのような朝食会が始まった。





