5 マイナスは借金
食事が終わると、リーナはトレーを所定の場所に片付けた。
次は入浴の説明だ。
「まずは質問です。これまでどの程度の頻度で入浴していましたか?」
孤児院では浴槽につかるような入浴をしない。
小さな桶に水やお湯を入れてタオルを濡らし、体を拭くだけだった。
但し、特別な理由がある時は石鹸を使うことができる。
石鹸を泡立てて全身をこすった後、水やお湯をかぶって流していた。
費用がかかってしまうこともあり、あくまでも浴槽は水やお湯をためておくものとして使われているだけだった。
リーナが正直に話すと、指導役は顔をしかめた。
「そうですか。ですが、特に臭うということはありませんね。ここへ来る前に入浴しましたか?」
「職業斡旋所に行く前に、全身を石鹸で洗いました。臭いと職を紹介して貰えないかもしれないので、特別な理由として認められたのです」
「なるほど」
指導役は納得して頷いた。
「後宮において清潔感は非常に重要です。下働きであれば不潔でも構わないということにはなりません。むしろ、下働きだからこそ清潔感が重要なのです」
「下働きだからこそ、ですか?」
最下位なのにどうしてなのだろうかとリーナは不思議に思った。
「下働きは一番汚れやすい仕事をします。最も不潔になりやすいということです」
働く場所は地下。窓が小さく出入口も限られている。
空気を頻繁に入れ替えることは難しく、地下全体に匂いがこもりやすい。
「臭い者がいれば、地下全体に臭い空気が漂います。その中で多くの者が過ごさなくてはいけません」
臭い空気の中で過ごしたくないとリーナは思った。
「汚れたままの状態で仕事をすればどうなりますか? せっかく掃除した場所が汚れてしまいます」
不衛生な環境のせいで病気になりやすい。感染もしやすい。
「地下にいる者全員が病気になったら大変です。だからこそ、下働きであってもきちんと入浴し、自身も仕事場も生活する部屋も全て清潔にしておかなくてはなりません。わかりますね?」
「はい」
「入浴は毎日しなさい。それが規則です」
「毎日ですか?」
入浴は大量の水やお湯を必要とする。贅沢なことだ。
それを毎日できる。いや、規則でしなければならない。
素晴らしい規則だとリーナは思った。
「専用の入浴施設があります。掃除中の以外は使えるので、仕事が終わった後に必ず入浴します。翌日はまた清潔な状態で仕事を始められるようにしなさい」
「はい!」
「では、実際に入浴施設に行って入浴しましょう。その前に部屋へ戻って着替えを取りに行きます」
リーナは指導役と一緒に部屋へ戻った。
同室者達がいたため、指導役はリーナのことを紹介した。
「では、着替えを取り出しなさい」
リーナが木箱を開けると、興味津々とばかりに同室者達が中を覗き込む。
そして、あまりにも少ないことに唖然とした。
「それしかないの?」
「それだけで足りるの?」
「もしかして、家を追い出されたの?」
リーナは孤児院で暮らしていたこと、私物はほぼないこと、着替えも一セット、他は孤児院の備品なので持って来ることができなかったことを説明した。
「毎日入浴するのに着替えが一セットだけじゃ、絶対に足りないわよ?」
「どうしてですか? すぐに洗濯すれば一日で乾くはずです。交互に着ればいいだけでは?」
リーナは不思議に思った。
「洗濯は全て洗濯部の者がします。下働きの衣類についても全てです」
「えっ?」
最下位の下働きだけに、洗濯は自分でするものだとリーナは思っていた。
「自分で勝手に洗ったり、どこかに干したりするということはできません。洗濯部であれば仕事として自分の衣類を洗濯することができますが、掃除部ではできません」
「そうでしたか」
「入浴施設の側にクリーニングカウンターという場所があります。そこにいる洗濯部の者に汚れた衣類を渡します」
カウンターに洗濯物を出すと受付及び引換証を貰える。
日付が書き込んであるため、その日付になったら取りに行く。
「どんなに早くても三日ほどはかかります。洗濯物が多いと一週間ほどでしょう」
「一週間も!」
「着替えが一セットでは足りません。仕方がないので、購買部で着替えを買いましょう。三セットは欲しいですね」
リーナは表情を強張らせた。
「あの……私、お金がありません」
「全くないのですか? 一ギニーも?」
「はい。一ギニーもありません」
「そうですか。でも、大丈夫です。買えます」
リーナは目を丸くした。
「買えるのですか?」
「買えます。ですが、代金は請求されます」
その場で支払いができない場合は、後から支払うことができる。
後から支払う場合、基本的には給与から引かれる。
リーナは気付いた。
給与がいくら貰えるのか、説明された記憶がない。
「働くといくら貰えるのでしょうか?」
「わかりません」
指導役が答えた。
「ですが、新人の給与などたかがしれています。そこから部屋代、食事代、クリーニング代などの様々な生活費を引かれます。基本的にはなくなってゼロになるというか赤字、マイナスです」
「マイナス!」
リーナは叫んだ。
住み込みで働くことはわかっていたが、給与から生活費が引かれるとことを知らなかった。
一般的な住み込みの待遇というのは、衣食住は雇い主の方で面倒を見て貰える。
その代わり、貰える給与が非常に少ない。
後宮では普通に給与が出るが、そこから生活費を引かれるということを、リーナは改めて教えられた。
しかし、生活費のせいで給料が足りずにゼロになるどころか、マイナスになるというのはおかしい気がした。
「マイナスということは、次の給与でその分を支払うということでしょうか?」
「そうです。最初はとても給与が低いため、毎月不足します。マイナス分が増え、自動的に借金になります」
「借金!」
思いがけない言葉に、リーナは呆然とした。
孤児院を出て住み込みで働くことができるはずだったというのに、実際は稼ぐどころか生活費が足りず、借金を背負うことになるというのだ。
「借金なんて困ります!」
「お金も着替えもないのです。仕方がありません」
確かに必要なものがない。
リーナにはどうしようもなかった。
「貴方は恵まれています。普通はお金がないと生活に困ります」
部屋を借りることもできず、食事もできず、欲しいものも買えない。
着替えが欲しくても、買えない。
「ですが、ここでは違います。部屋があり、食事もでき、着替えが買えます」
その通りだった。
「借金という言葉に驚いたかもしれませんが、普通の借金とは違います。利息がありません」
不足した分が一ギニーだとすれば、一ギニーだけ後から払えばいい。
利息によって返済額が一ギニー以上になることはない。
「でも、借金は返さないといけないはずです。働いても給与が不足するのであれば、借金が増えるばかりです。ずっと返せないのでは?」
「借金を返済する期限も普通の借金とは違います」
後宮で生活することによって生じた支払いの不足分である借金は、後宮を辞めるまでに返済すればいい。
「退職か解雇になるまでに返済します。長く勤めることができれば、返済期限が何十年もあるということです」
「何十年も!」
「真面目に懸命に働き続ければ借金を返せるはずです」
借金を早く返せと言われることもない。
取り立て屋が来て悩まされることもないのだ。
「給与明細がマイナスになり、結果として借金になるだけの話です。マイナスになるせいで現金を手にすることはできませんが、購買部でツケ買いができます」
後宮における借金は一般的な借金とは随分違うようだとリーナは感じた。
「少しずつ給与も増えるでしょう。だんだんと給与で支払うことができるようになり、借金も減っていくはずです。今だけは仕方がないと諦め、借金を覚悟の上で買いなさい」
後宮の者はそうしている。それが当たり前、常識なのだ。
「後宮にいる方は、借金をして生活をしているということでしょうか?」
「全員ではありません。私もここで働き始めたばかりの頃は、借金生活でした。ですが、仕事に励んだおかげで出世し、給与が増えました。今はもう借金はありません。全て返済しました」
リーナは凄いと思った。
頑張って働けば給与が増え、借金を返せると感じた。
「貴方も真面目に真摯に仕事に励めばいいのです」
「はい!」
「心配ないわ。私も借金があるわよ」
「私も給与が足りなくて、全然返せないの」
「私も借金があるわ」
同室者達も口々にそう言いながら、リーナを励ました。
「借金がどんどん大きくなったとしても、生活には全然困らないわよ」
「そうよ。だから、安心して借金するといいわよ」
「気にしなければいいのよ。突然、病気や事故で死んじゃうかもしれないわ。そしたら借金がいくらあっても関係ないじゃないの。今、生活できているってことが重要よ!」
どうしても着替えを購入したくないのであれば、この仕事を辞めるしかない。
リーナはすでに孤児院を出ている。行く当てはない。
結局、借金を覚悟して着替えを購入するしかないと思い、リーナは購買部で買い物をした。
入浴後、疲れたリーナがベッドに上がると、すぐに深い眠りが訪れた。