498 私室への招待
王宮に戻る馬車の中。
クオンは迷っていた。
この後の予定はリーナとの時間。二人だけで過ごす予定だ。
歓談のため、今夜の催しについて話し合うわけだが、別の話題でもいい。話をしなくてもいい。夜食、菓子やデザート、お茶や酒も用意できる。
触れ合うのもいい。抱きしめたり、口づけをしたり、それ以上のことも可能といえば可能だ。寝室の用意もしてある。急きょリーナが宿泊することになっても対応できる。
むしろ、宿泊のための準備はしっかりされているのも知っている。
好きにすればいいと言われ、自由に使える時間であることもわかっている。
周囲の者達がそれとなく何のことを言っているのかもわかっている。
しかし。
クオンはリーナとの関係を大事にしたい。そして、古風と言われるかもしれないが、順序を守り少しずつ、リーナの気持ちを考えながら進めていきたい。
慎重な性格だけにそう思うのだが、男性としての強い気持ち、衝動も感じないわけではない。
無理しないようにとヘンデルには言われている。だが、クオンはその対象が自分のことなのかリーナのことなのかよくわからなかった。
恐らくは自分のことだと思うものの、無理をしないということが、自分のやり方でいいということなのか、それとも妻にするまで寝室で過ごすことを我慢する必要はないということなのかもわからない。
そもそも、共に寝るだけならすでに経験がある。本当に寝るだけだが。
その時の周囲の視線が喜び、祝うようなものではなかったのもわかっている。
どうするか……。
真剣な表情で考えるクオンを、リーナは真面目な表情で見つめていた。
クオン様はずっと黙っているし、考えているみたいだし……とにかく邪魔をしないようにしないと。
馬車が王宮に到着した。
結局、クオンは考え込んだままで一言も発することはなく、リーナもまた無言のまま静かにしているだけだった。
馬車のドアを開けたヘンデルは、王立歌劇場に到着した時との違いに驚いた。
甘い雰囲気は一切ない。気まずいようなものでもない。ただ、静か過ぎる。
そして、長年側にいるだけに、クオンの表情を見ればわかる。
まだ最後の決断をしていない。慎重に考えている最中だ。それを大人しく見守るどころか、決して邪魔をしないようにと息をひそめるリーナの様子が簡単に想像できた。
真面目カップルだからなあ……まあ、想定内だけどね。
ヘンデルは自分の行動がクオンの邪魔をしないように、やはり無言のまま対応した。
クオンはリーナを自分の私室に招待した。
王太子の私室で過ごせるのは非常に限られた者だけになる。基本は家族や親族、非常に親しい友人、側近の一部など信用できる人物だ。
恋人や愛人もその対象者ではあるものの、妻と違って一時的な関係だけになる場合もあるため、別室を利用することが多い。
女性で男性の私室に通されるというのは特別なこと、しかも、王太子の私室ということであればかなりのこと、まさに寵愛されている証だと言えた。
「ここは私の私室だ。普段使っている部屋になる。非常に親しい者や信用できる者しか入れない。王族がどのような部屋に住んでいるのかを言いふらされては困る。王家の威光、王族のプライベートに関わるだけに、秘密にしなければならない」
クオンは簡単に部屋を案内することにした。
王太子の私室は複数の部屋や廊下がつながっているような状態だ。
「ここには個人的なものが飾ってある。例えば、家族からの贈り物だ。あの絵はエゼルバードが描いたものだ」
リーナは説明された絵を見た。
木の絵だった。
木の下から見上げるような構図のため、木の全体が描いてあるわけではない。枝や葉、幹の絵ともいえる。
「とても綺麗な絵ですね!」
リーナは率直な感想を述べた。
クオンはリーナらしいものの、とても普通の感想だと思った。しかし、それはすぐに覆された。
「光の花が溢れています!」
クオンはリーナの発した光の花という言葉に驚くしかなかった。
この絵のタイトルは溢れる光。
雄々しい枝や茂る葉の間から差し込む光の美しさ、力強さが溢れ出すような絵だ。
多くの人々がこの絵を絶賛した。クオンも素晴らしい絵だと思っている。
しかし、クオンは絵に描かれた光を花とは思わなかった。
リーナの言う通り、枝や葉の合間に見える光は、花のように見えなくもない。むしろ、次々と溢れ出て来そうな光を、次々と咲き乱れる花のようだと例えることができるということを、リーナによって気づかされた。
芸術とは様々な解釈がある。必ずしも、そのどれか一つが正しいとは限らない。
画家がどのようなものを描きたかったか、あるいはどのような気持ちを込めて描いたかを理解するのはいいが、それだけにとらわれず、絵を見て感じた自らの想いもまた大事にすればいいとクオンは思っている。
そのため、リーナがどのような感想をいってもそれを否定することはない。
リーナにはそう見えた。それがクオンと違うものであっても構わない。むしろ、クオンとリーナは違う人間、違う感覚を持つからこそ、リーナには見えて、クオンには見えないものがあるかもしれない。一人一人が違って当然なのだ。
だからこそ、クオンはリーナが特別な感想を述べることを期待してはいなかった。
ところが、リーナの感想はクオンにとって予想外であるだけでなく、非常に素晴らしい解釈だと感じられるものだった。女性らしい解釈だとも。
「光の花か……」
これまでもリーナの言葉、行動、何かがクオンの胸を揺さぶってきた。そして、今もまた同じく。
愛している者の言葉は特別に感じるものかもしれない。素直で正直、優しく心地よい言葉だというのもある。
しかし、それだけではない。
時に、リーナは王族や平民といった身分や立場、育った環境、受けた教育、教養、様々な違いを乗り越えて理解できる大切なもの、素晴らしいと思えるようなものを示してくれる。
人として理解しあえること、大切なもの、素晴らしいものは、相手がどのような者であっても伝わり、わかり合える可能性があるのだと感じることができる。
リーナはそれらを意図して示しているわけではなく、むしろ、気が付いていない。
偶然リーナがきっかけになっただけで、クオンの優秀さがあればこそわかったこと、感じたことなのかもしれない。
だが、クオンはこれまでに自分の周囲にいた者達からこのようなことを感じたことはない気がした。リーナとの出会いがあったからこそ、感じるようになったのだ。
では、リーナが平民だったからか。それとも孤児だったからか。真面目だから、努力家だから、正直だから、優しいから、愛しているから。様々な理由を挙げてはみるものの、やはり、リーナだからとクオンは思うしかない。
リーナと出会ったことは、王太子として生きて来たクオンを変えた。
もしかすると、リーナとの出会いは運命、神の導き、奇跡だったのではないかと思えるほど、クオンにとっては特別なことだった。





