481 マリウスとミネット
「領地を発つ前、私はミネットに会った。だが、相変わらずだった。パトリック様はミネットの心が落ち着いたのであれば、一族の者として王都に来るように言われたのだが、ミネットは無理だといい、私と共に王都に向かうことを拒絶した」
「そうですか」
マリウスは自分の心を冷静に保つため、大きく深呼吸をした。
「まだ時間が必要なのでしょう。ミネットの心はどうしようもなく傷つけられてしまいました。仕方がありません」
「マリウス、もう一度言う。無理をするな。リーナ様はレーベルオード伯爵家の命運を左右されるかもしれないお方だ。その方のすぐ側で仕える者には覚悟が必要だ」
「わかっています。リーナ様はとてもお優しい。そして、不運な過去をお持ちでもある。この先、リーナ様の心が多くの者達に傷つけられるのは目に見えています。パスカル様が守りたいと感じるのは当然のことであり、私も同じように思っています」
マーカスは首を横に振った。
「守りたい気持ちだけでは駄目な時もあるのだ。どれほど強い気持ちがあっても、守れない時がある。気持ちと覚悟は違うのだ」
父親の言葉は重い。なぜなら、それは事実だ。
誰もミネットを守れなかった。大丈夫だ、耐えられる、ミネットは強いと思っていた。そうなって欲しくもあり、そうなれると信じていた。
だが、ミネットはそうではなかった。大丈夫ではなかった。耐えられなかった。弱かった。強くなれなかったのだ。
マリウスはもう一度深く深呼吸した。
「私は神官になったことで多くの人々の迷い、悩みを聞く立場になりました。人は皆それぞれ心の中に迷いや悩みがあります。劣等感によって強い自己否定をする者もいますし、深い悲しみから抜け出せない者もいます。人は万能ではありません。悩み、苦しみ、悲しむ心を持つ存在です。どんなに祈りを捧げても、心に救いを感じられないこともあります。私も多くの祈りを捧げましたが、結局は変わりません。悩み、苦しみ、悲しむしかありません。神に近いと言われる神官もやはり人なのだと思いました」
マリウスは神官として過ごした日々の中で、自分が見つけたものを父親に伝えることにした。
「死についても考えました。人はどうしようもない何かから逃れるために、死を選ぶこともあります。ミネットがそうでした。生きている以上、自分の苦しみはなくならないと感じ、死を選ぼうとしたのです。ですが、私はそれを阻止しました。それは正しかったのか、ミネットを苦しめる時間を増やしただけなのではないか、ミネットの意志を尊重すべきだったのではないかと悩みました。そして、私は答えを見つけました。私の判断は正しかったと。ミネットは神が与えた寿命を全うするまで生き続けるべきなのです」
マリウスの口調はとても静かだった。
「死の解釈は人それぞれ違うことでしょう。ですが、私の解釈では、死は全ての終わりではありません。人には肉体だけでなく、魂があるといわれています。ですが、私は魂を見たことがありません。ですので、その存在が確かにあるかどうかさえわかりません。ですが、心は目に見えなくても感じます。ならば、魂も感じられるかもしれませんし、あるかもしれません。そして、魂があるとするのであれば、死によって魂はなくなるのでしょうか? そして、目に見えないものがなくなることを確認することができるのでしょうか? 私は考えました。そして、死は肉体が滅ぶものだと思いました。これなら確認できます。死によって肉体は動かなくなり、朽ちていきます。ですが、魂が同じく朽ち果てるとは限りません。死んでも魂は残るかもしれないわけです。それならば、心もまた魂の中に残るかもしれません」
マーカスは息子の言葉に真摯に耳を傾けた。どのような内容、解釈であっても、父親として息子の本心が知りたかった。
「苦しみ、というのもまた目に見えるものではありません。肉体的な傷を負った痛みであれば、肉体を失った際に逃れることができるかもしれません。ですが、心の痛みは魂の痛みではないでしょうか? 死によって肉体を失っても魂が残るのであれば、心の痛みは残り続けてしまうのではないでしょうか? 私はとても不安になりました。死は苦しみからの解放ではないのかもしれないと。そして、それを確かめるために死ぬのもまた恐ろしいと思いました。このような不安な気持ちで死んでしまえば、魂の中にこの不安と苦しみがずっと残り続けてしまうように思いました」
息子の言葉を聞き、父親は不安になった。やはり息子の心には迷いがある。不安も。レーベルオードに戻るべきではなかったのではないかという懸念が広がった。
「私は人です。神官になっても、神に祈り続けても、人であることは変わりません。ですので、できることも人としてできる何かしかないのです。私はどうすべきか考えました。その結果、私は人として生きるしかないと思いました。私はミネットのように死を選ぶことはできません。死によって苦しみから解放されなかったらどうしようもない、それこそ絶望的だという考えを拭い去ることができないからです。ならば、生きている間に、少しでもこの苦しみをどうにかするしかないと思いました。ほんの少しずつでも苦しみを減らし続ければ、それがやがて大きな苦しみを減らすことにつながり、やがては苦しみ自体からの解放を得られるのではないかとも。私の心に変化が生じました。そして、神官として人々の役に立つこと、感謝の言葉を言われることが、私の心の中にある苦しみを減らし、闇を浄化する気がしました。慈善活動に身を費やす者の中には、誰かを助けたいという良心からだけでなく、誰かを助けるという善行をすることで自らを救いたいという者もいることでしょう。私はその気持ちがとてもよく理解できます。私自身がそうでしたから」
マリウスは父親を見つめた。まっすぐに。
「ですが、私はもう一度自らの苦しみと向き合い、乗り越えるために進みます。どこまで進めるのかわかりません。ですが、私の心を支えてくれる方がいます。それはリーナ様です」
「リーナ様が?」
マーカスは驚いた。
マリウスにとって、幼少より共に過ごして来たパスカルが特別な存在であることは知っている。友人であり、家族のような存在であり、主でもある。パスカルが心の支えだというのであれば、マーカスは納得するしかない。だが、そうではなく、リーナだった。
マーカスは一層不安になった。
「まさかとは思うが……リーナ様を想われているのではないだろうな?」
公表はされていないものの、リーナは王太子の寵を受け、入宮することが決定している。その女性に対して想いを寄せるのは好ましくない。
主として仕えるという意味での忠義であればともかく、男女の想いを感じるべきではなかった。もし男女の愛を感じているというのであれば、側にいるのは危険極まりない選択になりうる可能性がある。
「父上が懸念されているような意味ではありません。私はリーナ様を側で見ていて思ったのです。とても普通の女性だと」
マーカスは困惑した。
普通の女性というのは誉め言葉とは思えなかった。では、何の意味があるのかと。
「リーナ様は特別美しい容姿をしているわけでもなく、能力に優れているわけでもありません。そのことをご自身でもよくわかっているのに、なぜか王太子殿下の寵を拒むこともありません。常識的に考えれば、相当なご苦労をされることは必至です。自分は相応しくないと考え、身を引く方が利口です。これ以上の苦労はしたくないと思い、レーベルオード伯爵令嬢として相応の相手と婚姻される方が幸せになれると思うはずなのです。むしろ、婚姻されずにレーベルオードに残ったままの方が幸せかもしれません。パスカル様と閣下が心から大切にされることでしょう。リーナ様も今の生活にご不満はないようです。だというのに、リーナ様は入宮することしか考えていないのです。どのような勉強をすればいいのか、自らの果たすべき務めは何かと真剣に考えられています」
「それはリーナ様がとてもお強い方だからではないのか? それか、王太子殿下の寵を得たいと思うような性格の女性だからということだろう」
マーカスはリーナのことをよく知らない。
挨拶はしたものの、ウォータール・ハウスに来てからは催しに関する打ち合わせばかりに時間を取られてしまい、リーナと話すような機会がないどころか、姿もあまり見かけることはなかった。
いずれはレーベルオードを去る女性ということもあり、マーカス自身が積極的にリーナについて関わり、様々に知りたいと思うようなこともなかった。
「リーナ様は弱い部分もあり、自分に自信がありません。ですので、本当に自分にとって大事な部分だけしか見ることができないのです」
「……視野が狭いということか? それとも、真っすぐな性格だということか?」
マリウスは微笑んだ。
「どれも間違いではありません。ですが、本当に重要な部分はそこではありません。リーナ様の魅力は、人として失ってはいけない大切なものを感じさせてくれることなのです」
マーカスはリーナを見て特別な何かを感じたことはない。美しく着飾りつつも、普通の女性だという感じがした。
息子がなぜそのような言葉を発したのか、理由を知りたくなった。





