474 家族の朝
土曜日のリーナは特別な朝を迎えていた。
普段は一人での朝食になるが、レーベルオード伯爵とパスカルはどちらも休みで屋敷にいたため、三人で朝食を取ることになったのだ。
「とても嬉しいです!」
三人で朝食を取るというだけでこれほど喜ぶのかと思うほど、リーナははしゃいでいた。
食事中のリーナは大抵静かにしており、レーベルオード伯爵やパスカルに話しかけられてから答えるような形で会話に加わる。しかし、この時は自ら話しかけ、会話に参加していた。
「お父様もお兄様も王宮に行かなくていいのですか?」
「夜の予定まで、外出の予定はない」
「夜の予定に合わせることが優先だからね。それまでは久しぶりにゆっくりする。リーナと一緒に過ごそうと思っているけれど、どうかな?」
パスカルの提案にリーナは嬉しい気持ちが更に膨らんだ。
「一緒に過ごしていただけるのですか?」
「でも、執務関係のことはしない。庭を散歩しよう。昼食も一緒に取る。その後はどこかでのんびりくつろぎながら、会話でも楽しもうか。リーナの手掛けたギャラリーでもいいし、白と緑の間でもいい。それとも音楽の間にしようか? ヴァイオリンとピアノならできる。リーナのために演奏したいな」
「ヴァイオリンとピアノができるのですか?」
リーナは驚いた。パスカルが様々な教育を受けているということは予想していたが、楽器の演奏もできるとは思っていなかった。
「お兄様は凄いです!」
「私もその程度はできる」
父親が張り合うような言葉を発した。
「ヴィオラとチェロもできる」
「四弦楽器ができるというだけではありませんか」
パスカルは素っ気ない口調で感想を述べた。
「チェンバロもできる」
「ピアノと大差ありません」
「全然違う。ピアノは打楽器だ。強弱をつけることが非常に重要な要素になる。だが、チェンバロは音の強弱がつけられないため、アーティキュレーションやアゴーギクを駆使しなければならない」
「演奏の仕方に特徴があるというのはわかります。ですが、鍵盤を操作するという点では同じということです」
「自分ができないからといって、難癖をつけるとは不甲斐ない」
「僕はハープもできます」
「王立学校の学芸会で詩人役をするために習っただけではないか」
父親は息子の習い事に関しては全て把握していた。勿論、その技能レベルも習うことになった理由も。
「父上の技能は最高レベルだというのですか? どの楽器も中途半端ではありませんか」
「お前も同じだ。プロにはなれない。ただ、弾けるというレベルでしかない」
青い瞳とそこから放たれる強い視線同士がぶつかる。
始まった、とリーナは思った。せっかく三人一緒の朝食だというのに、このような雰囲気での会話は避けたいとも。
「あの……いいでしょうか?」
リーナが口を挟んだため、父親と兄の視線がリーナに注がれた。そして、リーナの表情が曇っていることで、すぐに自分達の失敗に気が付いた。
「何だ? 遠慮なく言えばいい」
「ごめんね。つい、父上と話し込んでしまった。何かな?」
「先ほどチェンバロという楽器の話が出ましたが、専門用語がありました。よくわからなかったので、教えていただきたいのですが」
「アーティキュレーションやアゴーギクのことかな?」
「それです!」
リーナは自分のわからなかった部分について尋ねることで、父親と兄の会話を中断させ、話題を別の方向へ持って行こうと考えた。
「アーティキュレーションというのは音の形を整え、音のつながり方に工夫をすることだ」
レーベルオード伯爵が説明をしたが、リーナの表情は曇ったままだ。つまり、さっぱりわからないということだった。
「音は整えられるのですか? 目に見えないのに? 物のように整理整頓できるということでしょうか?」
リーナの質問に、そこからかと父と兄は思うしかない。
リーナには芸術的な感覚やセンスがないということはすでに知っている。その理由もわかっている。
幼い頃のリーナは音楽や芸術に関する勉強をほとんどしていなかった。
両親がミレニアス人とエルグラード人であるため、まずは両国の言語を母国語として謙遜なく扱えるようになるための勉強が優先された。その結果、二カ国語による読み書き計算等はできるものの、音楽や芸術に関するような勉強だけでなく、歴史や地理といった自分の出自に関する手掛かりになりそうな勉強もほとんどしていなかったことが判明している。
「音というのは一つじゃない。沢山ある。音楽はとても多くの音が集まっているわけだけど、ただ集まっているわけでもない。曲として集まっているよね?」
「そうですね」
リーナはパスカルの説明に頷いた。
「曲にするには、音が全く同じではつまらない。ドドドというように、連続しているだけになってしまう。そこで、様々な音、ドレミファソラシドというような違いのある音をうまく使い分ける。そして、更に微妙な細かい違いをつける。ドだけでなく、ドッ、あるいはドーとかね。レもレッ、あるいはレーとかね。わかるかな?」
「なんとなく……」
レーベルオード伯爵が説明を引き継いだ。
「ピアノは打楽器だ。強く叩けば強い音、弱く叩けば弱い音というような区別した演奏ができる。しかし、チェンバロはできない。だからといって強弱をつけられないわけではない。演奏の仕方を工夫することによって、強弱を演出する」
リーナはだんだんとまたわからなくなってきた。
「つまり、ピアノは強く叩けばドッ!という音が出る。でも、チェンバロは強く叩いてもドッ!にならない。そこで、前後の音とのつながりで強く見せる。ドッというような区切りをしっかりつけて、強さを演出するとかね」
「音がどのようなものかをしっかりと理解し、適切にコントロールする。それが整理するということであり、アーティキュレーションだ」
「……もう一つはどのようなものでしょうか?」
正直なところ、リーナはよくわからなかった。しかし、もう一つのことも聞くことで、違いがわかるかもしれないと思った。
「アゴーギクは速度、緩急のことだ。音に意図的な変化をつける技法だ」
「音の表情や動きを変えるわけだね」
「表情……」
音は顔ではない。なのに、表情がある。抽象的な例えであることはわかる。しかし、リーナにはうまく理解できなかった。
「父上の説明は硬すぎます。教本通りです」
「お前の説明では感覚的な理解ができない者に対して曖昧な部分が多く、余計に理解できない」
リーナは二人の説明が理解できない自分の不足を思い知るしかない。
「……音楽に関する勉強をもっとしなければならないようです」
「音楽を聴くことも大切だ。勉強になる。今夜は王太子主催の音楽会がある。丁度いい」
レーベルオード伯爵がさりげなく話題を変更し、リーナの沈んだ気分を持ち上げようとした。
リーナは王太子を愛している。会える予定を思い出せば、嬉しい気持ちが湧くだろう。王太子の強引さには多少むかつくが、娘のためであるなら仕方がない。
父親は本心を隠した。時にはその方がいいこともある。正直、素直であることだけがいいとはいえない。
「いいことを思いついた。午後はギャラリーを一緒に回った後、音楽の間に行こう。僕が演奏を披露する。リーナはお茶でも飲んでいればいい」
名案だとパスカルは思った。だが、父親はそう思わなかった。
「待て。午後のお茶は私と一緒に取るというのが慣習だ」
「別にいいではありませんか。絶対的な規則ではありません」
「駄目だ。リーナは私とお茶をする」
「では、三人でお茶を楽しめばいいではありませんか。せっかくなので、チェンバロを披露されては? それこそアーティキュレーションやアゴーギクを駆使すれば、リーナの勉強にもなります」
「お前はピアノを弾く気か?」
「そうです」
「ならば、共に弾くか?」
父親の誘いにパスカルは驚きを隠せなかった。
「ピアノとチェンバロで?」
父親の眉はすぐにしかめられた。
「私はヴァイオリンにする」
パスカルは父親を睨んだ。
ピアノとヴァイオリンにわかれて演奏するのはいい。よくある組み合わせだ。しかし、その場合の主旋律はヴァイオリンが担当し、ピアノは伴奏になる。
つまり、自分の演奏が父親の演奏の引き立て役になるということだ。娘の前でいい格好をしたい父親の気持ちは理解できるが、自分も妹に褒め称えられたい気持ちがある。
「僕がヴァイオリンを担当します。父上がピアノを演奏されては? チェンバロとの違いを際立たせながら演奏することができます」
父親は自分の意図が息子に見破られていることを悟った。
「父上は多才ですし、チェロでもいいのでは?」
チェロの独奏はとても素晴らしい。しかし、ヴァイオリンと合わせると、高音であるヴァイオリンの方が目立つ。チェロの演奏を地味に感じさせ、ピアノと同じく伴奏担当だ。
「ヴィオラでも構いません。僕はヴァイオリンしか習っていないので、ヴァイオリン以外は弾きません」
ヴィオラはヴァイオリンよりもやや大きい。その差はあまりないと思われるが、ヴィオラの音域は低い。チェロよりは上になるが、渋いわき役のような存在であることには変わりがない。
父と息子、互いの思惑が強い視線となってぶつかり合った。
リーナはまたかと思いつつも、父親と兄による演奏会が楽しみだと思った。





