463 想う人
「ここには私が心から想う方や大切にしたい人達がいます。だから……ごめんなさい」
フェリックスは寂しいと思った。
リーナが他国で辛い経験をしながら生きて来たことを考えれば、そこに居続ける必要はない。家族がいる国に帰ればいいと思う。
しかし、リーナはエルグラードで見つけてしまった。自らが望む場所を。家族よりも大切な者を。
フェリックスには家族を優先して欲しいという気持ちがある。その一方で、年齢的にも親元を離れて嫁ぐのは自然であることも理解できる。
そして、リーナはエルグラードに一人ではない。血のつながった兄も側にいる。
リーナとの血のつながりはないものの、兄の父親であるレーベルオード伯爵が庇護をしてくれる。それだけではない。エルグラードの王太子までもが特別な庇護を与えている。
エルグラードで生きていくための権利と場所が確保されているからこそ、エルグラードにいれば不幸になるとは言えない。むしろ、ミレニアスで差別を受けるであろうことを知っているだけに、引き留めにくい。
そもそも、ミレニアス王がリーナを血族とみなさなかったことで、実の両親とその弟だというのに、法律的にも表面的にも赤の他人どころか国籍さえ違うということになってしまった。そのせいで、実の家族だと主張するための正当な権限がまったくない。
ミレニアス国内の貴族や国力が同等以下の国を相手にするのであれば、表向きには認めずに裏から交渉するという手段でも対処しやすいが、エルグラードほどの大国の王族や国際的な影響力がある貴族と裏で交渉するのは難しい。
フェリックスはミレニアス王を心の底から憎いと思ったが、リーナに対しても同じような感情を感じることはなかった。
リーナは王族であるにも関わらず、王族の権利を奪われ、見捨てられた犠牲者だった。責めることができるわけもない。
むしろ、ミレニアス王だけでなく、王の判断に従うしかない実の家族を憎み、無責任だと糾弾してもおかしくはない。
だというのに、リーナは優しかった。実の家族にもミレニアスにも。
自分の素性が判明したことで迷惑をかけてしまったと感じ、ミレニアスに戻らないという決断についても申し訳なく思っている。
申し訳ないのは自分達の方だとフェリックスは強く思った。
「姉上、申し訳ありませんでした。僕も、父上も母上も、姉上の力になれませんでした」
フェリックスはリーナに心からの謝罪を込めて言葉にした。
「姉上は王族です。だというのに、想像を絶する苦難を経験されました。ミレニアスのせいです。ミレニアスを恨んでも仕方がありません。でも、優しくしてくれます」
「別に特別優しくしているつもりはないというか、むしろ戻りたくないというのは優しくない気がするのですけれど……」
リーナが正直に感想を述べたものの、フェリックスは首を横に振った。
「いいえ。姉上は優しいです。誘拐されたのに、父上や母上を責めませんでした」
「それは誘拐した人が悪くて、お父様やお母様が悪いわけではないからです」
「警備に問題がありました」
「お父様とお母様はしっかりと警備をしているつもりだったのです。でも、完璧にはいかなかったというだけで」
「完璧でなければなりません。それが王族の警備です。ミレニアス王が全ての国民に捜索を命じ、インヴァネス大公領内よりも広範囲の捜索をしながら国境を厳重に封鎖する判断に同意していれば、エルグラードに行く前に発見できたかもしれません」
「でも、婚外子ですし」
「姉上は本当に謙虚です。僕は……その優しさが辛いです」
リーナは驚いた。
「えっ、辛いのですか?」
普通は優しくされたいと思うはずだ。なぜ、優しくされるのが辛いのかとリーナは不思議に思った。
「人は様々な感情があります。優しさもあれば、怒りも悲しみもあります。僕は全ての人に優しくすることはできません。絶対に無理です。なのに、姉上は誰にでも優しい気がします。姉上が凄いと思う一方で、無理をしているのではと思ってしまうのです」
「無理を? 別にしていませんけれど……むしろ、これが私だと思います。もっと怒れと言われてもできません。難しいです。怒るのは強くないとできません。私は強くないですし、偉くもありません……」
フェリックスは理解した。
怒りの感情をあらわすことは自由に簡単にできることだ。しかし、リーナにとっては違う。
怒りの感情をあらわすには、相手に対して上の立場や強い姿勢で臨むことができるという状況が必要だと思っている。
リーナは自身を弱いと思っている。
相手よりも上の立場ではなく、強い姿勢で臨むことができるような性格でもない。大人しく従うしかない抑圧された生活を受け入れて来たことにより、怒りという感情を自分の外に発することができない。その権利がないと思っている。
普通に考えれば、そのせいで自身の中に怒りが溜まる。だが、リーナの場合はそれもない。怒りが全くないというわけではなく、別の感情になる。苦しみや悲しみ、迷いや不安といったものだ。
姉上は自分の怒りさえ消されてしまうほどの辛い状況を受け入れて生きるしかなかった。途方もない苦労をしたに違いないというのに、僕には……想像できない。それほどまでに無力だ。
フェリックスの瞳から涙が溢れた。
「えっ? フェリックス?」
リーナはフェリックスが泣き出してしまったことに焦った。
「ごめんなさい。私の言葉がよくなかったようです。正直に言っただけなのですが、どこが悪かったのかわかりません。教えて下さい」
「抱きしめて欲しいです。とても悲しい気分なので」
「わかりました!」
悲しい時に涙を流すのは当然だ。そして、悲しみをなぐさめるために抱きしめ、安心や愛情を伝えることで落ち着くというのもわかる。
自分の中にある弟への愛情が伝わり、安心してくれるように祈りながら、リーナはフェリックスを抱きしめた。
フェリックスはリーナのぬくもりに包まれ、幸せな気分になった。
そして、両親からこのように抱きしめられたのはいつだったかと考えるが、記憶にない。
フェリックスは自分が不遇だと思って生きてきたわけではないが、不満がないわけでもなかった。
一番不満だったのは、なかなか両親との時間を過ごせず、抱きしめて貰えなかったことだ。
母親は病弱でベッドから起き上がることが少なく、食事さえもベッドの上ということが多かった。負担をかけないように、少しの間しか会うことができないのが当たり前だった。
そして、会ってもまさに会うだけで、触れあうことは少なかった。手を握って話をしたが、抱きしめて貰えない。
だというのに、父親は必ず母親に会う時は抱きしめる。自分で母親の体を支えることができるからだ。
フェリックスは自分も父親のように母親を支えられるほど成長すれば、沢山抱きしめることができると思ったが、世間一般ではそうではないことも知ってしまった。
父親に抱きしめて貰えることも少なかった。但し、頭をよく撫でられた。それが父親としての愛情表現だった。
褒められるのは嬉しい。愛情を感じることができる。もっと褒められたい。立派な大人になって両親を支えたいと思い、懸命に勉強をした。
その結果、フェリックスの知能が異常に高いことがわかった。
知能が高いことは悪いことではない。むしろ、いいことのはずだが、あまりにも高すぎた。そのせいで、本来の年齢や感情とのバランスが取りにくく、周囲も困惑した。
フェリックスは中身だけが大人になっていった。そして、自分の思い通りに甘えられない不満を抑えるために、自分の外見は子供であっても中身はすでに大人であるため、両親に甘えなくても大丈夫だと思うようにした。
心の中に小さな何かができる。それが少しずつ溜まっていくが、隠す術もうまくなった。
しかし、完璧でもなかった。別の者に甘えたくなった。だからこそ、兄に甘えた。兄だけは甘えさせてくれる存在だった。例え側にいなくても、自分に優しくしてくれる兄がいることが、フェリックスを支えた。
そして、ようやくもう一人、自分を甘えさせてくれる者があらわれた。
リーナ=レーベルオード。死んだと思われた姉リリーナ。
フェリックスは、リーナの与えてくれるぬくもりこそが、自分が幼い頃から求めていたものだと感じた。
姉上が行方不明にならなければ……僕の側にいてくれれば……きっと、寂しくなかった。
姉が死んだと判断されたからこそ、生まれながらにして大公子になれたこともわかっている。しかし、それと引き換えに失った代償がいかに大きなものであったかをフェリックスは悟った。
リーナの不幸を嘆く悲しみの涙は、自分の過去と本当の気持ちをさらけ出す涙になり、リーナから与えられる優しさと温かさに包まれる嬉し涙へと変わった。
側にいて欲しい。僕の側に。ずっとは無理でも、今だけは……僕だけの姉上だ。
フェリックスは自身の涙が止まらなければいいと思った。
優しい姉は涙が止まるまで側にいてくれる。つまり、涙が止まらなければずっと側にいてくれるということだ。
そんな風に考えてしまう自分を狡いと感じるものの、与えられる優しさとぬくもりに包まれたままでいたいという強い気持ちの前では完全に無力だった。





