462 弟と姉
「とても美味しいです」
フェリックスがそう言うと、リーナは安堵の笑みを向けた。
「良かったです。今日は希望されなくてもお茶を淹れるつもりでした。フェリックスのことを大切にしていると伝えたくて」
リーナの言葉に、今度はフェリックスの笑みが深くなった。
「姉上にそんなことを言われたら、嬉しくて帰りたくなくなります」
「でも、まだすぐには帰らないのでは?」
フェリックス達はしばらくの間、エルグラードに滞在することになっていた。
特に政治的な交渉をするフレデリックとルーシェに関してはどの程度の日数が必要になるかわからない。
フェリックス達はウォータール・ハウスでの延泊を希望したが、レーベルオード伯爵は何かあった場合の責任や身の安全を完全に保証することはできないことを理由に断った。
そのため、フェリックス達は当初の予定通りウェストランドの経営するホテルの方に移り、滞在を続けることになった。
ウェストランドはエルグラードの貴族において最大級の特権を持つ貴族になる。しかも、その後ろには第二王子がついていることもあり、特別な警備体制を整えるだけの力がある。
ミレニアスの駐在大使館よりもはるかに安全だった。
「王都にはいます。でも、姉上には会えません」
「私は外出を控えることになっているので、ここに来てくれればいつでも会えます」
リーナがそう言うと、フェリックスは苦笑した。
リーナの言葉は優しいが、正しくはなかった。実際は、状況的に会いたくても会えない。しかし、リーナの優しさや会える可能性を完全に否定するような発言をしたくないとフェリックスは思った。
「……そうですね。時間ができれば会いに来ます。でも、僕も少しやることがあって……大学院や大学をいくつか視察するつもりです。基本的には王立大学院に留学したいのですが、エルグラードに留学したい者は大勢います。王立は最も人気があるのですが、元々大学院の数も受け入れ人数も少ないので、留学の資格を得るのは難しいのです」
リーナはエルグラードで育ったものの、学校には通っていない。正直に言えば、高学歴になるような学校についての話題はよくわからなかった。
「学校の種類に関しては簡単に習いました。大学院が最も高学歴となるようですが、王族であっても入学するのは難しいのですか?」
王族は特別な教育を受けている。つまり、沢山勉強できる条件が整っているため、高学歴の学校にもあまり苦労せずに入学できるのではないかとリーナは思った。
「ミレニアスの大学院であれば簡単です。しかし、エルグラードとなれば事情が違います。僕の成績はミレニアスではトップクラスなのですが、国際的な評価も同じというわけではありません。エルグラードの教育水準が高いこともあって、書類だけで資格を得るのは無理のようです。セイフリードにも相談したのですが、王族は無条件で王立の学校に入れるらしくて……ちょっとズルいなと思いました」
「そうなると、試験や面接などはないということでしょうか?」
「そうです。それに、修了して学位を取るのも非常に難しいとか。セイフリードも入学は無条件でも、卒業に関しては保証されないということでした。王立の学校は王族のためにあるわけではなく、王家に仕える優秀な人材を育成するためにあります。卒業や修了に関しては実力で判定されるらしいです。まあ、王族は学校に通う必要はありませんからね。元々、専任の講師がいます」
「……でも、実際は学校へ通うのですよね?」
リーナは王族や貴族は学校に通うと聞いた。そして、どんな学校を卒業するかで、その先の進学や就職先が決まるとも。
「王族が学校へ行くのは、同年代の者達と知り合い、友人や側近になりそうな者を見つけるためです。そのため、学校での成績はどうでもいいのです」
リーナは少し考えた後、質問した。
「そうなると、王族は学校で勉強しないということなのでしょうか?」
「どちらでもいいのです。ただ、試験でそれなりの点数を取っておかないと進級や卒業ができません。そういったことを考えるのであれば、勉強しておいた方がいいでしょう」
「そうですか……」
リーナは学校を出ていないことを不安に思っていた。
側妃候補として入宮すると、様々な勉強をすることになる。宮廷作法や礼儀作法もあるが、学校で習うようなことについても勉強するということだった。
リーナは学校で勉強していないだけに、どんな勉強をするのかわからない。
パスカル曰く、講師の話をじっくりと聞いてノートに書き取りつつ記憶し、試験の前にそのノートを見て復習すれば問題ないということだったが、記憶できるか以前に講師の話を理解できるかどうかがわからない。
他の側妃候補と一緒に勉強した際、リーナがとても劣っていることが判明してしまい、王太子の相手にふさわしくないと言われてしまいそうで怖かった。
「僕は学校に通うか迷いました。優秀だとわかっているのに、わざわざ学校へ通って勉強する必要があるのかと。それに、見た目が子供です。より年上の者達の中に混じれば奇妙に思えるかもしれません。友人はできないかもしれない、側近になりたい者達が媚を売って来るかもしれないと様々に考えました」
リーナはフェリックスのことをじっと見つめた。
どうみても子供だ。なのに、より年上の者達ばかりがいる学校に通うのはいくら頭が良かったとしても大変なように思えた。
恐らくはいるだけで目立つ。王族であれば余計に。
リーナはもし自分がフェリックスと同じ立場であれば、学校には行かないだろうと思った。
勉強する必要もなく、友人などもできそうにない。機嫌を伺うような者達ばかりが寄って来ることに疲れてしまいそうな気がした。
「父上に相談したところ、少しでも興味があるのであれば行ってみればいいと言われました。気に入らなければすぐに退学すればいいだけで、年齢が上がってからまた行くという手もあると。自ら経験することで、最も正しいと思える判断をするための情報が得られるかもしれない。下見のつもりで入学すればいいと言われました」
「下見……」
「そこで、僕は大学に入学することにしました。居心地が悪ければ退学し、専任の講師をつけて勉強することで学位は取れます。そもそも、僕は王族なので普通の勉強をする意味があまりありません。国を治めるための特別な教育を受けるからです。僕は王位継承権の順位が高いことから、王太子と同じようなことを学ばなければなりません。フレデリック王太子に何かあると父上が王位を継承する可能性があり、その息子である僕も同じく王位を継承する可能性があるからです」
「勉強が難しそうです」
「それほどでもないです。王族らしく、偉そうにしているというだけのことです」
フェリックスはそう言ったが、それはフェリックスが非常に優秀なせいだとリーナは思った。
「僕は大学に行って様々なことを知りました。大学に通っている者達は入学試験に合格した優秀な者ではあるのですが、学歴に箔をつけるために通っているという者も多くいましたし、多くの者達と交流し、友人やコネを作るためという者もいました。僕のように合わなかったら退学しようと思っている者もいました。そういったことを知ることができただけでも、随分気が楽になりました。そして、友人もできました」
「ルーシェ王子殿下ですね」
フェリックスは頷いた。
「他にもいます。全員、僕よりも年上です。本当の友人は年齢など関係ない。身分や生まれた場所が違っても、友人になることはできると言われました。だから、僕は自分よりも年上の者達を友人として受け入れてみることにしました。嫌になればいつでも友人をやめればいいとも言われています。僕は大学に行くのがとても楽しいです」
フェリックスの表情を見たリーナは、弟がミレニアスで不幸な生活を送っているわけではない、友人達がいるのだということに安堵した。
王族だからといって楽で優雅な生活をしているとは限らない。王族だからこそ、優秀だからこそ、裕福だからこそ苦労することもあるはずだと。
「姉上のことを知る前から、僕はエルグラードへの留学を考えていました。不安は多くあるのですが、幸いルーシェも留学を考えているので、一緒に試してみようと思っています」
「フェリックスは凄いです」
リーナは素直に感想を述べた。
「私は……他の国に行くということがとても怖いです。だから、フェリックスがエルグラードに留学することを考えているのは、凄く勇気があると思います」
フェリックスはリーナをじっと見つめながら尋ねた。
「姉上はミレニアスに行くのが怖いのですか? 生まれた国だとわかり、両親がいるとしても?」
「怖いです」
リーナは即答した。
「私はエルグラードで生まれ育ったと思ってきました。そうではないということ自体が驚きで……事実だということは頭ではわかっています。でも、ミレニアスの者だという実感が沸きません。愛国心がないと言われたら、本当にそうだと思います。ミレニアスには申し訳ないのですけれど」
更にリーナは本心を打ち明けた。
「それに……お父様、お母様、フェリックスには本当に申し訳ないのですが、私はエルグラードにいたいのです」
「姉上はエルグラードが好きなのですか?」
フェリックスの質問に対し、リーナはそうだと答えるのは正確ではないような気がした。
なぜなら、リーナが好きなのは国ではない。人だった。





