42 初めてのデート?
「ここでこっそりお菓子の試食をしよう」
リーナは不安そうな表情でヘンデルを見つめた。
「椅子に座って。隣ね」
ヘンデルはソファに座り、隣の場所をポンポンと軽く叩いた。
「ここのお部屋は高貴な方が使用します。誰かが通されるかもしれません。勝手に使ったら不味いのではないでしょうか? 処罰されてしまいます」
リーナは思い切って意見した。
「大丈夫。罪には問われない。保証する」
「でも」
「早くおいで。命令されたい? それとも無礼だって言われたい?」
しぶしぶと隣に座るリーナに、ヘンデルはにっこり微笑んだ。
「いい子だね。さて、どれがいいかな?」
ヘンデルはテーブルの上を見つめた。
「飴はお土産だから、それ以外のお菓子にして欲しい。色々買ったから、好きなのを食べていいよ」
リーナは全く手を伸ばそうとはしなかった。じっとしている。
「お菓子は嫌い?」
「いいえ。でも、ここで食べるのはちょっと……」
「リーナちゃんの部屋まで連れてってくれるの? 凄く積極的だね。ベッドもあるだろうし、襲われちゃってもいいってことかな?」
ヘンデルの飛躍しすぎる考えに、リーナは青ざめた。
「なんてね。そういう誤解を招かないように、ここにしよう。中庭で食べる者もいるけど、人気のない中庭で、こっそり逢引する者達だっている。邪魔しちゃ悪いからねえ」
「でも、掃除する者がお菓子の食べこぼしに気づくかもしれません」
ヘンデルは笑った。
「掃除に来る者は誰がこの部屋を使ったかなんて知らないよ。ここは基本的に侍従が管理する部屋だからね。掃除の監督役である侍女でも使用者については知らない。じゃあ、これから食べようか」
ヘンデルはカップケーキを手に取ると、リーナの口に強引に押し込んだ。
リーナはカップケーキに口をつけてしまったため、諦めたようにもぞもぞと食べ始めた。
「美味しい?」
リーナは頷いた。食べながら返事をするのはよくないと教わっていた。
「リーナちゃんはお化粧しないね。そのままでも可愛いけど、後宮の女性はほとんどが化粧をしているよ。なんでしないの?」
リーナは口の中のケーキを飲み込んだ。
「お金がありません。それに、お化粧をしたことがありません。よくわかりません」
「口紅をつけるのは簡単だよ。周囲に化粧している者はいない?」
「口紅をつけている女性はいますが、侍女のようにしっかりお化粧している人は少ないです。上級召使いや役職付きの者はきちんとお化粧していますけれど、給与が高くてお金があるからです」
「お金があるかどうかで判断するのはよくないよ」
ヘンデルはできるだけ優しい口調でたしなめた。
「化粧も身だしなみの一つだ。場合によっては、きちんと化粧しないと注意されてしまう。上位の者達が化粧をするのは義務だね。制服と一緒だよ」
「制服と一緒なのですか?」
リーナはそんな風に思ったことがなかった。
「まあ、今はいいけどね。若いし階級も低いし」
ヘンデルはニコニコしながらリーナを覗き込むように見つめた。
「もっと可愛くなって欲しいなあ。やっぱり口紅を買ってあげようか?」
「いりません」
「即答だね」
ヘンデルは苦笑した。
「必要ないです。食事をしたらすぐに落ちてしまいます。無駄です」
「そういって否定するのもよくないね」
ヘンデルはまたしても優しくたしなめた。
「リーナちゃんは間違っているわけじゃない。でも、大勢の女性が口紅をつけている。食事をすれば落ちるだろうね。それでもしている。なぜ?」
「なぜ?」
リーナは考えた。
「……少しでも綺麗になりたいからとか」
「正解」
ヘンデルはにっこり微笑んだ。
「食事をすれば落ちてしまうけれど、口紅をつける価値があると思っている。少しでもお化粧をして綺麗に見られたい。可愛く見られたい。きちんと身支度していると思われたい。だから、努力している」
「努力?」
リーナは驚いた。
化粧をすることを、努力だと思ったことはなかった。
「リーナちゃんにその気はなくても、化粧をする女性達の努力を評価していないと思われるかもしれない。正直過ぎると、かえってよくないこともあるからね」
リーナは考えた。
正直なのはいいことだと思う。
ただ、自分はこう思うだけだと言ったせいで、相手を傷つけたくはない。
努力を認めない発言だと勘違いされたくもない。
正直に話すということは簡単なようで、相手にどう思われるかを考慮すればするほど難しいことのように感じた。
「友達はいる?」
「いません」
「どうして?」
「勤務で忙しいです」
「残業はあまりしてないっていったよね。おかしくない? 部屋が一緒の者がいるでしょ? 話したりしないのかな?」
「以前は話していました。でも、色々あって今は一人だけの部屋です」
「召使いでも個室が使えるの?」
ヘンデルはやや驚いた。
個室を使えるのは役職付きやそれなりに上の者のはずだ。
ただの召使いであるリーナが使えるのはおかしかった。
「二人部屋なのですが、同室者がいません」
「なるほどね」
ヘンデルは納得した。
「食堂とか浴場とかで会う者もいるでしょ? 親しくしている者はいないの?」
リーナはうつむいた。
落ち込んでいるようにしか見えない。
「もしかして召使いに出世したから、妬まれちゃった?」
リーナは下働きだったが、クオンと会った一件で召使いに昇格した。
リーナは若い。早い出世は嫉妬されやすい。それが普通だ。
「いいえ。昇格したのは祝福して貰えました。でも……」
「言ってごらん。誰かに言うだけでも、心が楽になることもある。お菓子を一緒に食べようっていう程度には好意を持っているのもわかるよね? 大丈夫だよ。秘密にする」
ヘンデルの言葉がリーナの心を揺さぶった。
ずっと心の中に仕舞い込んでおくのが辛くなる。
言いたくなった。聞いて欲しくなった。唐突に。
「……私が担当している場所で、汚れが酷い場所を見つけました。上司に報告すると、前任者がきちんと掃除をしていなかったということになりました。前任者は解雇されてしまいました。しかも借金があったので、投獄されたらしいのです。噂で聞きました」
「それは仕方がないよ。きちんと仕事をしてなかったからでしょ?」
「でも、投獄なんて……」
「悪いことをしたら、子供だって投獄されるよ?」
ヘンデルは当たり前のことだというような口調で答えた。
「誰だって失敗することがあります。見逃すことだって。なのに、注意では済まなくて解雇になりました。私のせいです。だから、他の者に距離を置かれました」
「周囲がどう思うかは勝手だけど、前任者がきちんと仕事をしてなかったのは事実だし、投獄の判断になるようなことをしていたからだよ。リーナちゃんのせいじゃない」
ヘンデルは断言した。
「後宮はちょっと特殊な場所だ。王宮地区にあるから重い処罰になりやすい」
注意だけじゃ済まないことも沢山ある。
解雇は勿論、投獄や処刑もある。
「王宮地区での仕事は誰でもできるわけじゃない。信用できそうな者を採用している。信用を裏切れば罪は重くなる」
「信用……」
「ペンを盗んだとする。窃盗罪だ。街にある普通の家で盗まれるのと、後宮で盗まれるのでは罪の重さが違う。後宮の方が重くなる。このことを知っているかな?」
「知りませんでした」
リーナは素直に答えた。
「後宮内でリーナちゃんのペンが盗まれたとする。リーナちゃんのペンは十万ギニーの高価な品だ」
「違います! そんなにしません!」
「例えばだよ」
ヘンデルは笑いながら話を続けた。
「一方、後宮の備品のペンが盗まれたとする。一万ギニーの安物だ」
「安物じゃないです。高価です」
「聞いて」
「はい」
「どっちの窃盗罪が重いかっていうと、後宮の備品のペンを盗んだ方だよ」
「えっ?」
リーナは予想外の答えだと思った。
普通はより高価な品を盗んだ方が、罪が重くなるような気がした。
「金額的にはリーナちゃんのペンの方が高い。でも、後宮は国王が所有している。備品も国王のものと考えておかしくない。金額に関係なく、国王のものを盗んだ罪は重いと判断される」
国王という言葉が出て来るとは思わなかったリーナは茫然とするしかない。
だが、説明されれば納得だ。
国王のものを盗めば重い罪に問われ、厳しく処罰されるに決まっている。
「もう一つ例をあげよう」
後宮には沢山のトイレがある。
召使いが使用するトイレの汚れに気づかず、掃除をしていなかった。
高貴な者が使用する可能性がある控えの間に付属するトイレの汚れに気づかず、掃除をしてなかった。
「罪が重いのはどっちかな?」
「控えの間の方です」
リーナはすぐに答えた。
「その通り」
ヘンデルは満足そうに頷いた。
「普通の場所だったら注意で済んだ。でも、リーナちゃんが問題を発見したのは、非常に重要な場所だった。だから罪が重い。厳しく処罰された。違う?」
「あっ!」
リーナは自分の担当が重要な場所であることを改めて思い出した。
普通の場所ではない。高貴な者が使用するかもしれない場所だ。
召使いが使用する場所とは全然違う。
「処罰の時は詳しく調べられる。普段の勤務態度や生活態度もね。それも最終的な処罰に反映されている。重い処罰になったのであれば、それに見合うだけの何かがあったということだ。リーナちゃんが知らない理由も色々あるってことだよ」
「私の知らない理由……」
全然考え付かなかった。
それがリーナの率直な感想だ。
「解雇になったのは絶対にリーナちゃんのせいじゃない。何か問題があったせいで総合的に解雇の判断になっただけだよ。普通に考えればそれがわかるはず。わからないのは、頭が悪い証拠だね。リーナちゃんが解雇したわけじゃないのにさ。ぶっちゃけ悪口を言うなら人事権のある上司か後宮の方じゃん? それができなくて八つ当たりされただけだよ」
ヘンデルはリーナを庇うように言葉を続けた。
「無責任なことを言ったり、それを煽るような者もいる。リーナちゃんが早く出世したから嫉妬したんじゃないかな? 評判を落とせば出世コースから外れるからね。気にしなくていいよ」
ヘンデルはリーナに優しく微笑んだ。
「大丈夫。俺はリーナちゃんの味方だよ。リーナちゃんは悪くない」
リーナはうつむいた。涙がでそうになるのを堪える。
嬉しい……。
自分を見る視線が全てお前のせいだといっているように感じていた。
リーナ自身もそう思っていた。自分のせいだ。悪いのは自分だと。
そうではないと言われたことで、これほど救われたような気持ちになるとは思わなかった。
ヘンデルの言葉がリーナの弱っていた心を慰めた。