364 妹への愛
部屋に戻ったリーナの眠気は強くなってしまい、着替えを召使いたちにほぼ任せた。
「すみません……自分で着替えないといけないのに」
「私たちはリーナ様のお世話をするのが仕事です。遠慮なくお任せください。むしろ、仕事がないと困ってしまいます」
「そうですね。仕事がないと困りますよね」
リーナは元孤児。
生きていくには働く必要がある。仕事があることの大切さを知っていた。
「では、寝ます。おやすみなさい」
「おやすみなさいませ」
リーナが寝室のベッドに入ると、召使いたちが毛布をかけ直したり、部屋履きを整えたりした。
その光景を見たリーナは幼い頃に乳母や世話係が同じようにしてくれたことを思い出した。
「ありがとうございます。安心して眠れます」
リーナがそう言うと、召使たちは優しい笑みを浮かべた。
深々と頭を下げてから召使いたちが退出すると、静かにドアが閉められた。
リーナは目を閉じた。
ゆっくり眠れそうだと思ったが、次の瞬間にパチリと目を開けた。
「ああっ!」
リーナは急いで飛び起きると寝室のドアを開けた。
「すみません!」
居間の整理整頓や確認をしていた召使いたちは驚いた。
「リーナ様!」
「いかがされましたか?」
「何か問題がありましたでしょうか?」
「聞くのを忘れていました! 明日、何時に起きればいいでしょうか?」
召使たちはそういうことかと思った。
「起床時間は七時です」
「朝食は八時になります」
「マナーレッスンは九時からの予定でございます」
「七時ですか。遅くて良かったです!」
早朝勤務に慣れていたリーナにとって、七時起床は遅い時間という感覚だった。
しかし、一般的な貴族の令嬢にとってはかなりの早起き。
学校に通っているならともかく、社交中心の女性であれば早すぎると言われてもおかしくない時間だけに、召使いたちは驚いていた。
「起床時間に担当の者が起こしにまいります」
「安心してお休みくださいませ」
「朝のお支度についても、私共の方にお任せくださって大丈夫ですので」
「心強いです。おやすみなさい」
「おやすみなさいませ」
リーナは寝室に戻ろうとしたが、自分のあとを召使たちがついてくるのに気づいた。
「何かあるのですか?」
「リーナ様がベッドに入られたあと、整えないといけませんので」
「あ……」
リーナは召使たちがもう一度仕事をしなくてはいけなくなってしまったことに気が付いた。
「すみません。でも、自分で整えるので大丈夫です」
「仕事をしないわけにはいきません」
「どうかお任せください」
「これが私たちの役目ですので」
「本当にすみません。先に聞いておけばよかったです。次は気をつけます」
リーナはもう一度ベッドに入り、召使たちはもう一度ベッドの周りを整えた。
「おやすみなさい」
「おやすみなさいませ」
召使たちは寝室を退出したあと、リーナがまた起きて来ないかどうかが気になった。
取りあえずはもう一度居間の見直しと確認をしていると、書類封筒を持ったパスカルが来た。
「リーナは?」
「就寝されました」
「ベッドに入られたばかりです」
「まだ眠られていないかもしれません」
「確認してくる」
パスカルは寝室に入った。
疲れたリーナは安心したのもあってすぐに眠ってしまっていた。
パスカルが名前を呼んでも起きない。
無防備な寝姿はあどけなく、このまま一緒に眠りたいほど可愛らしいとパスカルは思った。
しかし、そういうわけにはいかない。
子ども同士であれば許されたかもしれないが、大人になってからはできないこともある。
過去には戻れない……。
子どもの頃、パスカルは遠く離れた場所で暮らす母親や妹のことを考えながら過ごしていた。
母親は体が弱く、ベッドからなかなか起きることができなかった。起きることができたとしても長時間は無理。すぐに疲れてしまい、めまいを起こすことも多かった。
妹もきっと同じ。母親と一緒に過ごせない。寂しい想いをしているに違いない。
兄として妹の側にいたい。守ってあげたい。
添い寝をしたり、絵本を読んであげたり、一緒にポニーに乗る。手をつないで庭園を散歩し、花や植物について教える。虫がいたら追い払う。毒のある植物にも気をつける。危ないものには触れさせない。
誰よりも大切にする。たった一人の妹を。父親が違っても大切な家族として。
パスカルにとって、姿がわからない妹については想像するしかなかった。
そして、想像の妹は理想の妹と同じだった。
兄妹として常に心から寄り添い、愛し合い、支え合う存在。
そうであってほしい。そうでありたい。
心を蝕もうとする孤独に対抗するように、パスカルはまだ見ぬ妹に愛情を注ぐことで家族の温もりを感じていた。
だからこそ、妹が死んだという知らせは、パスカルに大きな喪失感をもたらした。
心の中にある温かさが消えてしまった。死という絶対的な冷たさに覆われてしまい、救いようもなかった。
一度も会ったことがない妹の存在に、どれだけ自分が救われていたのかをパスカルは思い知ることになった。
……愛しているよ。僕の妹として生まれてきてくれた時から。
パスカルは手を伸ばし、リーナの髪を優しく撫でた。
リーナは安心したような表情ですやすやと眠っており、起きる様子が全くなかった。
パスカルは心の底から湧き上がる愛情を伝えたくて、リーナのこめかみに口づけた。
その瞬間に漂ったのはジャスミンの香り。
ジャスミンの香りには精神を高揚させ、不安やストレスを和らげる効果がある。
新しい環境への不安を少しでもなくすことができるようにと言い、リーナの身の回りの品にジャスミンの香りのものばかりを用意させたのはパスカルのエゴ。
自分の好きな香りを妹の香りに決め、リーナに纏わせることで本当に妹の香りにしたいと思った。
甘くて魅惑的だ……ジャスミンの香りも、リーナも。
パスカルは心を落ち着けるように一息ついた。
寝室に長居はできない。兄妹とはいえ、召使いたちは血のつながりについては知らされていない。養女になったからこその家族関係だと思われている。
あらぬ噂になっては困ることをわかっていた。
明日になればまた会える。朝一番に。
パスカルは静かに寝室を出た。
居間の整理整頓と確認が終わったあとも、召使いたちはパスカルが戻ってくるのを待っていた。
「リーナはぐっすり眠っているようだ。声をかけても全然起きない。起床時間は?」
「七時とお伝えしました」
「六時に起こしてほしい。重要な書類にサインをもらう必要がある。それがないと出勤できない」
「かしこまりました」
リーナはパスカルが来たことも、起床時間が変更されたことも知らない。
ふかふかのベッドで心地よく眠り続けた。





