321 兄と妹(一)
四日目の早朝。
起きたばかりでまだ眠いリーナから、パスカルは甘く優しく接し、巧みな話術で昨日あったことを全て聞き出した。
「可哀想に。つらかったね」
パスカルは慰めるようにリーナを抱きしめ、その頭を優しく撫でた。
「エルグラードとミレニアスはとても大きな問題を話し合っている。ここだけの話だけど、うまくいっていない。そのせいで交渉者以外にも接触して、情報や活用できそうなことを探っている」
「大変そうです」
「リーナも対象者だ。王太子殿下の恋人だから、キフェラ王女のように調査という理由や高い身分を盾にして面会しようとする。そして、正論や真実の中に巧妙な嘘を混ぜて不安を煽り、惑わそうとする。リーナは血のつながった兄の僕を信じてくれる?」
「もちろんです! 心から信じています!」
「嬉しいよ。じゃあ、リーナのことを恋人にするほど大事にしている王太子殿下と、名前や顔をちょっとだけ知っているキフェラ王女のどっちを信じる?」
「王太子殿下です」
「本当に?」
「本当です」
「良かった。王太子殿下は重要な話し合いをするためにミレニアスに来ている。リーナのことも大事だけど、エルグラードのことや国境付近で犯罪の被害にあっている人々のことも考えないといけない。とても忙しくて大変な状態だ。それはわかるね?」
「わかります」
「王太子殿下を支えたいと伝えるのはいい。でも、恋人をやめたいと言ったら、王太子殿下を困らせてしまう。新たな問題が発生ということになる。それもわかるかな?」
「……ごめんなさい」
「リーナが不安になるのは仕方がない。孤児院で育った経歴は悪い印象を与えてしまうのも、王太子殿下の妻になるのが難しいのも事実だ。でも、それはずっと前からわかっていたことだよ」
それでも王太子はリーナを恋人にした。
レーベルオード伯爵家で養女にした。
王太子やレーベルオード伯爵家がリーナのことを真剣に考え、なんとかしようと思っている証拠だとパスカルは伝えた。
「リーナは王太子殿下が嫌いなのかな? 本当は身分が高い者だから、嫌だって言えないだけ?」
「違います!」
リーナははっきりと否定した。
「クオン様のことが好きです。だけど、足を引っ張ってしまうと思って……」
パスカルは優しく微笑んだ。
「王太子殿下はとても優秀な方だ。足を引っ張ろうとする者は大勢いるけれど、それに負けない強さがある。心配しなくていいよ」
「王太子殿下の足を引っ張ろうとする者がいるのですか? しかも、大勢なのですか?」
リーナは驚いた。
「そうだよ。王太子らしくあれと望む人々だ」
リーナは目を見開いた。
「あえて名前で呼ぶけれど、クルヴェリオン様は王妃の息子、第一王子として生まれた時から王太子として生きてきた。自分のことだからこそ、王太子がどういうものかをよくわかっているよ」
常に自分のことだけを考えてはいけない。国民のことを考えるようにしなければならない。
楽をするのは許されない。重い責務は当然。
エルグラードを豊かに、国民を幸せにするために誰よりも多くの執務をこなさなくてはならない。
どれほどつらくても苦しくても、王太子をやめることはできない。
難しいから、苦手だからといって執務を放り出すわけにもいかない。
エルグラードという国や国民の命運がかかっていることを理解し、受け止めなくてはならない。
現国王が作った体制を強固にして定着させ、改善を重ねながら問題を解決し、より良い未来へ導いていかなくてはならない。
周囲にいる人々は正論を言っているつもりだが、見方を変えれば王太子らしくさせるための強制でもあった。
人々が理想とする王太子像を押し付けられ、言葉では到底言い尽くせないほどの苦労を重ねてきたことをパスカルは伝えた。
「王太子殿下は人間だ。神とは違うし、何でもできるわけではない。それでも、懸命に王太子らしくあるよう努め続けている。それこそが立派な王太子である証拠だよ。あとは王太子殿下を信じて任せればいい。王太子殿下の人生に他人が余計な口を出すのは迷惑だよ」
パスカルの説明を聞いたリーナは深くうなだれた。
「私はクオン様に口出しをしてしまいました。やっぱりお側にはいない方がいいみたいです」
「それは間違いだ」
パスカルは強い口調で否定した。
「王太子殿下は誰もよりも大変だからこそ、誰よりも支えなくてはいけない。王太子殿下が倒れることは、エルグラードが倒れることと同じなんだ。わかるかな?」
「わかります」
「優秀な者が支えるべきだと思う人々が多い。でも、それは違う。国民全員で支えるべきなんだ。そして、王太子殿下に信頼されている者はその信頼に応えるために努めるべきだ。それもわかるかな?」
「わかります」
「王太子殿下がリーナを恋人にしたのは、誰よりも側にいてほしい女性だからだ。側にいることで、王太子殿下を支えることができる。リーナの考えは逆だ。間違いを正さなければいけないよ」
リーナはうつむいた。
「リーナは自分に自信がない。でも、僕が初めて会った時のリーナよりもずっと成長しているよ」
パスカルは優しい眼差しでリーナに微笑んだ。
「これからも成長できる。ゆっくりでいい。少しずつでもね。焦らずに自分のできることをしていこう。ミレニアスに来たことだって大きな経験になる。成長するきっかけになるよ」
リーナは大きく息をついた。
心の中に溜めこんでいたもやもやとした気持ち、不安が少しだけ消えた気がした。
「不安な時は僕のところへおいで。兄として力になる。必ず助けるよ。どうすればいいかも教えるからね。わかったかな?」
「……はい」
リーナは頷いた。
「もう一度言うけれど、今はエルグラードとミレニアスで交渉をしている。ミレニアスの者の言動に注意してほしい。難しいだろうけれど、インヴァネス大公夫妻、フェリックスの言葉も同じだ。本心から信じてはいけない」
「どうしてですか? 家族なのに信じないなんておかしいですよね?」
「家族だからずっと側にいてほしいと思う。だから、そのために嘘をつく可能性がある」
一番気をつけなければいけないのは、王太子のためにならないというもの。
リーナだけでなく誰もが納得しそうな正論を掲げて説得しようとする可能性をパスカルは指摘した。
「リーナのため、王太子殿下のためだと言うだろう。でも、本当は自分たちのためだ。リーナと一緒に暮らしたいという目的を叶えるためだよ」
「……でも、私の幸せを願うからかもしれません。家族のことを疑いたくありません」
「わかるよ」
パスカルは頷いた。
「インヴァネス大公妃は僕の母親だし、エルグラード人だ。だから、理解できると信じている。リーナが幸せになるにはエルグラードにいた方がいいということをね」
ミレニアスでは身分が重視される。
できるだけ身分が高い者と婚姻することが幸せだと考えられてもいる。
政略結婚する確率がとても高く、身分差がある相手と恋仲になることは許されない。
人権に対する意識が低く、本人の意志が尊重されにくい。
特に女性の立場はかなり弱く、両親や当主などの上位者に従うしかないというのが実状であることをパスカルは話した。
「エルグラードで育ったリーナにミレニアスの価値観は合わない。好きな相手と結婚できないのが当然の国にいてもつらいだけだと思うよ」
……お兄様の言う通りかも。
リーナはそう思った。





