269 国王と宰相
エルグラード国王ハーヴェリオンは薄暗い部屋で何度もため息をついていた。
執務机の上には書類が多くあるが、離れてているテーブルにも山になっている。
それらに全て署名をしなければならないと思うと、ハーヴェリオンのやる気は減るばかりだった。
「少しは書類が減ったか?」
部屋に入っていたのは国王の盟友であり宰相のラグエルド・アンダリアだった。
「署名のし過ぎで手が痛い。休んでいた」
「書類が滞り過ぎている。さっさと署名してほしい。王太子ならすぐにこなす量だが?」
ハーヴェリオンは優秀な王太子になってくれた息子クルヴェリオンを思い出す。
またしても出るのはため息だった。
「今頃はチューリフだろう。私からの手紙を見て、クルヴェリオンが激怒している姿が目に浮かぶ」
「仕方がない。国益のために王族が我慢をするのは普通のことだ。そもそも正妃の候補にするだけだ。正妃にしろとも婚姻しろとも言っていない」
「だが、いずれは正妃にするという流れを強めることにはなる。結果的に正妃にするしかないという流れに持ち込みたいのだろう?」
「持ち込みたいのは私ではない。他の者だ」
「ラーグ、私は悩んでいる」
「いつものことだ」
「クルヴェリオンがようやく結婚を検討してくれた。リーナ・レーベルオードを正妃にすることをどう思う?」
「リーナ・レーベルオードは元平民の孤児だ。出自がはっきりしない者を正妃にするわけにはいかない。それは誰もがわかっていることだ。感情論ではどうにもならない」
「インヴァネス大公夫妻の娘であれば可能だ」
「確定ではない。確定しても公にできるかわからない」
インヴァネス大公女リリーナ・インヴァネスは八歳で死亡したというのが現時点におけるミレニアス王家の正式な扱い。
それを覆してまで、リーナをリリーナ・インヴァネスとして迎え入れるかどうかはわからなかった。
「私は失敗した。息子にも同じ失敗をしてほしくない」
「リエラのことか?」
「そうだ」
ラグエルドは深いため息をついた。
「今更だ。リエラの死を無駄にしないためにも、国王の座を守り通さなければならない」
「何十年経ってもラーグの言葉は変わらない。私もずっとそう思って来た。だが、最近は考えが変わって来た」
「どのように変わって来たというのだ?」
「退位したい」
ラグエルドにとっては聞き飽きたセリフだった。
「またか。この国を綺麗に掃除してから息子に王位を譲るのではないのか?」
「いくら掃除しても綺麗にならない」
ラグエルドは首を横に振った。
「そんなことはない。反逆者を一掃し、一部の貴族だけが政治を独占する体制を変えた。エルグラードは着実に綺麗になっている」
「ならば、余計に私ではなくてもいいのではないか?」
ハーヴェリオンは盟友に問いかけた。
「国王になって長い。疲れた。休みたい」
「冷静になれ。今、お前が退位したらどうなる?」
「クルヴェリオンが国王になる。任せればいいだろう?」
「新しい国王を支えるのは誰だ?」
「ラーグと重臣たちとクルヴェリオンの側近たちだ」
「また同じことが起きる。前国王に仕えていた者たちが、新国王を苦しめる」
「私の側近たちを全員辞めさせればいい」
「私以外の者は辞めたがらない。抵抗するだろう。新しい国王の若い側近たちに大人しく従うような者は一人もいない」
「だからこそ、勢力調整をしてきたはずだ」
国王が変われば、前王の元で権力を握って来た者がその座を追われる。
反発が起き、新国王体制の足元が揺らぐ。
そうならないように、ハーヴェリオンは自分の勢力を少しずつそぎ落とし、王太子の勢力を影から支え育てて来た。
その筆頭がキルヒウス。
クルヴェリオンが新国王になった時に宰相を務めることができるように選び、王太子の側近にした。
キルヒウスは首席補佐官として王太子を支え、王太子府をまとめ上げた。
そのあと、弟のように思っているヘンデルを王太子の側近を務めることができるように育て、王太子の首席執務補佐官の座を譲った。
ハーヴェリオンもラグエルドも驚愕したが、重責に思い悩む王太子の心を支えるためにはそれが正解だった。
キルヒウスが目指しているのは、クルヴェリオンが新国王になった時に自分が宰相になり、ヘンデルが国王首席補佐官を務める体制であり、現在進行形で準備が進んでいる。
しかし、別の部分が揺らぎだしていた。
「王太子のせいでまたやり直しになる。元平民を正妃にしたいという王太子では、貴族の支持者が減ってしまうだろう」
「身分主義の勢力はまだ強いからな。クルヴェリオンもわかっているはずだというのに」
「王太子は側妃制度に反対している。どのような出自の者であっても正妃にしたいと言うだろう」
「愛する女性を妻にしたいというのは理解できる。私もそうだった。ダメなものほど欲しくなることもある」
「お前は英断した。リエラを正妃ではなく側妃にした」
「結局は失った」
ハーヴェリオンは深い後悔をにじませながらため息をついた。





