215 優しさに気づいて
だが、静かな時間は長く続かなかった。
ぐぅ。
小さな音が鳴った。
「クオン様、ごめんなさい」
恥ずかしさに震えながら、リーナはクオンを見上げた。
「お腹が空きました」
クオンは優しいまなざしでリーナを見つめていた。
「そうだろう。夕食を取っていない。リーナは正直だ」
ますますリーナは恥ずかしくなった。
「私も夕食を食べていない。何か食べるものを用意させる」
クオンはリーナをそっと離した。
立ち上がって寝室のドアを開けに行くと、居間でうたた寝をしていたヘンデルに声をかけた。
「ヘンデル、リーナが起きた。食事を用意させろ」
「あー、うん、わかった」
大きなあくびをすると、ヘンデルはソファから起き上がった。
クオンはすぐにリーナの元に戻った。
「私が離れてどう思った? 寂しくなかったか?」
「寂しかったです」
リーナが自分を必要としていると感じたクオンは嬉しくなり、もう一度リーナを抱きしめた。
「そうか。私を頼ればいい」
「はい」
少しすると、食事の準備が整えられた。
リーナはクオンに手を引かれ、居間のソファまで連れて行かれた。
「ここで食べる」
ソファの前にあるテーブルには、さまざまな軽食が並んでいた。
「お茶を淹れますね。ミルクティーでよろしいでしょうか?」
クオンはリーナと二人で話しながら食事をするため、ヘンデルも給仕の者も下がらせていた。
「それでいい」
リーナがお茶を淹れている間に、クオンは大皿にある料理を選んで小皿に取り分けた。
「クオン様、お茶が入りました」
「リーナの分だ」
クオンはそう言うと、リーナに小皿を差し出した。
リーナはお茶のカップをテーブルの上に置くと、両手でクオンから差し出された小皿を受け取った。
小皿にはサンドイッチやカナッペ、ハムなどが乗っている。
フォークはどこかと視線をさまよわせるリーナに、クオンは言った。
「手で食べればいい。今は私たちだけだ。私も手で食べる」
クオンはそう言うと、自分の小皿にあるサンドイッチを手で取って食べた。
リーナもクオンの隣に座って手で食事を始める。
クオンはリーナの淹れたお茶を飲んだ。
「美味しい」
リーナはとても嬉しくなった。
何度も練習した甲斐があった。努力が報われたと感じた。
「淹れるのがうまくなった」
「頑張って練習しました。クオン様に美味しいお茶を飲んでいただきたくて」
リーナの言葉にクオンもまた嬉しくなった。
「私は甘い物が好きだ。その甘さをより堪能するため、飲み物に砂糖は入れない」
「クオン様の好まれるお茶についてはアリシアさんに教えていただきました」
「そうか。だが、王族が好む食べ物に関する情報は軽々しく口にしてはいけない。異物の混入を防ぐためだ」
「毒物の予防ですよね。それもアリシアさんから聞きました」
「勉強しているようだ」
「これからも頑張ります。飲食物のお勉強は楽しいので大好きです!」
クオンは待遇の話を思い出した。
「ここへ来る途中の食事や待遇について、不満があったそうだな?」
「不満というほどのものではないです。でも、エルグラードとミレニアスでは考え方が違うというのがわかりました」
「インヴァネス大公ともその話をした。インヴァネス大公領ではできるかぎり配慮したいが、チューリフでは難しいという話だった」
国によって制度が異なり、考え方も歓待の仕方も変わる。
ミレニアスは身分や階級にこだわり、何かと差をつけるのが常識だった。
インヴァネス大公としてはエルグラードから来た全員にできるだけの配慮をしたいが、ミレニアス王やその重臣たちは違う。
歓待すべきはエルグラード王族とその側近のみ。
それ以外の者についてはただの同行者でしかないと思っている。
ミレニアスでは女性の立場自体が低く、侍女は階級の高い召使いの扱い。
リーナが王族付きの女官ではなく侍女であることを、インヴァネス大公はかなり気にしていた。
「チューリフに向かうにあたって、リーナとメイベルは一時的な処置として侍女官にすることにした」
「侍女官?」
「侍女と女官を兼任する者だ。それで少しは待遇が変わるかもしれない」
侍女だと軽視されるため、軽視されにくい女官も兼任する形になるようだとリーナは思った。
「ミレニアスに来たのは大きな理由がある。リーナの素性調査もその一つだが、両国の関係にかかわる重要な話し合いをするためだ。王太子としての執務だけに優先だ。理解して欲しい」
「大丈夫です。私の方の目的はもう終わってしまいました。これからは第四王子付きとしてのお仕事に専念します」
まだ終わっていない。続きがある。
クオンはそう言いたくなったが、言えないこともわかっていた。
もう一つの別邸をリーナが知っているかどうかはわからない。
希望があると思わせ、またしても希望が消えてしまうような目に合わせたくもなかった。
「私が雇用しているだけに配置換えはすぐにできる。ミレニアスにいる間は王太子付きだ」
「わかりました」
「食べながらでいい。セイフリードのことも教えてくれるか? 気難しい性格だけに苦労しているだろう?」
「大変です。でも、私が不足なせいです。そのことを申し訳なく思います。でも、セイフリード王子殿下は優しい方なので大丈夫です!」
クオンには意外だった。
優しいという言葉が。
「セイフリードを優しいと思うのか?」
「思います。かなり複雑な感じですけれど、ちゃんと優しい心をお持ちです」
「どういったところが複雑で、優しい心があると感じるのだ?」
「正論をふりかざそうとします。実際、そのお言葉は正しいです。公平だったり客観的だったりするのですが、素直にそうだなと思いにくいような言い方をします。人によっては嫌味のように聞こえるかもしれません。もっと柔らかいお言葉であれば、きっとすぐに受け入れられます」
それはクオンも思っていることだった。
しかし、セイフリードを否定することになってはいけないと感じ、本人には言えないでいた。
「優しいと思うところは……注意のあとに必ず理由や正しいやり方を教えてくれることとか、椅子の位置の変更をしてくれたこととか、ひざ掛けをくれたことでしょうか」
「ひざ掛け?」
「私はいつも図書室の壁際にある椅子で待機していたのですが、廊下側は寒いのです。セイフリード王子殿下はそのことを察したようで、暖炉の側に椅子を移動してもいいと言ってくださいました。ソファの上にあるひざ掛けも使っていいと言ってくださって」
リーナはその時のことを思い出しながら微笑んだ。
「私はただの侍女です。しかも、失敗ばかりです。王族が配慮する必要なんてこれっぽっちもないのに気遣ってくださいました。優しい証拠です!」
リーナはセイフリードのことを理解してくれている。
クオンは嬉しくなった。
そして、リーナと一緒にいられる弟が羨ましくもなった。





