1258 信念と覚悟
部屋に入って来たクオンを見たリーナはソファから立ち上り、深々と頭を下げた。
「申し訳ございません。クオン様にお会いするため、叱責を覚悟の上で王都に戻りました」
それはクオンの指示違反になることがわかっていて、リーナが王都に戻ったということ。
「お兄様とユーウェインにはヴェリオール大公妃として正式に命令しました。責任は命令を出した私にあります。二人については寛大なご配慮をお願いいたします」
「パスカルは下がれ」
「はい」
パスカルは一礼すると部屋を退出した。
居間にいるのはリーナとクオンの二人。
夫婦だけで会うのはレーベルオードの応接間ではなく、リーナの部屋になった。
それはクオンがエルグラードの王太子としてではなく夫としてリーナに会うことにしたからだった。
「リーナ」
「はい」
「指示違反はよくない。命令違反よりは軽いと思ってもいけない。私の意向を無視すれば、王族妃であっても重い罪に問われる可能性がある。王家の者であれば処罰を免れるわけではなく、余計に重くなってしまうこともあるだろう。慎重さが必要だ」
「はい」
「今回は特別に許す。なおっていい」
リーナは顔を上げ、じっとクオンを見つめた。
「本当はかなり怒っていますか?」
「怒れない。私もお前に会いたかった」
クオンは手を伸ばすとリーナを抱きしめた。
ようやくだ……。
愛する者を抱きしめることができる幸せ。
どうしようもないほどの喜びが溢れていくというのに、怒れるわけがないとクオンは思った。
「凛として座る姿も、潔く謝罪する姿も王族妃らしかった。王太子領で経験を重ね、成長した証拠だろう。だが、突然戻ってくるとは思わなかった」
「どうしてもクオン様に会いたかったのです」
クオンの強くて温かいぬくもりを感じたリーナは胸がいっぱいになった。
長かったです……やっとクオン様に会えました!
延長につぐ延長。クオンに会いたい気持ちは募るばかりだった。
それでもリーナは自らの責務を果たすため、王太子領に留まった。
自分を信じて任せてくれたクオンの気持ちにしっかりと応えたかった。
「とても嬉しい。だが、私がここへ来たのは、大事なことを伝えるためだ」
クオンは冷静な表情でリーナを見下ろした。
「私はエルグラードの王太子だ。責務を果たさなくてはならない」
リーナの表情が不安を示すように強張った。
「ザーグハルドから縁談の申込みがあった。私とバーベルナの婚姻だ。エルグラードの未来にかかわることだけに、慎重に対応しなければならない。王都は騒々しく、勝手な予想をしている者が多くいる。お前の耳に入れたくない。王太子領に戻れ」
「でも」
「極秘で来たのは賢明だった。このまま戻れば誰も責任を問われない。王太子領は私にとって特別な領地だ。新案を進めろ。別のことを手掛けてもいい。改善できそうなところがあるなら改善してほしい」
成人した王太子は、王太子領の正式な領主になる。
それは国王として広大なエルグラードを統治する前に、王太子領の領地運営をすることで、統治について学ぶためだった。
王太子領の領地運営を成功させれば、王太子には統治力、国王としての資質がある証明になることをクオンは教えた。
「リーナが王太子領民に受け入れられるのは、国民に受け入れられるのと同じだ。王族妃の資質が備わっていることの証明になる。実績も成功も多い方がいい。だからこそ、領主代理にした。わかってくれるな?」
「どうしても聞きたいことがあります。縁談を断るための時間稼ぎはいつまでするのですか?」
クオンは驚いた。
「何か聞いたのか?」
「セイフリード様が王都に戻る前に時間稼ぎが必要だと言ってました。すぐに縁談を断るとザーグハルドだけでなく他の国々からも非難されてしまいます。なので、自分が縁談を検討するということでした。でも、そのような発表がありません」
クオンは深いため息をついた。
「セイフリードか」
「弟たちを守るため、クオン様が縁談を検討することにしたと聞きました。そのことも発表されていません」
「それは誰から聞いた?」
「フレディ様です。西の経済同盟のことでインヴァネス大公の代理を務めていたので、エゼルバード様から内密に聞いたようです。インヴァネス大公が激怒していることも聞いたので、冷静に見守ってほしいと伝えてくれるよう頼みました」
リーナには味方がいる。
クオンが何も話さなくても、他の者から情報が伝わっていた。
「リーナが知っていることは国家機密だ。政治と関わることだけに、通常は王族妃であっても教えられることはない。この件については秘密にしてほしい」
「秘密にしたいのはわかります。でも、このままでは騒がしくなるばかりでは?」
リーナはずっと疑問に思っていた。
「公式発表をすれば、どのような内容であっても騒がしくなります。縁談は断るのですよね? もしかして受けることを検討しているのですか? 妻は私だけと言っていたのに違うのですか? はっきりしてください! これ以上の不安には耐えられません!」
リーナの表情を見たクオンは、冷静さを保つように伝えるだけではダメだと気づいた。
リーナはどうしようもないほどの不安を抱えている。限界を感じて王都に来た。
このまま何も言わずに王太子領に戻すのは苦しむリーナを見捨てるのと同じ。
クオンには到底できないことだった。
「夫として誠実でありたい。だからこそ話す。縁談は絶対に受けない」
クオンは断言した。
「だが、そのことを発表しただけでは事態を収拾できない。国際的な批判を浴びてしまうのがわかっている。個人的感情を優先して国益を捨てたと勘違いされてしまうだろう。国民の理解も得られない」
一夫多妻制はエルグラード王家の血筋を守るために作られた制度だったが、王権を強化する政略結婚にも活用されてきた。
古い時代は王族や貴族は家を守るために政略結婚をするのが当然の義務とされており、現在もその考え方が根強く残っている。
政略結婚をしないのは責務の放棄、ただの我儘であり、王族として相応しくないと思う人々がいるのは普通だということをクオンは話した。
「私がリーナだけでいいと言っても、それを否定する人々がいる。その数が多く声が大きいほど難しい状況になってしまうだろう。まさに今回がそのような状況だ。それでも私は自らの信念とエルグラードの未来のために立ち向かわなくてはならない。私の妻である以上、リーナにも覚悟が必要だ」
「もちろん、覚悟があります!」
「それなら問題ない」
「いいえ、問題があります」
リーナはクオンを強い眼差しで見つめた。
「執務について私には言わないと決めているのは知っています。でも、縁談は夫婦関係に大大大影響を与えます! 妻に何も言わないのは不誠実です!」
リーナはずっと言いたかったことを伝えることができた。
「縁談のことを知ってどれほど不安になったことか。そんな時こそ夫の支えが必要です。なのに、何もしてくれません。心配しなくても大丈夫だと、伝えてくれてもよかったのではありませんか?」
「……すまない。だが、王太子領にいただろう? 王都の状況をよく知らないというのに、余計なことを言って不安にさせたくなかった。情報漏洩を防ぐためでもある」
「エルグラード王太子としては冷静で適切な判断だったのかもしれません。でも、夫としては最悪の対応でした。妻として改善を要求します!」
リーナはきっぱりと伝えた。
「ヴェリオール大公妃としても改善を要求します。私の立場がどうなるかは、私を信じ支えてくれている人々の命運に関わります。私にはヴェリオール大公妃としての責任があるのです。クオン様がエルグラードの王太子として多くの人々に対する責任を感じているのと同じですから!」
クオンはようやく理解した。
リーナが王都へ戻ってきたのは、不安でたまらなかったということだけが理由ではない。自分を信じ支えてくれている人々への責任を強く感じたからでもあることを。
そうだった。リーナはそういう女性だった……。
後宮の人々のために奔走し、宰相室に押しかけて直談判をした。
治安の悪い地域に自ら赴き、貧しい人々への炊き出しを行った。
懸命に働いても貧困と差別から抜け出せない孤児院仲間を助けたいと懇願した。
苦境に立たされた王都の孤児たちを王太子領に連れて行き、その未来をしっかりと守るために滞在延長を重ねた。
王太子領にある問題に対して独創的な解決方法を考え、人々を幸せに導くための新案を実行した。
リーナは強い。
そして、その強さは他者のために大きく発揮されてきたことをクオンは今まさに思い出した。
「王都の新聞は縁談のことばかりなのに、王太子領の新聞は私のことばかりでした。それは王太子領の人々が私のことを信じて支えようとしてくれた証拠です。とても嬉しかったです。励まされました。なのに、私は待つしかないとしか言えませんでした。それでは皆の不安を拭うことも安心させることもできません。クオン様が何も言ってくれないからです!」
「悪かった」
クオンは心から反省した。
「私は王太子としての責務のことばかり考えていた。私と同じようにリーナも重い責任を感じていることに気づけなかった。心から謝罪する。必ず改善する」
「誠実な対応に努めてください。約束してくれますか?」
「約束する」
クオンは迷うことなく答えた。
「リーナを幸せにするためにも全力を尽くす。だが、王太子としても全力を尽くしたい。公式発表についてはもう少しだけ待ってほしい。政治的な対策のためだけではない。リーナを唯一の妻にするための対策も強化しなければならない」
「さまざまな対策をするために、もっと時間が必要だということですね?」
「そうだ。私の気持ちは変わらない。妻はリーナだけだ。信じてくれないか?」
「わかりました。クオン様を信じます」
ようやくほしかった言葉をリーナは手に入れた。
そして、それはクオンも同じだった。
「理解してくれて嬉しい。気を付けて王太子領へ戻れ」
「クオン様、その言葉はおかしいです」
リーナは遠慮なく指摘した。
「急いで帰ってきたので疲れ果てています。心の方だって、クオン様の気持ちを確認するまでは不安で気が気ではありませんでした。なのに、王太子領へ戻れですか? まずは休養するように言うべきですよね? お兄様には休養だと言っておいて、私には言ってくれないのですか?」
クオンはすぐにまた反省することになった。
「すまない。まずは休養してほしい。但し、王都に戻っていることは秘密にしなければならない」
「もちろんです。クオン様も休まないとですよ? どう見てもやつれてます」
「リーナに会えたから大丈夫だ。最高の励ましになる」
クオンはリーナを再び抱きしめた。
「本当はこのまま王宮へ連れて帰りたい。だが、ヴェリオール大公妃は王太子領にいるはずだ」
クオンはリーナに口づけた。
「愛している。神に誓って、私の妻はリーナだけだ」
「私も愛しています。クオン様と一緒にこの試練を乗り越えます!」
クオンは嬉しそうに頷くと、ゆっくりとリーナから体を離した。
「長居はできない。王宮に帰る」
クオンは真っすぐに歩き出す。
一度も振り向くことなくドアを開け、部屋を出て行った。
クオン様は本当に強い……。
王宮には多くの執務と難題が待っている。それでも、クオンはためらうことなく王宮へ帰っていく。
王太子としての責務を果たすために。そして、リーナと唯一の夫婦でいるために。
私も頑張らないとですね!
リーナも最高に励まされていた。





