1236 夏夜会
時計の針が正午になるのを合図にして、領都ではさまざまイベントが開始され、多くの人々が特別な一日を楽しんでいた。
その興奮と熱気は日が沈んでからも衰えることはなく、夜になって益々盛り上がっていた。
「皆、心の準備はいいですか?」
リーナは王太子宮に揃った大勢の招待客を見渡した。
「では、夏夜会を始めます!」
開会宣言と共にファンファーレと割れんばかりの大拍手が鳴り響いた。
会場には例年よりも多くの人々が招待され、誰もが特別な夜の始まりに胸を高鳴らせていた。
「お兄様、お願いします」
「光栄だよ」
リーナはファーストワルツをパスカルと踊った。
二人のダンスは息がぴったりと合っているだけでなく、誰が見ても優雅そのもの。
エルグラード最上級のワルツだと人々は感じた。
「オグデンと踊るのを楽しみにしていました」
「光栄です」
セカンドワルツはオグデンと。
そして、王都から来訪中の特使セブンがサードダンスの相手を務めた。
「リーナ様のダンス、上手くなったわねえ」
ラブは感心しながらリーナのダンス姿を焼き付けた。
ラブはウェストランドの直系令嬢。その身分に釣り合うダンス相手はなかなかいない。
だが、ラブとしてはそれを逆に利用して、リーナの姿をじっくりと堪能する夜にしようと決めていた。
「リリーもダンスの練習をしないとね?」
「はい」
ラブの側にいるのはリリー。
公式行事ということで、リーナの側にはメイベルとヘンリエッタがついている。
リリーは身分的にも立場的にも後ろに控えるしかないため、今夜は招待客としての経験を積むことになり、年齢が近いラブの側に張り付くことになった。
「ぶっちゃけ、踊れるの?」
「ワルツとカドリーユは踊れます」
リリーは真剣な表情で答えた。
「立派な侍女になるためにも、ダンス技能は必須です。踊れない侍女は王族付きになれません」
「そうね。じゃあ、踊ってきて」
「え?」
リリーの表情が変わった。
「今ですか?」
「そう。フリーのダンスなら参加できるでしょう? 今夜は招待客の立場なんだから」
「そうですが、男性がいないと踊れません。身分が低い女性からダンスを誘うのは好ましくないと聞きましたが?」
「夫に声をかけるのを遠慮する妻なんかいないわよ」
「ロビンは勤務中です」
「一曲だけなら平気よ。上司の許可が出ればね。駄目元で聞いてみなさい。これも経験よ」
「わかりました」
リリーは一礼すると、細身の体型を活かすようにして、人々の間を素早く軽やかに移動して行く。
あまりにもスイスイ抜けていくわね……特殊技能?
ラブでさえ、リリーのように足を止めることなく人混みをすり抜けることはできない。
身分を盾にして道を開けろと言うのが定番の方法だった。
やがて、リリーは制服で勤務中のロビンの所へ行き、ロビンと二人で上司の護衛騎士のところへ向かった。
許可をもらったらしく、ダンスフロアの方へ移動する。
ロビンはどの程度なのかしらねえ?
王宮に務める者は礼儀作法を会得しなければならない。ダンス技能もその一つ。
職業柄、騎士は運動神経が優れている。それだけに、騎士のダンスレベルは貴族の標準よりも上だと言われていた。
緊張していそう……。
二人は途中から入らず、曲の切り代わりに合わせてダンスフロアに入るタイミングを見ていた。
リリーは落ち着いた様子だが、ロビンの方は踊るペアを見ているせいでキョロキョロとしている。初心者のようだとラブは思った。
そして、二人がダンスフロアに移動した。
互いに向き合って一礼すると、すぐに組んでワルツを踊り出す。
夫婦は礼をしなくていいのに……はい、減点!
ダンスを開始する前には一礼するのがマナーだが、踊る相手によってどうするかが変化する。
夫婦、家族、婚約者や恋人などの場合は礼をしない。
初めて踊る相手、身分が高い相手など状況によって一礼するが、ほとんどの者は踊る前に挨拶を済ませて省略する。学校の授業のようにしっかりと一礼する者はほとんどいない。
その方が踊る相手とよそよそしくならずに済み、ダンスや社交場に慣れている雰囲気を演出できるのもある。
授業と実際の状況は違うというか……こういうのは社交場に通うことで学ばないとね。
そう思いながら二人を見ていたラブだったが、ダンス技能を見極めるのは早かった。
予想以上に上手いわ。
他のペアがいるからこそ、その差が際立って見えた。
リリーのドレスがふわりふわりとする様子は自然なようでいて実はしっかりと軽やかに見えるよう計算されている。全ての呼吸がぴったりと合っているかのようだった。
どんなに厳しい目で見ようとしても、リリーとロビンのワルツは美しい。
さすが夫婦というべきかもしれないが、二人は若く元孤児。貴族として育ったわけでもなければ、従騎士や侍女になってからダンスの練習を始めている。
だというのに、完全に最上級レベルのダンスを披露している。
王宮の舞踏会でベルとシャペルのような最上級ペアと一緒に踊っても、劣って見えないだろうとラブは感じた。
私とお兄様の新たなライバルが!
ラブは最上級レベルのダンスペアをライバル認定しており、予想外の新規ペアがその中に加わった。
しかし、あくまでもダンスだけ。
踊り終わったあと、またしてもしっかりと一礼する二人が残念でならないとラブは思った。
夫婦は礼をしなくていいの! 誰か教えてあげて! というか、私が教えるしか!
ロビンにエスコートされてリリーが戻って来た。
「いかがでしたでしょうか?」
「ダンスは大輪のバラ丸よ。だけど、夫婦はダンスの前に一礼しなくていいから。注意深く見ていればわかるけれど、ダンスの前後に礼をする人はいないわ。初対面の場合でも軽くする程度ね。じゃないと、親しくないペアだって周囲にわかってしまうでしょう?」
「そうでしたか。次からは修正いたします」
「僕のせいです。リリーのせいではありませんのでお許しください」
すぐにロビンが愛妻をフォローした。
「ところで、二人は誰にダンスを習ったの?」
「ベル様とカミーラ様に。いつもロビンと練習していたので、他の方とはうまく踊れないかもしれません」
「えっ、他の男性と踊る必要はないよね?」
ロビンはリリーに詰め寄った。
「僕以外とは踊っちゃダメだよ! 奥さんなんだから!」
「わかっているけれど、とても断りにくい相手から誘われるかもしれないでしょう?」
「例えばだけど、誰?」
「レーベルオード子爵とか」
「うっ、そ、それは……仕方がないかな」
ロビンは困り顔で答えた。
「ディーヴァレン子爵も」
「二人は普通の相手じゃない。僕の講師はリリーにとっても講師枠だ!」
ロビンにダンスを教えたのはパスカルとシャペルだった。
「ユーウェイン様は?」
「それは違う意味で大丈夫。絶対にリリーを誘わないから」
ロビンは確信していた。
「王都にいるしね」
「そうね」
「レーベルオード子爵の専用護衛なのにねえ」
ラブも意外だった。
「まあ、事情はわかるけれど」
第四王子のセイフリードは王族会議のために王都へ戻ることになり、筆頭側近のパスカルには王太子領に残るよう命令した。
だが、セイフリードが無事王都に戻れるように最大限の配慮をするのは筆頭側近として当然の務めになる。
パスカルは自身の護衛を担当しているユーウェインをセイフリードの護衛として同行させた。
そのままユーウェインはセイフリードの筆頭護衛騎士の補佐の一人として勤務しており、王太子領には戻っていない。
この機会に筆頭護衛としての勉強をすることになったのではないかという情報を、ラブは兄のセブンから仕入れていた。
ユーウェインも出世したわねえ。
近衛から第一王子騎士団に出向になったのは、それだけの実力があるという証明になる。
しかも、出向者の立場のままで団長付き。
初めて参加した騎馬訓練では馬術レベルが極めて高い第一王子騎士団の騎士たちに引けを取らず、最終レースまで残った。
レーベルオード襲撃事件の時には、最も多くの襲撃者を倒してパスカルと味方を守った。
騎士としての実力はどう考えても最上級。ヴェリオール大公妃付きの騎士を束ねているといっても過言ではないパスカルの信頼も厚い。
来年は護衛騎士に昇格かしらねえ?
むしろ、まだ補佐なのがおかしいぐらい。人員不足のことを考えれば、すぐに護衛騎士に昇格させるはずではないのかとラブは思っていた。
「ウェストランド侯爵令嬢、僕は持ち場に戻りますが、何かありますでしょうか?」
ラブはハッとした。
「大丈夫。リリーを置いていってくれれば」
「わかりました。妻はまだまだ勉強中です。未熟な点もあるかもしれませんが、寛大な処置をお願いいたします。では」
ロビンは一礼すると、持ち場に戻るために立ち去った。
「騎士っぽくなって来たわね?」
「そうですね。でも、制服のせいです」
妻は夫に厳しかった。
「騎士としての経験を積むのはこれからです。ふりをするだけでは不十分ですから」
「まあね。でも、一年経ったら騎士になれそうじゃない?」
「内部試験を受ける必要があります。合格できれば嬉しいですが、従騎士が減ってしまいます。デナンやピックも内部試験を受けて合格すると、従騎士がいません。それはそれで困るのではないかと思うのですが」
「そうね。従騎士は使いやすくて便利だっていうのが近衛や王宮騎士団の認識だから」
王族付き騎士団は他の騎士団からの引き抜きで即戦力を求めるため、従騎士がいなかった。
第一王子騎士団が従騎士を認めたのは、騎士団という組織を支えるためには若い力が必要な証拠だった。
早い内から騎士団に慣れさせつつ実力を磨き、信用度と忠誠度を育てる。実力がある騎士に雑用をさせるのは無駄であり、人件費を抑えることもできる。
そして、従騎士がいるからこそ負けられないと騎士たちは思い、向上心を強く保てる効果もあった。
「ラブ様は踊られないのですか?」
「見る方に専念したいのよ」
兄のセブンと踊ることもできるが、その役目はメロディに任せた。
才能ある若手ピアニストとしても侯爵家の跡継ぎ娘としても美少女としても注目されている。
次々と男性たちが近寄ってこないように、セブンと踊らせることで周囲を牽制することになった。
「王宮では絶対に見ることができない組み合わせのダンスをしっかり見ておかないとね。ほら、ヴィクトリアが踊っているわ。勉強になるからしっかりと見ておきなさい」
「はい」
リリーはヴィクトリアと王太子領の高位役職者のダンスに顔を向けた。
だが、ラブの視線は別の方。
「ラブ様、何かお探しでしょうか? お手伝いできることがあればおっしゃってください」
「大丈夫。面白そうなことを探しているだけだから」
「面白そうなことですか?」
リリーは思いついた。
「社交界で話題になりそうなことでしょうか?」
「王宮だったらそうね。でも、ここでは別。王宮にはいなさそうな者を探しているのよ。王太子領にはこういう者がいたっていうことで使えるから」
「土産話や社交に活用できそうな情報収集ですね」
「リリーも変な人がいたら教えてね。マナー違反をしている者でもいいわよ?」
ラブはにやりとした。
「相手の弱点を知っておくのは、社交界で優位になるためには必要不可欠よ。話題に乗り遅れないようにするためにもね!」
「社交界は厳しく恐ろしいところだと聞きましたが、本当のようです」
貴族は大変だとリリーは思った。
貴族出自から平民出自に切り替えて正解だとも。
「私のような高位貴族はそういう世界に生まれながらにして所属しているの。平民から見ると恵まれているように見えるけれど、平民の方が気楽で自由という意味では上なのよ」
「何かありましたらご報告いたします。私が育った場所でも、頭を使って相手よりも優位に立つことが重要でした。心得ているつもりです」
上の方でも下の方でも、厳しい世界は存在する。
人混みをうまくすり抜けていったように、リリーが自らの能力を駆使して厳しい世界を通り抜ける努力していたであろうことを想像するのは簡単だとラブは思った。
「頼もしいわ。期待しているわよ」
「はい」
きりりとした表情のリリーを見て、ラブはとても心強いと思った。





