1216 チェスの駒
バーベルナの屋敷から戻ったアスターは次々と指示を出した。
エルグラード狂騒曲はすでに始まっている。
指揮者は必要ない。演奏者の近くに好みそうな譜面があれば、興味を示して手に取り、勝手に弾き始める。
最初はバラバラかもしれないが、だんだんと揃っていく。一音から和音になって響き出す。
より強く、大きく、うるさいほどに。
未来が奏でる音色をアスターは聴いていた。
夜。
変装をしたアスターは小さな劇場に付属するレストランに向かった。
劇場も付属するレストランも金持ちが利用する社交場の一つではあるが、その評価はまずまずといったところでしかない。
しかし、レストランの個室利用者のみが注文できる創作料理については、高い評価がついている。
嗜好が合う者だけが楽しめる特別な場所だった。
「それで、どうなんだ?」
「茶葉の販路については開拓も拡大もしている。順調だ」
依頼された内容について尋ねられたアスターは答えた。
「良かった。お前に任せれば何もかもうまくいく気がする。それにしても、エルグラードはザーグハルドのせいで騒がしい。帰国すべきだろうか?」
「関係ない。高みの見物をしていればいい」
「そうだな。お前の変装はいつも見事だ。男でも女でも別人に見えるだけでなく、非常に美しい。それを見るだけでも金を払う価値がある」
クリシュナはどう見ても黒髪の美女にしかみえないアスターの姿に感心していた。
「残念なのは無表情なことだ。まるで王女か身分主義者のような高慢さを感じる。首元はレースで隠しているが、声についてはどうしようもない。まあ、そこは評価の対象外にしてやろう」
アスターはクラッチバッグから折りたたまれた紙を取り出した。
クリシュナは紙を受け取って開くと黙読した。
「商売には金がかかるものだが、お前の取り分は大丈夫なのか? やっていることに比べ、請求が少ない気がする」
「成功報酬だからだ。今は準備の段階でしかない。用件は終わりだ」
ドアへ向かうアスターを見てクリシュナは驚いた。
「帰るのか?」
「顧客は一人ではない」
「デザートまで付き合って欲しい」
「無理だ。時間がある」
「王子の誘いを断るぐらいだ。お前の顧客は相当な大物揃いのようだな?」
クリシュナはおどけたようにそう言いながらアスターを見送った。
クリシュナの個室を出たアスターが向かったのは観劇用のボックス席だった。
アスターが軽くノックしてからドアを開くと、すぐ側のベンチシートに座っていた男性が立ち上がった。
「ようやく会えた!」
「静かに。座ってください」
アスターは男性の耳元に顔を近づけ、囁くように伝えた。
二人は狭いベンチシートに並んで腰かけた。
「何から話せばいいのか……とにかく会えて嬉しいよ。もっと頻繁にエルグラードに来たいのに。全部シュテファンのせいだ。でも、シュテファンは失脚した。僕の立場も悪くなる。当分は国外でゆっくりしてもおかしくない。もちろん、滞在先はエルグラードだよ」
熱烈な視線を受けても、アスターの表情は動かない。
それがますます相手の気持ちを熱くさせるのもわかっていた。
「皇帝はバーベルナとエルグラードの王子を結婚させたがっている。僕との婚姻には相変わらず否定的だ。嬉しいけれど、一人は寂しい。アーシェと遊びたいよ」
「特使として来たのですか?」
「別だよ。歓迎されない縁談の特使になって責任を問われたくない。僕は一般人の外交官だ」
「滞在先は?」
「偽名でいつものホテルに宿泊している。今夜は一緒にチェスを楽しもう。それともカードゲームがいい? 現金も用意しておいた」
「今夜は無理です。顧客が待っているので」
「僕以上の顧客が? まさか、バーベルナ?」
ザーグハルド皇帝の甥であり、ルエーグ大公家の跡継ぎでもあるアルフォンスは不満たっぷりの表情になった。
「皇女ではありません」
「だったら僕が最優先だよね?」
「安全に関わることなので」
優先は身分でも人物でもなく内容の方。
安全には極めて気を遣っているアルフォンスはため息をついた。
「それなら仕方がないか。まあ、エルグラードに落ち着けば会う機会も増えるしね」
「ザーグハルドの状況は? エルグラードに来てもいいのですか?」
「大丈夫だよ。皇帝と不仲になってもシュテファンは皇太子を守る。息子だし切り札だからね。でも、皇帝の参謀役を知りたがっている。僕が疑われていて、それでこっちに来た」
「利口ではありません。エルグラードにいる者とつながっていると思われます」
「僕はバーベルナを心配しているだけだ。全然帰って来ないからね。皇太子のために早く戻るように言うということで来た。建前としてはね」
「母親が戻らないせいで、皇太子が寂しがっているのですか?」
「まさか。うるさいのがいなくて喜んでいる。手に負えないほどの傲慢さだよ。血筋だね。皇太子に勝てるのはそれ以上に傲慢なバーベルナしかいない。皇帝もシュテファンも皇太子には激甘だ。自分の方に懐いて欲しいから、甘やかす競争をしているんだ」
「懸念材料ですね」
「その通りだよ。高速馬車路を使っても移動で疲れた。アーシェに癒して貰いたい。隣にいてくれるだけで元気になれそうだ」
アルフォンスはアスターを見つめてうっとりとした。
「アーシェほど神々しい人間を僕は知らない。どんな姿でも美の化身だよ」
「今夜はポーンからクイーンに昇格しています。キングのためにも縦横無尽に動く必要があります」
アスターが自身をチェスの駒に例えると、アルフォンスは満面の笑みを浮かべた。
「アーシェの実力は常にクイーンに昇格したポーンだ。キングは僕のことだよね?」
「一般人の外交官では? 入国がわかってしまう前に帰国してください」
「相変わらず冷たい。だけど、そこがまたいい。僕の周囲にいるのは甘くて無能な者ばかりだ」
アルフォンスはがっかりしつつも喜んだ。
「ビショップも会いたがっていた。でも、こんな状況だしね」
「ビショップはうまくやっているようですね?」
「機嫌の方はかなり悪い。バーベルナとシュテファンに任せるつもりだったのに、二人がしくじったからね。でも、今更だ。存在を知られるわけにはいかない」
アルフォンスはまじまじとアスターを見つめた。
「こんなに近くから見ても女性にしか見えないよ。実は双子で、そっくりの妹がいるってことはない?」
「くだらない妄想です」
「妄想は皇帝の得意分野だ。僕のはただの冗談だよ」
アルフォンスは笑みを浮かべた。
「長居はできません。冗談を言うほどには元気が出たようです。手土産を用意しました。ビショップに渡してください」
「わかった」
アルフォンスは頷いた。
「でも、近いうちにまた戻るよ。僕のバカンス先はエルグラードで決まりだからね。アーシェとチェスをするのが楽しみだ。無表情が崩れるほどの一手を見せてあげるよ」
アルフォンスは挑戦的な笑みを浮かべた。
「ビショップも一緒に来ることができればいいけれど。バーベルナ次第かな」
「そうですね」
「ねえ、アーシェ。本気でザーグハルドに移住しない?」
真剣な表情でアルフォンスはアスターを見つめた。
「皇太子は皇帝の器じゃない。だから、ビショップと僕とアーシェで支えればいいと思う。ザーグハルドだって、三人で作り変えてしまえばいいよ」
「皇太子は子どもです。立派な皇帝になれるようにこれから育てればいいだけのこと。私はエルグラード人、ザーグハルドについては興味ありません」
「でも、相談には乗ってくれる」
東の経済同盟が成立するための条件も、エルグラードからザーグハルドに民間の資金が多く流入する方法も、縁談によって面倒を解決する案も、全てアスターが考えたものだった。
「それが仕事です」
「本当に助かっているよ。世界最高のコンサルタントだ」
「ここまでです。現金があるようですので、今夜の相談料を請求します」
「わかった。でも、できるだけビショップの方にしてくれる? 僕の資金はシュテファンの監視がきつくて動かしにくい。小遣い程度じゃないと無理だよ」
「わかりました」
アスターはドアを開けると出て行った。
「さようならもなしか。冷たいな」
アルフォンスはがっかりしながらため息をついた。
「でも、また会えるしね。さようならは必要ないってわけだ。僕はちゃんとアーシェのことをわかっているよ!」
そう言った後でアルフォンスは気づいた。
「あれ? 手土産を貰っていないよね?」
ずっと黙っていた筆頭護衛騎士が口を開いた。
「ポケットでは? 耳元に囁いた際に入れていました」
「気づかなかった」
アルフォンスは上着のポケットに手を入れると、レモンの絵柄の包装紙に包まれたものを取り出した。
「これはどう見てもレモン味の飴だよね?」
「飴に偽装しているだけでは?」
「そういうことか」
アルフォンスは包みを開けた。
「やっぱり飴だ」
「……飴の中にメモが仕込まれているとか」
「そうだったらすごいな」
「薬物かもしれません。毒見いたしますか?」
「アーシェがくれた飴だから大丈夫だよ」
アルフォンスは迷わず飴を口に入れると噛み砕いた。
「やっぱりレモン味だ。意外と美味しいけれど、ただの飴だね」
「欺かれたようです。滞在先を確認したのは手土産を届けるためではないかと」
「この飴が手土産の可能性は?」
「ゼロではありません」
「飴が手土産だったら困る。ビショップへ渡すように言ってたよね? 僕がビショップの飴を食べてしまったことになるじゃないか」
不穏な空気を感じた筆頭護衛騎士は動揺した。
ザーグハルド屈指の傲慢さを持つ大公子の怒りに火がつきそうだった。
「恐れながら、手土産が飴の可能性は低いと思います。ビショップ様へ渡すのであれば尚更です。飴のわけがありません」
「違ったら大変だ。お前がね?」
筆頭護衛騎士は青ざめた。
「ビショップが連帯責任を問うかもしれない。もちろん、僕のことじゃない。護衛の連帯責任だ」
無言で静観していた護衛騎士達は、連帯を示すように青ざめた。
そして翌日。
アルフォンスが宿泊しているホテルの部屋に、美しいチェスのセットが届いた。今後の対応案が書かれた手紙もついていた。
「ビショップへの土産は手紙で、チェスセットは僕用だよね?」
どちらもビショップ様への手土産だと思います。
恐らくはビショップ様に渡した後、チェスが好きなお二人で遊べばいいということではないかと。
さすがアルフォンス様。傲慢なだけでなく強欲です!
アルフォンス様用の土産がレモン味の飴だったのでは……?
護衛騎士達は心の中で答えた。
「小さな冠がある! ポーンがクイーンに昇格した際につけるのかな? 珍しいアイテムつきのチェスセットなんて、凄く嬉しいな!」
絶対に自分のチェスセットだと確信しているアルフォンスに、自分の考えを伝えることができる護衛騎士は一人もいなかった。





