1171 復路
翌日の早朝、アスターはデュシエル公爵の居城を出立した。
城に留まる日数が少ないのは、王都へ戻る日数がかかるからでもあるが、往路とは違うルートで帰るためでもあった。
城仕えの人々はデュシエル卿や王都から来た側近に気づかれないよう玄関ホールや各部屋の窓辺に集まり、静かにアスターを見送った。
そうするのはアスターが領主であるデュシエル公爵の孫だからではない。
アスターこそが希望、デュシエルを導く者だと信じているからだ。
だが、アスターの考えは違う。
デュシエルに戻ったのは後宮の様子を探るのに平民のままでは厳しいから。
領地運営に携わったのはデュシエル卿の側近になるよう命じられ、優秀であることを証明しなければならなくなったからだ。
アスターによる施策は大成功。一気に税収が増えた。
デュシエル公爵もデュシエル卿もアスターの優秀さを認め、デュシエル公爵領内においては当主の孫、爵位継承権第五位の序列と同じ席次にした。
爵位継承争いに巻き込まれないよう王都での席次は低いままだが、継承権自体は第五位の状態を保持できることにもなった。
アスターをデュシエル公爵家の一員としてしぶしぶ認める状況から、絶対に確保しておく人物に変更されたのは明らかだった。
それがわかっていないのは能無しのデュシエル伯爵だけ。
女遊びばかりしているデイヴィッドでさえ、アスターの優秀さをわかっている。
大まかには計算通り。だが、誤算もあった。
生粋の身分血統主義者であるデュシエル公爵やデュシエル卿、色で優遇されている側近達が、底辺にいる人々を救おうと思うわけがない。
新しい施策を考えたのは、王都から戻って来たアスターであることが領民へ知られてしまった。
アスターの名声が上がり過ぎることを懸念して緘口令を出したが、手遅れだった。
今では公然の秘密、暗黙の了解になっている。
領主でも跡継ぎでも領主代理でもないアスターの存在感が強まり過ぎることを、デュシエル公爵家は喜ばない。
いずれ面倒なことになるのは明らかだとアスターは感じていた。
「アスター様!」
アスターの後方から追いかけて来る騎馬がいた。
アスターの馬術は極めて優れている。
追いつくには馬術ではなく馬の能力で縮めるしかない。
それをわかっている者だからこそ、叫んだ声が届く距離まで縮めることができた。
「待ってください!」
待つ必要があるとは限らないが、すでにアスターは馬の速度を落としていた。
馬も走れば疲れる。適度に休憩させるために歩かせていたところだった。
「アスター様!」
馬の方がよほど疲れているはずだというのに、乗っている方は必死に走って来たかのように息を弾ませ、大きく息をした。
「早いです! 信じられないくらいに!」
「何だ?」
「新聞を届けに来ました!」
この会話を聞く者がいれば、何を言っているのかと思うかもしれない。
普通は新聞を届けない。わざわざ馬を激走させてまで。
「王都の状況が変わったようです。王都からの伝令が新聞を持ってきました」
急使が派遣された。
それだけのことが起きたということ。
アスターは差し出された新聞を受け取った。
一面の見出しは、
ザーグハルド皇女、王都一の孤児院を支援!
王都で一番立派だと言われていた孤児院は不正行為や虐待が発覚したことで支援者が次々と手を引き、閉鎖か廃院になってしまうのではないかと懸念されていた。
その孤児院の支援にザーグハルド皇女であるバーベルナが名乗り出た。
悪いのは不正行為や虐待を行っていた孤児院の職員であって、孤児院の存在でも孤児達でもない。
バーベルナは子供達を救うために立ち上がったという内容だった。
「一つだけか?」
「もう一つあります」
四日後の日付。
ザーグハルド皇女、またもや孤児院支援! 子供達を救う!
新聞記事を見た孤児院が駄目元でバーベルナに支援を依頼したところ、バーベルナは快く承諾した。
王都にある孤児院と孤児達が救われたということが報じられていた。
「終わりか?」
「はい」
「わかった。だが、この程度のことは届けなくてもいい。王都に戻ればわかる」
「何かご指示は?」
「静観しろ」
「わかりました」
新聞を受け取った年若い伝令は答えた。
「ですが、新聞社は愚かですね。なぜ、他国の皇女のことを一面に掲載して褒め称えるのかわかりません」
年若い伝令はエルグラードの新聞がなぜエルグラード人以外の者を褒め称えるのが不思議でたまらなかった。
孤児院を支援する者は多くいる。
他国の皇女より、エルグラード人で孤児院を支援する者を紹介し、褒め称えた方がいいと思っていた。
「アスター様の偉業を伝えるべきです。デュシエルだけでなく、エルグラード中から賞賛されるに決まっています!」
「それは間違いだ。私の存在もしたことも秘めなければならない」
アスターは答えた。
「なぜでしょうか? 皆、アスター様の素晴らしい功績を知っておりますし、心から慕っておりますが?」
「公爵位の継承権争いに巻き込まれたくない。領主の座を狙っていると思われれば、命を狙われてしまう」
「あ……」
年若い伝令はその通りだと思った。
「デュシエル公爵家と直系が王都にあるからこそ、私は領地へ戻ることができる。領民のためにはこのままの方がいい。わかるな?」
「わかります」
年若い伝令は頷いた。
「皆に伝えておきます。アスター様のお命を守るためにも、あえてこのままがいいのだと」
「それでいい。お前は若くて優秀だ。先行する私に追いつき、情報を伝えることができた。デュシエル卿の目に留まるよう振る舞え。出世すれば給与が増えるだろう」
「わかりました! アスター様のお役に立てるよう出世します!」
アスターは年若い伝令と別れた。
予定通り。
王都を離れる前、アスターはしばらく不在にすることを伝え、通報した孤児院を支援するようバーベルナに助言した。
バーベルナは王妃の公務に同行していった王都一と言われる孤児院へ再び訪れる。
孤児院は資金繰りが悪くなったことを話し、それを聞いたバーベルナは支援をしぶしぶ了承する。
孤児院はその情報を特ダネとして新聞社に売り、新聞に記事が載る。
新聞を見た他の孤児院は駄目元でバーベルナへの支援を依頼する。
バーベルナが依頼を受ければ、素晴らしい女性としての評価が上がる。
少々の金はかかるが、エルグラードにおける名声は心地良く何かと役に立つ。
孤児院問題で王太子に注意されてしまったため、名誉挽回だと意気込むかもしれない。
バーベルナはすぐ調子に乗る。
皇女の身分があるせいで、すぐにバーベルナを止めることができる者はいない。
まさにバーベルナの特権、自由だ。
それはつまり、バーベルナ自身の責任ということになる。
「そろそろだ」
休憩は終わり。
アスターは馬を走らせる。
寄り道をするだけに、その間にも王都の状況は変わっていく。
だが、アスターは急ぐつもりがなかった。
クリシュナの依頼をこなさなくてはならない。
王都の狂騒曲を聴くのは、まだまだ先のことだった。





