109 サイン
ノースランド公爵家に黒い馬車が到着した。
その馬車から降りたのは黒い長髪と灰色の瞳を持つセブン・ウェストランド。
黒い服にマントコートを着用しているだけに、一層暗いイメージが漂っていた。
だが、ノースランド公爵家に仕える人々はわかっている。
セブンがロジャーの友人であることも、何かと問題を抱えている妹がいることも。
死神という異名を持っていることも。
「リリーナ様、ディヴァレー伯爵がお見えです」
「ディヴァレー伯爵?」
リーナはヨランダが連れて来た男性をまじまじと見つめた。
名前を聞いたこともなければ、顔を見たこともない男性だった。
「ロジャーの友人だ」
「あっ、ロジャー様のご友人の方でしたか。リリーナ・エーメルと申します」
リーナは挨拶をすると、きっちりと教え込まれた一礼をした。
「ロジャーから書類を預かっている。署名がほしい、重要な書類だけに、他の者には見せることができない。侍女たちを下げろ」
「お茶をご用意いたします。何かあれば、お呼びください。外に侍女を控えさせます」
ヨランダはそう答えると、部屋にいたリリーナ付きの侍女を連れて退出した。
本来であれば、未婚の男女が部屋に二人きりというのはよくない。
お茶を用意するまでの間とすることで、二人だけで内密の話や重要書類のやり取りができるようにヨランダは配慮した。
セブンは封筒から何枚かの書類を取り出すと、リーナに署名する場所を示した。
「ロジャーの許可は取ってある。就職用の書類だ。先に署名しろ。侍女たちが戻る前にしまいたい」
リーナは言われた場所に署名した。
「じっくり読みたいか?」
セブンは念のために確認した。
「経歴書のようです。じっくりと確認した方がいいでしょうか?」
「いや。大して意味はない」
応募用の書類だけに、基本的な情報が記載されている。
本来はリーナ自身で書くべきだが、すでにリリーナ・エーメルの設定に合わせた記述は済ませており、本人のものとして登録する署名だけ書けば良かった。
「でしたら、そのままで。ロジャー様のご友人ですので、信頼できます」
「ロジャーは名前を呼ぶ許可を出したのか?」
セブンは気になった。
「いただいています」
「そうか。では、私のことも名前で呼んでいい。私も名前で呼ぶ」
「わかりました」
署名が終わった書類をすぐにセブンは封筒にしまった。
「いずれまた会うことになる。今日は長居しない約束をした。帰る」
セブンはすぐに部屋を出て行ってしまった。
入れ替わるようにヨランダと侍女がお茶のワゴンを持ってきたが、無駄になってしまった。
「随分早いお帰りでしたが、何か問題なりそうなことはなかったでしょうか?」
「就職用の書類に署名するだけでした」
「どのような書類か確認されましたでしょうか?」
「経歴書です。すでに内容は書いてあって、署名部分を書きました」
「そうですか。せっかくですので、お茶はいかがですか? お茶菓子も用意いたしました」
「ありがとうございます。でも、セブン様の分もあるので、余りますよね?」
「お気にせず。全ていただかれても大丈夫です」
「私はお茶もお菓子もいりません。なので、ヨランダたちはそこの椅子に座ってくれませんか?」
「椅子に?」
ヨランダは驚いた。
「ダメですか?」
「ダメというわけではありませんが……」
わからないと思いつつ、ヨランダとワゴンを運んで来た侍女は椅子に座った。
「少しだけ待ってくださいね」
リーナはワゴンの上にあった二つのカップにお茶を注ぐと、ヨランダと侍女の前に置いた。
「これはいつもお世話になっているヨランダたちへ。感謝のしるしです。少しだけ休憩していってください」
リーナはにっこり笑いながらお菓子の皿もテーブルの上に置いた。
「全部食べて大丈夫です。私はいつもいただいていますし、今は食欲がないので」
「お気持ちは嬉しいのですが、困ります」
「大丈夫です。就職用の練習ですから。冷めないうちにどうぞ」
本当にお優しい……。
リーナが行儀見習いとしてノースランド公爵家に来てから一カ月以上が経つ。
ヨランダや部屋付きの侍女たちはすでにリーナがどのような性格であるかを把握している。
真面目。誠実。優しくて謙虚。一生懸命勉強している。
ノースランド伯爵夫人の着せ替え遊びに付き合わされても、大人しくしている。
侍女たちが疲れてくると、そろそろ勉強時間があるとノースランド伯爵夫人に伝えて切り上げてくれることもわかっていた。
最初こそノースランドの知名度、爵位、財産目当ての女性ではないかと警戒している者もいたが、今ではその疑いが晴れ、とても好ましい人物だと思われていた。
ロジャーへ預けられ、一生ノースランド公爵家のためにどこかで働くことになるか、利用される女性だろうと密かに噂されてもいた。
ノースランドのために活用されるのであれば、お屋敷にいればいいのでは……?
ヨランダはそう思いながら、リーナの用意したお茶に口をつけた。
「美味しいですか? おかわりもあるので遠慮なく言ってくださいね?」
「お心遣いは嬉しいのですが、就職した際はそのようなことを言ってはいけません」
「そうですね。やっぱりヨランダは優しいです」
「優しいのはリリーナ様です」
侍女がそう言った。
「普通です。誰だって優しさを持っていますから」
そう言って微笑むリーナがノースランド公爵家で最も優しい。
そのことを、ヨランダと侍女は知っていた。





