1079 ベルとシャペルの愛の日(一)
「シャペル、本当にありがとう」
ベルは心からの感謝をシャペルに伝えた。
互いに多忙なことから愛の日だけは休もうと言っていたが、結局ベルは休まなかった。
買物部長の代理を務める姉のカミーラも優秀な販売員であるリリーも休み。
それ以外にも何人かが休みや早退を希望していたこともあって、ベルは自分が頑張らなくてはと思ったのだ。
シャペルは怒らなかった。
ベルが休みを取る者の分もカバーし、買物部の負担を少しでも軽くしようとする選択を立派だと褒め称えた。
終業後に恋人としての時間を楽しむことを約束したが、昼になるとシャペルは大量の差し入れを持って買物部の様子を見に来た。
昼食はディーバレン子爵邸で作らせた豪華なサンドイッチ。
後宮の中庭で一緒に束の間の休憩と食事を楽しんだ。
その後シャペルは帰ることなく買物部に残り、最も激務と言われている精算カウンターの計算業務を手伝ってくれた。
軽食課のブレッドが納品に来た際には十五分だけ手伝って欲しいと頭を下げ、二人は暗算競争のような猛計算を始めた。
そのおかげで精算業務がみるみる片付いた。
当番者が泣いてしまうほど喜び、客達も計算の速さに声援と拍手を送っていたほどだった。
「ベルに喜んで貰えて嬉しい。でも、これからが本番だよ?」
ようやくの終業。
どこへ行くのかはシャペルにお任せだ。
「着替えないの? 仕事着なんだけど」
「このままで大丈夫。僕だって仕事着だしね」
二人で向かったのは後宮の馬車乗り場。
用意されている馬車が見えてくるにしたがい、ベルは笑うのを抑えきれなくなった。
「愛の日らしくない?」
「とっても愛の日らしいわ!」
用意されていたのは真っ赤な馬車。
豪華な金の装飾はハートだ。
そして、馬車と揃えた制服を着た侍従が真っ赤なバラの花束を持って立っていた。
「お迎えに上がりました」
シャペルはバラの花束を受け取ると、ベルに差し出した。
「愛するベルに」
「ありがとう。愛の日らしい香りね」
愛の日の贈り物としてバラの花束は定番中の定番だ。
だが、季節は二月。温室育ちのバラは高級品。財力の証でもある。
馬車の内装も期待を裏切らない豪勢さ。
冷やしてあるのはミニボトルのスパークリングワインだった。
「何から何まで用意している感じ」
「当然だよ」
「あえてもう一度言うわね。私は仕事着なの。素敵な夜にお洒落はできないの?」
「着替えは僕の屋敷に用意した。贈り物だから受け取ってくれないと困る」
「そうだったのね。わかったわ」
「屋敷に着く前に乾杯しよう」
「近いものね」
シャペルはグラスにワインを注ぎ、その一つをベルに渡した。
「じゃあ、二人の愛の日に」
「二人にとって初めての愛の日に」
グラスが合わさった。
澄んだ音も甘いワインも、この後に訪れることへの期待を高めるばかりだ。
「ドキドキするわ。でも、あえて考えないようにしていたの。だって、シャペルのお財布からお金が飛んでいく夢を見そうだもの」
「夢じゃなくていつものことだけど?」
「その感覚はシャペルだけ。私にとっては違うのよ」
ベルはおどけるような表情を浮かべた。
「じゃあ、羽の生えた札束が僕の財布に飛んでくる様子を考えたらどうかな?」
「新しい発想ね!」
「それもいつものことだけどね?」
今度はシャペルがおどけるような表情をした。
「変だわ。札束に羽はないでしょう?」
「僕のことを錬金術師と呼ぶ者もいる。それだけ金を稼いでるってことだよ」
「知っているわ。もしかして、今夜はお金を作り出す秘密の実験を見せてくれるの?」
シャペルは笑った。
「それこそ新しい発想だ! 愛の日なのに」
「愛の日だからこそ、秘密を明かすわけでしょう?」
「一ギール札を千ギール札に変える手品とか?」
「手品と錬金術は違うわ!」
今度は二人で笑い合う。
会話も上々だ。
しばらくすると、馬車はディーバレン子爵邸へ到着した。
「ここで着替えるの?」
「夕食も取る」
「その後で王立歌劇場へ行くの?」
「行かない。王立歌劇場の席もダンスの権利も全部知り合いに譲った」
「そうなのね」
「がっかりした?」
シャペルとキルヒウスは互いに愛する女性との時間を楽しむため、予定が被らないよう打ち合わせた。
だが、ベルは王立歌劇場に行きたいかもしれないとシャペルは思っていた。
「いいえ。今夜は二人でゆっくり過ごしましょう? 社交よりも恋人らしい時間を楽しみたいわ」
「そう言ってくれて嬉しいよ。僕もそう思ったんだ」
「シャペルの考えた素晴らしい愛の日を堪能するわ!」
「うん。まあ……読まれていそうだけど」
「そんなことないわ。馬車だってお屋敷での夕食だって知らなかったし」
ベルは一旦着替えるためにシャペルと別れた。
「素敵なお部屋ね!」
「ベルーガ様のために改装されたお部屋でございます」
案内及び身支度を手伝う侍女が答えた。
「隣の部屋へ。ご宿泊はないとお伺いしていますが、ベッドルームもございます」
案内されるままに進むと、豪奢なベッドが鎮座していた。
まるで王女が眠るかのような天蓋付きだ。
「凄いわね……さすが。お金持ちって感じ」
「こちらの天蓋はかつて後宮にある王女の部屋にあったものを手に入れ、美しく修復したものでございます」
まさに、いかにもという品だった。
ベルはため息をついた後、衣装部屋に入った。
豪華な白いドレスがトルソーに飾ってある。
ミニテーブルの上にあるのは宝飾品が入っていそうな箱だ。
「ベルーガ様、こちらのドレスと装飾品はシャペル様からの贈り物です」
着替えの中には宝飾品も含まれていた。
シャペルならさもありなんといったところだが、
「白以外にも赤とレモンイエローのドレスを用意しておりますが、いかがいたしましょうか?」
ベルは苦笑した。
愛の日と言えば赤。
なぜ白いドレスなのかと思ったが、赤いドレスもベルの好きな色のドレスも用意してあった。
「全部贈り物なの?」
「はい。ご気分に合わせてお選びください。食事後に着替えることも可能です」
「飾ってある白いドレスにするわ。シンプルだけどカッティングがエレガントだし、後ろについているレースのリボンも素敵だわ!」
「シャペル様は必ずやお喜びになられます」
身支度を終えたベルはすぐ近くの部屋に案内された。
落ち着いたピンクの内装で、上品な小食堂といった雰囲気だ。
「ベル!」
シャペルも夕食用に着替えていた。
白い礼装だ。
「白を選んでくれたんだね」
「素敵な贈り物をありがとう。似合うかしら?」
「とても似合っている」
「シャペルも白なのね」
「うん」
実を言えば、新郎新婦気分を味わうため。
シャペルの自己満足に尽きる。
「お姫様になった気分よ。これ、ダイヤモンドでしょう?」
宝飾品は繊細な金の繊細な装飾があるダイヤモンドのアクセサリー。
イヤリングとネックレスのセットだ。
「ルビーと迷ったけれど、ダイヤモンドの方が他のドレスにも合わせやすいと思った。カミーラの披露宴につけることもできるかなって」
「ドレスも宝飾品も私好みだわ」
控えめでありつつも、上品さと可愛らしさが感じられる。
「小ぶりなのも私のためでしょう?」
「そうだよ。大粒の宝石がついたものは嫌がるかもしれないと思って」
「嫌いなわけじゃないのよ? でも、悪く言われたくないの。見せびらかしているとか、成金趣味だとか」
「わかるよ。でも、好みが変わったら教えて欲しい。ベルに合わせたいから」
「わかったわ」
夕食が始まった。
改めて乾杯した後は愛の日らしいメニューのフルコースを堪能する。
最高級の食材がふんだんにあしらわれた贅沢な逸品ばかりだ。
デザートはチョコレートケーキ。飴細工のハートつきだった。
「甘いわね」
「甘すぎる?」
「愛の日らしいわ」
夕食が終わった後は部屋を移動。
「どこに行くの?」
「付属の施設だよ」
到着したのは屋敷内にある小劇場。
オーケストラが待機していた。
「今夜は僕達のためだけに上演されるオペラを楽しもう」
自宅にある劇場でオペラの貸し切り上演だなんて!
ベルにとってはあり得ない。
だが、シャペルならあり得る。それが現実だ。
オペラが終わった後は、大広間で二人だけの舞踏会。
劇場にいたのとは違うオーケストラが有名なワルツを奏でる。
ファーストダンス、セカンドダンス、サードダンスも独占だ。
「休憩しよう」
特製のソファに座ると、冷えたロゼワインがすぐに用意された。
グラスの装飾はハート。赤いリボンまで結ばれている。
細かい部分まで、完全に愛の日仕様だ。
「……質問してもいい?」
「何でも」
「シャペルってずっとこんな感じの愛の日を過ごしていたの?」
「いや。貴族としては本当に一般的かつ標準だった」
友人達と過ごすか、その時付き合っていた女性と過ごす。
花束や贈り物を用意し、レストランかホテルで夕食。
条件次第で王立歌劇場へ行くか、身内が開くパーティーなどに顔を出す。
「自宅に恋人を呼んで一緒に過ごすのは初めてだ」
「そうなの?」
「実家に招待したこともない。押しかけられたことはあるけれど」
シャペルの両親は領主で銀行家。
友人は第二王子、四大公爵家を継ぐ者、名家や富豪ばかり。
たった一つの間違いがシャペルばかりかディーバレン伯爵家の存亡にかかわることもあり得る。
だからこそ、シャペルの守りたい領域に許可なく勝手に立ち入るような女性は困る。
問題があるとわかればリスク回避のために即別れた。
元々別れにくい相手とは付き合わない。金で片づけることもあった。
「愛の日の過ごし方は両親にも聞かれた。実家に呼ぶなら予定を空けるって。僕の両親はベルのことをとても好ましく思っている」
一人息子が結婚を熱望するほど夢中になっているとなれば、どんな相手なのか調べないわけがない。
その結果、ベルがお金に左右されない価値観を持ち、健康的でダンスを通じた交流や慈善活動に従事していることを知って安心した。
しかし、ベルがヴェリオール大公妃の友人かつ側近補佐になったことで、心配もしている。
ただでさえ好条件。これ以上は高条件になるばかり。
一度フラれており、ベルの両親が交際に反対していることも懸念材料だ。
「でも、愛の日は純粋に二人だけの時間が欲しいと伝えた。ずっと忙しかったからね。デート予定もキャンセルばかりで本当にごめん。心から謝るよ」
ベルは意外だった。
デートができなかったのはシャペルのせいだけではない。ベルもまた仕事で忙しかった。
お互い様だ。
そして、愛の日に休みを取れなかったことはベルの方に非があると思っていた。
「謝る必要はなんてないわ。私だって側近補佐の仕事があるし、忙しかったもの」
「寂しくなかった?」
「カミーラがいてくれたからなんとかね」
寂しくなかったと言えば嘘になる。
だが、カミーラの夫であるキルヒウスも忙しかった。カミーラ自身も同じ。結婚式さえお預けだ。
姉妹で互いに相手との時間が少ないと話し、励まし合っていた。
「僕はとても寂しかったよ」
部屋に帰ってもベルとは話せない。起きる前に出勤しないといけない。
最初はそれでも良かったが、段々とシャペルは辛くなった。
「僕はベルの恋人になれたけれど、まだまだ距離がある。一番でもない。だから愛の日は一緒に過ごして、少しでも距離を縮めたかった。僕のことをもっと知って欲しいし、評価して欲しくもある。だから教えてくれるかな? 特別な夜を気に入った? 気に入らなかった?」
ベルは驚いた。
心底。
「……もしかして、今夜はこれで終わり?」
「ベル次第だよ」
ベルは察した。
シャペルは二人で過ごす愛の日のプランを考えた。
そして、評価が良ければ次へ進む。
王家専用の礼拝堂だ。
逆に評価が悪ければ、これで終わり。
真剣で不安そうでもあるシャペルの表情を見れば間違いない。
恋人期間は短くても、仲間としてのシャペルは知っている。
いつも笑顔。親しみやすさと気安さを纏っている。それだけの余裕があった。
だが、今のシャペルは違った。
余裕がなさそうに見えた。
「正直に言っても?」
「その方がいい」
「王家専用の礼拝堂の予約を取ったでしょう?」
ヴェリオール大公妃の側近補佐であるベルは王家の関係者として王家専用の礼拝堂の予約を取れる立場にある。
王家の者や上位者優先であるため、絶対に予約できる兄のヘンデルに相談した。
だが、両方は駄目だと言われた。
つまり、シャペルが予約済み。
カップルの両方で予約することはできないルールだった。
「実を言うと、王家専用の礼拝堂の予約を取ろうとしたの。でも、両方は駄目だって言われたのよ」
シャペルは驚かずにはいられなかった。
「ベルは礼拝堂を予約したかったの?」
「愛の日だもの。二人だけで過ごすには最高の場所でしょう? 連れて行って。でないと、私が予約を取れば良かったって思ってしまうわ!」
「わかった」
シャペルは立ち上がった。
「すぐに行こう。今夜は平日だ。帰りは遅くならない方がいい」
「その通りよ」
二人は手を取り合い、馬車へ乗り込むべく走り出した。





