1075 パスカルの愛の日(一)
愛の日は平日。
パスカルはいつも通りに出勤した。
「おはようございます」
多くの者が休みを取りたがる日の当番はほぼトロイ。
いずれはシルオーネ公爵家を継ぐ者だというのに、婚約者も恋人もいない。
「おはよう。今年の愛の日は平日だけど、夜の予定は?」
「空いています。残業も可能です」
パスカルは微笑んだ。
「残業は必要ないよ。王太子夫妻は休みだしね」
だが、パスカルは第四王子の側近も兼任している。
セイフリードは休みではない。
「質問を変えよう。シルオーネ公爵家の予定は?」
トロイは渋面を作った。
「色々です」
「具体的には?」
「公爵家らしく愛の日を過ごすために全力を注ぎます。相手がいる場合ですが」
「夫婦で仲良く過ごすという解釈でいいのかな?」
「そうです。朝から晩まで祖父母も両親も共に外出し、円満な関係であることをアピールします。ヴァークレイ子爵夫妻とも会うはずです。愛の神殿から始まり、王立歌劇場のオペラで終わります。シルオーネにとっては定番の場所ですが、最高で理想的だと褒めちぎられ、鼻高々に自慢できます。新婚夫婦でこの二つを揃えるのは公爵家であっても相当難しいでしょう」
「確かに難しかった」
愛の神殿で行われる特別な催しの最前列が欲しい。今年だけで構わない。
キルヒウスは妻のために特別なコネを持つ者を探し、パスカルにも相談した。
最前列は王家や公爵家の指定席と言われるものの、普段から愛の神殿に多額の寄付をしていなければ話にならない。
シルオーネ公爵家は愛の神殿の最前列欲しさに多額の寄付をしているが、譲ってしまうと自分達の席がなくなる。譲るわけがない。
つまり、普段から愛の神殿に多額の寄付をしており、愛の日の特別な催しの最前列を取れるほどのコネがあり、自身の席を失ってもいいと思ってくれる者でなければならない。
そのような者がいるわけないというのが当然だったが、パスカルはキルヒウスのために心当たりがあると答え、駄目元で確認してみることにした。
その相手は国王の第三側妃セラフィーナ。
セイフリードの生母だった。
セラフィーナは愛の神殿に多額の寄付をしている。第一側妃のエンジェリーナに次いで二番目に寄付額が多い者の座を維持しているだけにコネがある。
かといって、愛の日の催しに国王と共に出席するわけでもなければ、一人で行くこともない。
条件に適した最高の人物だった。
パスカルは第四王子付きの側近になった時から、目立たぬようセラフィーナへの配慮をしてきた。
そのおかげで最前列の件もセラフィーナを通して問い合わせることができ、キルヒウスとカミーラの席を確保することができた。
「キルヒウス様はパスカル様に多大なる感謝をされていることでしょう。大きな貸しにもなります」
「貸しにはしないよ」
パスカルは答えた。
「愛する妻のためになんとかしたいと思っているキルヒウスにつけ込むようなことはしない。大切な先輩だからね。それに席を確保したのはセラフィーナ様だ。僕じゃない」
トロイは感動した。
パスカルの素晴らしさは到底言葉にできない。
心底崇拝している相手と一緒に過ごせる朝のひと時は、まさに愛の日に相応しいと感じていた。
「その件で、お礼を伝えなければならない。その間にリストが届くかもしれない」
「確認しておきます」
愛の日に女性は気になる男性にチョコレートを贈るのが定番。
毎年、パスカル宛の大量のチョコレートが王宮に届いていた。
本来ならレーベルオード伯爵邸に送るのが筋だが、パスカルがほとんど帰宅していないこともあって、王宮宛に送付する者の方が多い。
送付物リストの確認はトロイにとって愛の日恒例の仕事だった。
「白蔦会の決定は知っているね?」
「勿論です」
トロイはパスカルと同じ白蔦会にも入っている。
白蔦会に所属する女性も毎年メンバーの男性に大量の本命あるいは義理チョコを送る。
だが、官僚が多いこともあって王宮宛が多く、没収されて廃棄物になってしまうことがほとんどだった。
ヴェリオール大公妃付きの側近にパスカルとグレゴリーがなったことから、食品を粗末にするような試みは止めるべきという議題が上がった。
そして、愛の日の贈り物を食品にする場合は王宮宛にしない。王宮宛は食品ではないもの、カード等に変更することが賛成多数で決まった。
「トロイの仕事が大変になってしまうかもしれない」
食品は没収されてしまうが、カードであれば執務室まで届く可能性が高い。
トロイの確認物が増えることになる。
「大丈夫です」
すでにトロイは手伝いを手配していた。
「じゃあ、あちこち行ってくる。王宮敷地内にはいるけれどね。留守番を頼むよ」
「最初と最後だけでも教えていただけないでしょうか?」
「最初はセイフリード王子のところに。その次はセラフィーナ様だ」
二人の部屋は近くないが、王族エリア内という意味においては近い。
「最後は考え中だ。でも、昼頃には一度戻るよ。状況次第だけど、ランチを一緒にどうかな?」
「ぜひ!」
トロイは笑顔でパスカルを見送った。
「おはようございます。本日は愛の日です」
セイフリードの部屋に行ったパスカルは恭しく側近としての挨拶をした。
「僕には関係ない。エルグラードで最も無縁な王子だ」
「それは違います」
パスカルは答えた。
「殿下の生母であるセラフィーナ様は愛の神殿に多額の寄付をされております。その理由をご存知ないのでしょうか?」
「そんなはずはない」
セイフリードは思いついた答えを打ち消した。
「恐らくは殿下がお考えになられた通りではないかと」
「僕のために寄付をしていると言いたいのか?」
セイフリードの質問は確認だ。
そして、パスカルはゆっくりと頷いた。
「そうです。セラフィーナ様は自身のためのように思わせていますが、実際は殿下のためです。国王陛下に第三側妃の予算について確認しましたので、間違いありません」
セラフィーナは子供を産むだけの存在。国王の側妃になっても冷遇されることをわかった上で了承した。
だが、子供は違うと思っていた。
国王の子供は三人いるが、男子ばかり。
また男子が生まれる確率は低い、女子だろうとセラフィーナは思っていた。
ところが、生まれたのは男子で、誰もが落胆した。
婚姻の条件は実家への援助。セラフィーナの生活は最低限で構わないという内容だった。
女子であれば追加の報奨金や好条件を期待できたが、男子では無理。
せめて愛の神だけでも子供を見捨てないようにと思い、セラフィーナは愛の神殿に匿名で心ばかりの寄付をした。
ところが、そのことが第一側妃のエンジェリーナに知られてしまった。
エンジェリーナは自分と息子のエゼルバードこそが愛の女神から最大の加護を受けるべきだと思っており、愛の神殿へ寄付が最も多い者の座に居座っていた。
それをセラフィーナが邪魔をするつもりなら許さないと詰め寄り、後宮内で側妃同士が衝突したと国王に緊急報告された。
国王と王妃が仲裁に入って話し合った結果、一番多くの寄付をするのはエンジェリーナ、二番はセラフィーナと決められた。
そして、国王の側妃が匿名でこっそり少額の寄付をするのは改めるべきだと指摘され、第三側妃の予算に愛の神殿への寄付分が追加された。
そのおかげで第三側妃の予算はかなり多くなったが、そのほとんどは愛の神殿への寄付分。
セラフィーナ自身の生活予算は元々の条件通り、最低限のままだった。
「セラフィーナ様のおかげで愛の神殿の特別な催しの最前列を確保できました。そのお礼を伝えに行くのですが、殿下も一緒にいかがでしょうか?」
「誰のために最前列を確保した? 兄上か?」
セイフリードが気になったのはパスカルに最前列の席を依頼した者のことだった。
「キルヒウスです」
あっさりとパスカルは答えた。
「キルヒウスもセラフィーナ様に感謝し、今後は配慮をするようになるでしょう」
「配慮するなら僕にすればいい。王宮でただ暮らしているだけの者に配慮しても仕方がない」
「配慮する相手はセラフィーナ様です。席を確保したのは殿下ではありません」
それが事実。
「余計なお世話だと言われるのを覚悟で進言します。成人をきっかけに、セラフィーナ様との関係を改善されてはいかがでしょうか?」
セイフリードは無言だった。
「セラフィーナ様は不幸な女性です。第三側妃として満ち足りているかのように振る舞っていますが、本当は実家の支援と引き換えに売られた身であることを誰もが知っています」
冷遇は本人も覚悟の上。だが、第三側妃で王子の生母だからこその誹謗中傷は未だに多い。
それでも実家には戻りたくない。その方がより辛くなるのがわかっているからだ。
生活を保障してもらうため、セラフィーナは離婚をする気がなかったが、だんだんとそのことについても考えるようになった。
国王はそれでもいいかもしれないが、離婚によって困るのはセラフィーナではなくセイフリードの方。
生母は国王と離婚。王族妃からただの貴族に戻され、驚くほど質素な生活を送っていると知られれば、息子であるセイフリードの立場が悪くなる。
成人デビューによってこれまでの冷遇と不名誉を全て覆す最大のチャンスが来るというのに、全てが水の泡になってしまう可能性がある。
「成人をきっかけに殿下がご自身の人生を一新しようとされているのは知っています。ですが、セラフィーナ様への対応については何も考えられていません。不十分です」
セイフリードは苛立つような表情になった。
「言いたいことは分かる。だが、愛の日の当日になって言うことか? だったら前もって何かした方がいいと進言すべきではないか?」
「官僚食堂の件で忙しそうでしたので」
そして、パスカルも忙しかった。
「挨拶だけすればいいか? 僕にしては最大級の贈り物になるはずだ」
「贈り物は用意しておきました」
何事も準備万端。それが側近の務め。
筆頭ならなおのこと。
「これを」
パスカルはポケットから小箱を取り出して開けた。
「指輪か。石はなんだ?」
「ブルーガーネットです」
愛の日といえば赤。ルビーやガーネットなどの赤い宝飾品が飛ぶように売れる。
だが、ブルーガーネットはその名称と存在を知る者自体が極めて少ない。
何十年も宝石商を営んでいる者でさえ聞いたことがないと言うような極めてレアな宝石だった。
「原色は青ですが、光のあて具合で赤に変わります」
ガーネットには様々な色があるが、青だけはないと言われていた。
だが、ついに青いガーネットが発見された。
但し、それは光を当てると色が変わるガーネット。
当初、色が変わるのは偽物。不吉。イメージの悪さから見向きもされなかったが、徐々に
宝石コレクターが注目し始め、幻のガーネットとして入手を望むようになった。
「人気がなかった頃に入手したので、価格的にはそれほどでもなかったようです。ですが、一般市場では一切取引がないだけに、これほどの大きさはすでに入手困難だとか」
手に入れたのは世界中に顔が効くと言われたパスカルの祖父だった。
この宝石を見たパスカルの祖父は知性の中に情熱を秘め、愛の中に貞節さを秘めていると感じて即購入した。
石言葉は真実。愛。
生まれ変わる力と悪しきものを遠ざける力があると言われていることもパスカルは説明した。
「いかがでしょうか?」
「僕が欲しい」
「気に入られたということでしょうか?」
「そうだ。レアな宝石というだけでなく、石言葉も守りの力も悪くない」
「ガーネットと聞き、安物と思う者がいるかもしれませんが?」
「重要なのは僕が気に入ったかどうかだ。金額を気にすると思うのか? 高くても低くても同じだ。手に入るか入らないかの方が気になる。それが王族の価値観だ!」
セイフリードは正直に答えた。
だからこそ、パスカルも正直さを見せることにした。
「そうですか。実を言いますと、成人の贈り物にどうかと考えていたのですが」
セイフリードはムッとした表情になった。
「だったら僕に贈るべきだろう! なぜ、違う者に贈る?」
パスカルは小首を傾げた。
「……話すべきかな?」
口調を変え、独り言のように呟いた。
「わざとらしい。僕は結末を知ってから本を読むことも厭わない。さっさと話せ」
「これは一番大きな石じゃない」
指輪に丁度良いサイズの石を合わせている。
レーベルオード伯爵家が所有している最大サイズのブルーガーネットではなかった。
「色々と考えて、ポケットに入りやすくてサイズもセラフィーナ様に丁度良さそうなこれがいいかなと思った」
「つまり、僕へ贈るのは一番大きなブルーガーネットにしようと思っているわけだな?」
「正解だ。この指輪を見てどんな反応をするかも確かめるつもりだった」
価値がないと思うようであれば、別の贈り物に変更すればいいとパスカルは考えていた。
「反応が良ければ予定通り贈る。そして、揃いにする気だな?」
パスカルは微笑んだ。
「親子だからね。揃いの宝石を所有していてもおかしくない。あくまでも贈るだけだ。同じタイミングでつけるかどうかはわからない」
本人や周囲がどう思うと、母親と息子という関係は紛れもない事実であり真実だ。
そして、セラフィーナがセイフリードのために愛の神殿に寄付をしている理由が愛であることもまた同じく。
ブルーガーネットの石言葉が暗示しているようだった。
「これは貰う」
セイフリードは指輪を自身の指につけようとした。
「……小さいな」
「小指なら入るよ」
しぶしぶといった様子でセイフリードは小指に指輪を嵌め、箱はポケットに押し込んだ。
「行くぞ!」
国王の第三側妃セラフィーナの部屋へ。
そして、セイフリードは指輪を贈る。
側近が用意したものではなく、自分がつけていた指輪として。
サイズがあっていないだけに、寸前につけたと気づかれる可能性は高い。
だが、箱に入れたまま渡すよりもその方がいいと思ったセイフリードの判断にパスカルは任せることにした。
「必ず喜ぶよ」
「持ち合わせの宝飾品が少ないだろうからな」
そう言ったセイフリードは気づいた。
「この指輪のサイズは大丈夫なのか? ちゃんと入るんだろうな?」
「勿論だよ」
「どの指だ?」
「左には陛下から贈られた指輪がある。右の薬指だよ」
「わかった」
セイフリードが歩き出す。
パスカルはその進みを止めないようドアを開けた。





