1073 メロディの愛の日
いつもありがとうございます!
リーナとクオンの話はちょっとお休み。
他の登場人物達の様子をご覧ください!
着古したゆるゆるのロングワンピースにモフモフスリッパ。
髪は梳かさず、ゆるくまとめただけ。
侯爵家の跡継ぎ令嬢というよりはダラダラとくつろいでいる令嬢の装い。
だが、グランドピアノの鍵盤を見つめる瞳は真剣そのもの。
正確かつ情感が込められた美しい音色が響き渡っていた。
音楽室のドアがノックされても開けられても、メロディは見向きもしなければ演奏を止めもしない。
明日はピアノ実技の二次試験。
最高の演奏をするための練習に手を抜くことは許されない。
弾き終えるまでは、ひたすら集中あるのみだ。
「ふう」
ようやく演奏が終わった。
メロディが息をつくと、拍手があった。
その力強さは母親のものではない。
父親はすでに仕事に行ってしまっている時間だけに、誰だと思いながら顔を向けたメロディは瞬時に固まった。
「ヘンデル様……」
「素晴らしい演奏だった。さすがだね」
演奏を褒めて貰えるのは嬉しい。
だが、今のメロディはすぐにでも逃げだしたい気持ちだった。
「……どうか応接間の方へ。急いで着替えますので」
「それって寝間着?」
メロディは恥ずかしさで顔が爆発しそうだと感じた。
「部屋着ですけれど……かなりその……」
かなりどころか最高レベルの手抜き。
寝間着の上に羽織るガウンと同じ素材のロングワンピースは特注品だが、愛用し過ぎて明らかにくたびれている。
その下は紛れもなく寝間着だ。
寒い季節は重ね着したまま寝るため、今の状態は冬限定の寝間着状態といっても間違いではない。
しかも、モコモコスリッパは素足で履いている。
家族以外に見せてはいけない姿であることは間違いなかった。
「届け物をしてすぐに帰る気だったんだけど、侯爵夫人にピアノの演奏を聴いて欲しいと言われてね」
お母様ったら!
メロディが屋敷で誰かに会うことはほぼないため、常にくたびれた部屋着で過ごしていることを母親は知っている。
だというのに、ヘンデルを音楽室に誘導した。
どうしてもピアノのアピールをしたかったか、帰られる前にとにかく会わせることを優先したか。
両方かもしれないけれど、さすがに駄目でしょう……。
いっそのことメロディは気絶してしまいたい位だが、見た目と違って図太い神経がそれを完璧に阻止していた。
「これを」
ヘンデルはメロディの側によると豪華な花束を差し出した。
季節が違う花は温室で育てられた高級品。
真っ赤なラナンキュラスとガーベラの組み合わせが表すのは賛美と応援。
明日の試験のことを考えての贈り物であることはすぐにわかった。
「ありがとうございます。これもアフターフォローの一環でしょうか?」
すっぴんはともかく、ヨレヨレの部屋着だけは見ないで欲しいと切に願いながら、メロディは尋ねた。
「俺とカミーラとベルの三人からだよ。二人は仕事があるから俺が届けに来た」
「ヘンデル様が一番お忙しいのに」
「今日は休み」
メロディは目を見開いた。
「平日なのに?」
「愛の日だからねえ」
王太子が休みを取ったため、側近も休みになった。
上司が休みの時でなければ部下も休めないとも言う。
一応は通常通り出勤して変更や問題がないかを確認したが、終わればそこまで。
王宮に住んでいる状態のヘンデルは久しぶりに実家に帰る予定で、その途中でキュピエイル侯爵邸に立ち寄ったことをヘンデルは説明した。
「さっきの曲は試験の?」
「明日弾く予定の選択課題曲です」
ピアノコースの実技試験は三回。
一次は課題曲。
二次は選択課題曲。
三次は自由曲を演奏することになっている。
「俺は音楽の専門家じゃないけれど、実力的には合格できると思う。合格できる可能性がある者しか本試験を受けれないからね」
「そうですね」
メロディは真剣な表情で頷いた。
「一次試験の時に近い時間の方々と会いましたが、見かけたことがある方ばかりでした。あの顔触れからどうやって選ぶのか、審査員の本音をお伺いしたいところですわ」
「どの演奏がいいと思うのかは人によって違う。見た目や言葉遣い、所作を重視する審査員もいると思うよ」
「実技試験なのに見た目も?」
「俺なら採点する。葬送行進曲なら黄色いドレスよりも黒いドレスの方がいい。演奏曲を大切に思うのであれば、衣装も合わせるだろうからね」
メロディは反省した。
発表会やコンクールの時の衣装選びは曲に合わせていたが、試験の時の衣装には注意を払っていなかった。
「ドレスコードがあるわけじゃない。どんな服装をするかの選択も個性のあらわれかもしれない」
「そうですわね」
「一曲、聴かせてくれるかな?」
「ぜひ! 感想をお伺いしたいのでよろしくお願いいたします」
メロディは着席すると花束をわきに置き、深呼吸をした。
「三次の曲を弾きます。演奏時間に制限があるので短く編曲しました」
三次の自由曲はどんな曲でも構わないが、制限時間がある。
長い曲の場合は自身でアレンジして短くまとめなければならない。
ほとんどの受験者は既存曲をアレンジしたものか自身で作曲した新作にする。
そうすることで作曲や編曲の実力があることを示すのだ。
「わかった」
メロディが選んだのは有名な超絶技巧曲。
楽譜通りに弾けば演奏時間は五分以上になってしまうため、短くアレンジした。
「いかがでしたでしょうか?」
原曲で最も難しいパートはそのまま取り入れ、前後の部分をアレンジして五分以内になるよう収めた。
この曲はプロのピアニストでも弾けない者がいるほどの難曲。
最難関パートをしっかりと取り入れているため、誤魔化すためのアレンジではないと判断して貰えるだろうとメロディは思っていた。
「ヘンデル様?」
演奏をどう思うのかは自由。
好きか嫌いか、良いか悪いか、自分が感じたまま言葉にすればいいだけ。
だというのに、ヘンデルは考え込んでいた。
「お気に召さなかったでしょうか?」
「正直に言っていい?」
「その方が嬉しいです」
「あくまでも俺の意見だけど、物足りなかったかなあ」
ヘンデルはたしなみ程度にしか音楽を知らないが、それでもメロディの弾いた曲は有名だけに知っている。
超絶技巧曲であることもわかっているが、メロディは綺麗に演奏したと思う。
だが、短い。
制限時間があるせいだとわかっていても、ヘンデルは納得できなかった。
「この曲は美しい音色だけでなくピアニストの技能も堪能できる曲だ。なのに、もう終わりかって感じだった」
「それは……演奏自体は良かったということでしょうか?」
「相応に。ただ、最後に残った不足感は俺の問題だ。満足した状態での拍手はできない。それはお気に召さないってことかもしれないよね?」
メロディは驚くべき発見だと思った。
ヘンデルはピアニストでも演奏者でもない。観客としての感想を言っただけ。
素晴らしかった。もっと聞いていたかった。
そのような気持ちであれば良い意味になるかもしれない。
だが、物足りない。もっと長い方が良かった。満足の上で拍手をしたかった。
そうなってしまうと悪い意味になってしまう。
いかに素晴らしい演奏を披露したつもりでも、聴く者に喜びと満足感を与えることができなければただの自己満足でしかないとメロディは思う。
悔しい。そして、悲しい。
「終わり方よりも技巧的な部分にこだわって編曲したからじゃないかなあ。俺としては終わり方にこだわって欲しかった。でも、演奏者から見れば技能的な見せ場を作りたい。試験なら評価ポイントを気にしないとだからね?」
「そうですわね」
メロディはしょんぼりと肩を落とした。
ヘンデルは気を遣ってくれているが、メロディとしては喜べない結果だ。
「首席合格できたら何か贈るよ。カミーラの結婚式のことでも協力して貰えるしね」
「首席でないと駄目なのですか?」
「一次で一位通過した者が入学できないわけないし?」
国内トップクラスの実力者が同じ曲で競い合う一次試験。
複数の審査員による評価の違いがあったとしても、一位通過は総合評価において最高点を得た証。
王立大学音楽部の指導陣がメロディの才能と実力を認めていることは確かだ。
よほどのことがなければ不合格はない。
「二次の審査員は変わるけれど、一次の通過順位と大きく変わる結果になることは少ない。でも、三次は自由曲のせいで順位の変動がある。最終的な首席の座は三次にかかっているらしいよ?」
「調べたのですか?」
「カミーラが教えてくれた。音楽部の友人もいたからね」
王立大学の女子学生数は男子学生数よりも少ない。
その影響で学部を越えた結びつきが男子よりも強い。
「三次試験は一次や二次とはまったく違うと思った方がいい。なぜその曲を選んだのかも採点対象だ。難易度が高く実力を示したいからというだけではありきたりだよ。俺が審査員なら特別なエピソードがある曲がいいかな」
特別なエピソード……。
メロディは困った表情で下を向いた。
三次の曲を選んだのは超絶技巧曲と言われているから。実力を示すのに丁度良いから。
つまり、ありきたりな理由だった。
それでは審査員にアピールできないだろうとヘンデルは言っている。
「メロディの好きな曲は?」
メロディはまたしても返事に窮した。
ピアノは両親から習うように言われたのがきっかけだ。
楽譜のある曲やコンクールの課題曲を完璧に弾けるよう練習して来た。
自分が好きだからという理由で練習したことはない。
嗜好ではなく特技。
自身の持つ才能を磨いて来ただけだ。
「……どの曲も素晴らしいです。作曲家の心や魂が込められた作品ですので」
様々な音楽への理解とリスペクトであるかのような答え。
優等生らしいかもしれないが、無難で表面的な答えでしかないことをメロディはわかっていた。
ヘンデルに質問されているのはそのような答えではない。
メロディの特別な気持ちが込められた曲だ。
「俺にとっての特別な曲は国歌だなあ」
シャルゴット一家に音楽家はいない。
初めてヘンデルが聞いた音楽と言えるものは国歌だった。
それは成長する過程で何度も耳にしてきた曲であり、自ら歌ってきた曲でもある。
「俺の子守歌は国歌でさ。そのせいで馴染み深いんだよねえ」
「国歌が子守歌ですか?」
メロディは驚いた。
「そう。子守歌って沢山あるよね。エルグラードだけでなく世界中に。地方によって旋律は一緒でも歌詞だけ違ったりすることもある」
「ありますね」
「俺はヴィルスラウン領で生まれた」
母親はヴィルスラウン領の管理を任されていた。
出産予定日よりも前に余裕をもって王都に戻るはずだったが、仕事が片付かないことから予定を遅らせた。
すると予定日よりも早く産気づき、ヴィルスラウン領で出産することになってしまった。
出産に立ち会うために王都に集まっていた家族も親族も大激怒。
貴族が自身の領地で出産することは普通にあるが、最上位領のシャルゴットでもなければ名門領のイレビオールでもない。
元辺境だった広大な田舎領。芋畑が広がる場所だ。
王太子と同じ年に生まれた男子だからこそ、出生地が将来に影を落とすだろうと嘆かれた。
「せめて子守歌だけは王都風のものにしようとなったらしい。でも、ヴィルスラウン領の者は王都風の子守歌なんてわからない。流行りの歌もね。それで国歌になった」
国歌を聞くと、ヘンデルは自分の出生にまつわるエピソードを思い出す。
祖父母や両親にとっては触れたくない黒歴史に等しく、ヘンデルも田舎生まれだと嘲笑されたことが何度もある。
だが、努力を惜しまず前へ、上へと進んで行くための原動力にした。
「エルグラードは大国だ。多様性の宝庫だけにまとまりにくいこともある。でも、国歌は人々の心を高揚させ、エルグラードとして一つにまとめる。音楽の力がいかに凄いかを感じずにはいられないよ」
ヘンデルの言う通りだとメロディは思った。
音楽は人々の心を高揚させ、一つにまとめる。
偉大な力があるのだ。
演奏家として、その力を最大限に引き出したい。
それができるピアニストを目指して来た。
拍手が欲しい。
それは自分の実力を認め、賞賛して欲しいからではない。
人々が音楽の素晴らしさを心から感じ、笑みを浮かべながら一つになる瞬間が見たいのだ。
メロディが名前さえ知らない多くの人々と一緒に喜びや幸せを享受できる瞬間であり、音楽の力と価値を共有している証明でもあった。
「おすすめの曲があったら教えて欲しい。いつか俺に会いたい状況になったらね?」
アフターフォローの一環。何かあれば会いに行けるということだ。
「わかりました。よく考えておきます」
「じゃあ、そろそろ」
「待ってください!」
メロディは叫んだ。
「デビューのことでお世話になったので、シャルゴット侯爵家にヘンデル様宛のチョコレートを贈りました。でも、それは両親が手配したものです」
完全な義理チョコ。
「ですので、私からは演奏を贈りたいのです。もう少しだけお時間をいただけないでしょうか?」
「俺のために何か弾いてくれるってこと?」
「そうです」
「嬉しいな。どんな曲?」
「ヘンデル様の好きな曲は何でしょうか? 私が知っているものであれば弾けます」
ヘンデルは微笑んだ。
「贈り物を選ぶ権利はメロディにある。贈りたい曲でいいよ?」
そんな……。
曲を指定してくれた方が嬉しいが、贈り物をするメロディが選ぶという考え方はわかる。それが普通だとも。
国歌を弾くべき?
たった今、ヘンデルから特別な曲だという話を聞いたばかりだ。
しかし、なんとなくその気になれなかった。
愛の日に贈る曲として相応しい感じがしない。
本音はトラウマの曲なのかもしれない。
メロディは悩んだ。
「迷っているね? 指定した方がいい?」
「できれば」
「じゃあ、結婚行進曲で」
メロディはヘンデルの選曲に驚いた。
「結婚行進曲ですか?」
「クオンもカミーラもキルヒウスも結婚した。ベルもそろそろというか、今日が山場かもしれない。大切な人に幸せになって欲しいという気持ちを込めて選曲した」
素敵な理由だとメロディは思った。
「ヘンデル様も今年が山場では?」
「焦るつもりはないけれど、そうかもね?」
「即興でアレンジします」
メロディは椅子に座り直すと深呼吸をした。
そして、有名な結婚行進曲を弾き始める。
最初はゆっくりと。
結婚の曲といえばこれだと人々が思い浮かべる旋律から始まる。
この曲が作られたのは作曲家が十七歳だった時。
未婚の少年が作った曲だった。
強く華やかな曲はいかに結婚が素晴らしいかを賛美するかのようで、祝福するためにかけつけた多くの人々が笑顔を浮かべる場面を想像できる。
結婚式を挙げた二人は人生における最高潮。満面の笑みなのは言うまでもない。
多くの人々に祝福されながら新郎新婦がバージンロードを進んでいくかのような中盤。
そして、新しい家庭を築くために旅立ってしまったことへの寂しさが混じりつつも、幸せな余韻を繊細な指使いによって奏でるかのような最後のパート。
それが原曲の構成だ。
しかし、メロディは中盤から技巧的にアレンジした。
これは自身の実力を誇示するためではない。
結婚に辿り着くまでにあった多くの困難と努力をあらわすためだ。
ヴェリオール大公妃になったリーナは元孤児から言葉にできないほどの苦労を重ねた。
カミーラもまたキルヒウスとの縁談が一度流れたものの、条件を調えるという言葉を信じてゴールインした。
誰もが何の苦労もなく目標やゴールに到達するわけではない。
身分でも財産でもなくダンスという共通点から人生のパートナーになろうとしているベルとシャペルは、今まさにゴールするための試練に直面している。
そして、元辺境だった田舎に生まれたハンデを背負いつつ、努力を重ねて王太子に尽くし続けるヘンデル。
幸せになって欲しい。全員に。
だからこそ、最後は圧倒的な歓喜で終わらせたい。
メロディは最後のパートを完全なオリジナルに変えた。
自分もグランドピアノも全力を出す。
何もかもを捧げ、尽くすように。
魂を込めたフォルティッシモだ。
演奏が終わった瞬間、音楽室は静かになった。
だが、部屋中に溢れていたのは圧倒的な歓喜。祝福。華々しい結婚式の後に続く幸せな人生の予感だ。
結婚した二人は幸せになった。一生。
心からそう感じ取ることができた。
「凄い」
ヘンデルは驚いていた。
メロディが優れたピアニストであることは知っている。
自分のために弾いてくれるという申し出は、メロディにできる最上の選択だ。
嬉しいに決まっている。
どんな曲であってもいいと思っていた。
だが、そう思ってしまった自分が情けない。
メロディは全力で演奏をしてくれた。
ヘンデルの心を満たすために自身が持つすべてを込めてくれたのだ。
「最高だった」
世辞ではない。まぎれもない真実だ。
「これまでの人生で一番の演奏だった。ありがとう」
メロディは笑顔を浮かべた。
だが、あまりの嬉しさに涙も溢れた。
全力で演奏した。そして、自分の気持ちが伝わったと思ったからでもあった。
「ヘンデル様のためにピアノが弾けて良かったです」
「俺もそう思う。メロディがピアノを弾けて良かった」
ヘンデルは満面の笑みで応えた。
「泣かせてしまってごめんね?」
「喜びの涙です。全力を尽くしたのでホッとしたというか」
「圧倒的な幸せを感じさせる曲だった。俺以外にも聞かせたかったなあ」
「ヘンデル様のためだけの演奏です」
「そうだった。本当にありがとう。じゃあ、またね」
「はい、また」
「見送りはしなくていいよ。練習があるだろうからね」
ヘンデルはにっこり微笑むと音楽室を退出した。
やっぱり……大物な感じ。
何から何までスマート。大人だ。
恥ずかしくて逃げたくて気絶したかった気持ちはいつの間にか消えていた。
今の気持ちはと言えば、
もっといて欲しかったのに。
だが、ヘンデルは久々の休みで実家に帰る予定がある。
自分のピアノをもっと聞いて欲しいというのは我儘であり、明日の試験に備えて練習しなければいけないのも確か。
三次の曲も変えないと。
やるべきことがある。それをまずは片付けないといけない。
絶対に首席合格するわ! ご褒美が貰えるし!
メロディのやる気は急上昇した。





