1069 愛の日の始まり
エルグラードにおける二月十四日は愛の日。
愛する者に愛を伝える日として多くの国民が伝統的慣習を大切に受け継いでいる。
但し、国家行事ではないことから祝日ではない。
今年は平日ということで、働いている者のほとんどがいつも通りの出勤だ。
完全に休みを取るのは少数派で、フレキシブルタイムや早退を利用する者の方が多い。
中には自分は関係ない。無縁の行事であり、普通に過ごすだけだと思う者もいる。
後宮調理部軽食課の計算係ブレッドはその一人。
学生時代は相当モテたが、群がる者の視線の多くはブレッド自身ではなく家名に向けられていた。
エルグラード経済界で知らない者はいない大商人アストラーハ。
ブレッドは当主の孫の一人であり、とにかく知り合っておけば将来役立つのは間違いないと思われていた。
授業料が高額な私立学校だっただけに裕福な生徒が多く、何をするにも贅沢で派手。
愛の日もまた財力をアピールする日の一つで、数や値段の桁が多い贈り物をやり取りするのが普通だった。
だが、後宮に就職すると、あらゆることが変化した。
愛の日についても同じ。
面倒で無駄の極致だと思っていた贈り物のやり取りがなくなった。
最初の頃は両親や親族から大量の贈り物や手紙が届いていたが、ブレッドはその全てを開封することなく返送した。
後宮ではブレッド・アストラーハの通称名を使用しているため、ブレンダン・アストラーハ宛の荷物は不明扱いにして欲しいと郵便部に伝え、中身を確認することなく返送する手続きをしたとも言う。
一応、いとこの一人には死亡した際の連絡先にしたこともあって通称名を教えたが、わかったという返事が来て終わり。
ブレッドは後宮に入ることでようやく欲しかったものを手に入れたような気がした。
だからこそ、外の世界のことは考えないようにして来たが、ついに過去の自分をよく知っている人物と出会ってしまった。
シャペル・ディーバレン。
私立学校の同級生だ。
嬉しくはなかった。だが、懐かしかったのは事実。
シャペルはブレッドがアストラーハを嫌っていることを知っていた。
またシャペル自身が何もかも受け継ぐ一人息子だというのに、親の七光りにすがって生きていくことをよしとしていなかった。
互いの意志を尊重する間柄だったのもあり、一緒につるんでいた頃もある。
シャペルは金持ちが余らせがちな招待状や各種イベントのチケットに目をつけ、生徒間でいらないものを譲り、欲しいものとの交換を仲介していた。
それをだんだんと組織化し、高等部の時に事業化した。
これまではシャペルやブレッドを始めとした友人達が親に内緒の小遣い稼ぎとしてしていたことを新設した商会の従業員がやってくれるようになった。
チケットの売買をしたければ新設した商会に連絡すればいいというだけで終わり。
その後もシャペルはちょっとしたニーズに応えるようなことを事業化し、学生だというのに複数商会のオーナーになった。
父親や伯父が銀行家であることから融資も受けやすく信用もあるため、シャペルの個人事業はみるみる成長した。
金融にも詳しく、いともたやすく莫大な金を生み出していける天才。
まさに錬金術師だ。
いずれエルグラード屈指の大富豪になると誰もが信じて疑わない人物だったが、第二王子の側近として官僚になっていることをブレッドは知らなかった。
官僚は公務員。仕事上で得た情報を元に投資や金融取引をすれば、違法行為になってしまう恐れがある。
商才を活かすどころか無駄にするような職種ではないかとブレッドは思ったが、シャペルの考えは違った。
「エゼルバードは僕に財布を預けるほど信用してくれている。どうとでもなる金なんかより、自分を信用してくれる友人の方が比べ物にならないほど大切だよ?」
ブレッドが納得できる答えだった。
「ブレンダンこそなぜ後宮に?」
王都は何かとわずらわしいため地方の大学に入り、いずれは他国に留学してそのまま居座るのもいいとブレッドは友人達に話していた。
「菓子職人になろうと思った」
ブレンダンはアストラーハに頼らず生きていくため、住み込みで働ける場所を密かに探していた。
その結果、見つけたのが後宮の人員募集だった。
採用されたのは良かったが、希望した調理部ではなく廃棄部に配属された。
夢はもろくも崩れ去ったが、衣食住に困らない後宮生活は悪くなかった。
「とにかく生きて行ければいい。ただの俺として」
「勿体ないなあ」
「お前だって同じだ。官僚をするなんて勿体ないと思うやつがいるだろう。だが、関係ないと思うはずだ」
「ブレンダンの言う通りだ。まあ、何かあったら連絡してよ。力になれると思う」
「何もない。むしろ、お前の方から連絡をするな」
「つれない友人だな~、でもブレンダンらしい」
「ここではブレッドだ」
数年ぶりの再会。
それでも友人と言ってくれることが嬉しかった。
そのせいでブレッドはなんだかんだとシャペルに言いくるめられ、軽食課の計算係になった。
自分らしく生きて行ければいいだけなら、廃棄部だろうが軽食課だろうが関係ないと言われてしまったのもある。
菓子職人にはなれなくても、様々な軽食を作る作業と管理業務をこなすことになった。
理想と現実は違う。
だが、廃棄部にいた頃よりは、ブレッドの思い描いていたことに近づいた。
俺がハート型のチョコレートを量産する日が来るとは……。
予想外。
だが、これもまた悪くはない。嬉しく感じてさえいる。
ブレッドはペストリー課の応援として、護衛騎士の監視を受けながら徹夜でハート型のチョコレートを作り続けていた。
「ブレッドさん! こっちの分は終わりました!」
「ホワイトは終わりだな?」
「そうです。ビターも終わっています」
ヴェリオール大公妃リーナが個人的な贈り物にする菓子はチョコレートになった。
勿論、ただのチョコレートではない。
基本的にはリーナが考えた通りだが、ブレッドや軽食課が進言したように改良された。
ハート型にしたのもその一つ。
リーナはチョコレートを作ることを考えたが、ハート型にすることを提案しなかった。
愛の日であれば真っ先に考えそうなことだというのに、なぜかそういうところで抜けている。
ブレッド達から見ると、普通のようでいて独創性があり、やや天然な女性。
「遅れていそうなところを手伝えばいい」
「ミルクは?」
「こっちはいい」
「手伝って欲しい班は?」
「ストロベリー!」
「キャラメルハートもまだ……」
あちこちから声が上がった。
「ブレッドがペストリー課長みたいだな」
本物のペストリー課長が笑った。
「俺は計算係だ」
「廃棄部にいたくせに手際がいい。後宮に来る前はどうしていた? 両親に菓子作りを教わったのか?」
「……知り合いに教えて貰っていた」
両親は常に仕事やパーティーなどの社交でいなかった。
ブレッドの世話は乳母や従僕、勉強は家庭教師がみていた。
一人で家にいたくなくて友人の所へ遊びに行き、様々な菓子を出されたことで興味を持った。
厨房に足が向くようになり、菓子の作り方だけでなく賄い料理の作り方を教わった。
そのことを聞いた両親は良い顔をせず注意してきたため、作業工程をノートに取ったり帳簿をつけることによって将来的に役立つ勉強だと思わせる工夫をした。
いずれは自分で食品関係の事業を立ち上げてみたいと話すと両親は喜び、様々な菓子店の商品を取り寄せたり、有名なレストランに連れて行ったり、コネを駆使して厨房等の見学まで手配してくれた。
そのまま両親が自由にさせてくれていたのであれば良かったが、祖父の決定で全てが変わった。
ブレンダンは計算が得意だな? 将来的には財務を担当させたい。
祖父の言葉は命令。
アストラーハの者は逆らえない。
計算も算数も嫌いだった。簡単過ぎて。
テストの点数が良ければ余計な勉強はしなくていいと思ったが、才能があると思われ目をつけられた。
なぜ、嫌いなことを一生しなければならないのか。
学校のカリキュラムにある分は仕方がないと思っていたが、仕事にする気は毛頭なかった。
だというのに、今の俺は計算係だ……。
役付きは何かあった際に責任を問われる。
他人が起こした問題のせいで解雇されたくない。
そう思って軽食課長になるのを固辞した結果の名称だ。
「まあ、ペストリー課は先行きが不安定だからな。軽食課の方がいい」
「確かに」
「軽食課でも菓子パンを作るしなあ」
「手伝いで行き来していると、どの課に所属しているかなんて関係ない」
「でも、査定には関係あるからなあ」
「昔のペストリー課は相当上の立場だった」
「調理部で一番上だったかもしれない」
「今の立場は弱い」
「一番下だな」
笑いが起きた。
内容は自虐的だというのに明るさが失われていないのはヴェリオール大公妃であるリーナのおかげだ。
側妃候補や上位役職者のために菓子を作っていた頃は、珍しくもなければ大して美味しくないなどと文句をつけられていた。
購買部で売っている菓子の方が美味しいと言われ、意気消沈したこともある。
本当に味わっているのか、見た目やブランド力で判断しているだけではないのかと文句を言いたかったが言えない立場。
悔しさを味わい不満を抱えながらも、我慢するしかなかった日々。
だが、今のペストリー課は過去から解放され、息を吹き返した。
不安はあるが、絶望ではない。
後宮が改善されることによって、ペストリー課も新しく生まれ変わるだけ。
全員がそう信じ、自分のできることで励んでいくつもりだ。
「これの評価、ペストリー課の存亡にかかわりますよね?」
「当然だろう」
「不評だったら全員解雇?」
「かもな」
「不評のわけがない」
ブレッドが答えた。
「菓子の発案自体はヴェリオール大公妃だ」
珍しいことに加え、食べる者のことを考えてもいる。
グリッシーニが評価されたように、今回の菓子も評価される。
「但し、味については嗜好次第だ。奇をてらったものではないだけに、普通程度には思ってくれる確率が高いだろう」
「普通か」
「美味しいじゃないのか」
「チョコレートだからなあ」
菓子においてチョコレートは好まれる品だけに良く作られよく食べられる。
最初は非常に美味しいと思われても、その味になれると普通に思えてしまい、人によっては物足りなく感じてしまう場合もある。
しかし、今回はあえて定番の味から選び、スパイシーな味付けは一切していない。
まさに、チョコレート。
添えたのは愛の日らしい工夫だ。
「気に入って貰えるといいなあ」
「喜んで欲しい」
「できれば、美味しいと思って欲しい……」
「ペストリー課の評価が上がるといいなあ」
「解雇阻止!」
「全力を尽くす!」
菓子職人達の想いもまた込められていた。





