1039 王太子府での軽食販売日
「おはようございます!」
フィセルはまたしても早起きしてベーカリー課に顔を出し、せっせと仕事を手伝い出した。
「無理すんじゃねーよ」
「そうだ。軽食課だろう?」
「手伝いをしなくても、ちゃんと協力するぜ?」
「わかってますよ」
フィセルは手を動かしながら答えた。
「早起きが習慣になっているので寝ていられません。それに一人でペストリー課に行くのはちょっと気が引けて」
ベーカリー課とペストリー課は意識し合うような存在だ。
仲が悪いわけではない。協力し合うこともよくある。
だが、ベーカリー課とペストリー課の窯は別物。
それぞれがパン職人や菓子職人としてのプライドを持っていた。
「ペストリー課からの異動は多くいますが、ベーカリー課からの異動は僕だけなので……」
パン職人達は理解した。
フィセルも新しい職場で精一杯頑張ろうとは思っているが、パン職人が一人だけという心細さがある。
「そうかそうか」
「俺達がそんなに好きなのか!」
「ま、居心地のいい場所ってのは人それぞれにあるからな」
「雰囲気だって違うだろうしなあ」
「うちは菓子じゃなくてパンだけに甘くないぜ?」
「むさいやつらばっかりだよな!」
ガハハと豪快な笑い声が響き渡った。
フィセルは下積み生活の長さに失望していた時期もあったため、軽食課への異動を喜んでいた。
しかし、ベーカリー課を離れたからこそわかった。
後宮に採用された者の中には自身の希望とは全く違う部署に配属されてしまう者もいる。
パン職人としてベーカリー課にいることができたのはとても幸せなことだったのだと。
「今日からランチが始まるので大変です」
「だろうな」
「昨日のようにはいかないだろう」
「ピザやパスタを作るらしいな? 大丈夫なのか?」
「パン職人としてもまだまだのお前が、美味いピザやパスタを作れるのか?」
「大丈夫ですよ」
フィセルは答えた。
「叔父さんがデーウェン出身の女性と結婚したので、遊びに行くとパスタやピザばっかりでした。子供の頃から作り方を習っています」
「ほう」
「そうなのか」
「ハチミツパンだってうちの母親が作っていたやつをアレンジしたものですからね。結構恵まれていたことに気づきました。粉ものについてはですけれど」
「粉ものねえ」
「名前がフィセルだしな」
フィセルというのは軽食によく使われる細長いパンの名称だ。
父親が自分の大好物を息子の名前につけた。
非常にわかりやすい理由と名称だ。
「そういや、ブレッドもそうじゃないか?」
「父親がパン好きなのか?」
「パン職人かもな?」
「うちの計算係ですよね? 通称名で本名じゃないです」
「へえ」
「廃棄部から来た菓子職人もどきだろう?」
ブレッドは若くして後宮に就職した。
菓子職人を目指したいと希望したが、所属先は廃棄部だった。
「軽食課に異動できて喜んでいそうだな?」
「自分が好きな菓子についてうるさいとか」
「ありえる」
「ブレッドさんは凄いですよ。店を出すために必要な知識があるし、計算も事務作業も完璧で。菓子職人っていうよりは工程管理者とか経営者みたいな感じですね」
「なるほど」
「そっちか」
「店を持ったらパンを焼いているだけじゃ駄目だからなあ」
「経営とかさっぱりだ」
パン職人になったからには自分の店を持ちたいと思う。
だが、美味しいパンを焼くだけでは駄目だった。
店を出すためにはパンを焼くこと以外についても自分でしていかなければいけない。
「嫁に任せるしかないな」
「頭が良くて帳簿付けをしてくれる可愛い嫁が欲しい!」
「だな!」
「尻に敷かれるぞ!」
朝からベーカリー課には陽気なパン職人達の笑い声が響いていた。
十二時になるのは早かった。
「お待たせしました! ランチ販売を開始します!」
王太子府の廊下には長い行列ができている。
その熱気が瞬時に跳ね上がった。
「いらっしゃいませ!」
「二つですね。ありがとうございます!」
「十枚?」
「二十個も!」
「袋の券がないとお皿になります」
「お皿は無料ですけど、袋は有料です!」
「ありがとうございました!」
「次の方どうぞ!」
ランチの受け渡し自体は比較的スムーズだ。
初日ということで多くの者が来てくれると考え、十一時から食券のみを販売し始めた。
衛生上の観点からお金を扱った手で食品を扱うのは避けたいということもあり、まずは販売品のチケットを購入して貰う。
チケットを購入した者はサンドイッチ・ピザ・パスタの各列に並び、チケットと引き換えにランチを受け取る。
一人につきいくつでも購入できるが、ランチの三種類のいずれか一種類。自分一人で持てる分のみという制限がある。
一番人気は分厚いチキンが挟まれたチキンサンドで、紙袋を選択して買い込む者が続出した。
「お待たせ!」
王太子の執務室に戻って来たヘンデルは、事前に用意してあったテーブルに紙袋を置いた。
「チキンサンド、めっちゃ美味そう!」
「失礼します」
少し遅れてパスカルも姿をあらわす。
手にしているのはピザの入った袋だ。
「従騎士を中に入れますが、構わないでしょうか?」
「許可する」
ロビン、ピック、デナンはそれぞれがパスタとスープを乗せたトレーを持って入室した。
「ここに置いて」
「はっ!」
王太子府の廊下で軽食が販売されるにあたって、三人は廊下の警備を任され、それとは別にパスタとスープのセットを買う任務も与えられた。
行列に並ばない王太子、別のランチを購入するヘンデルとパスカルの分だ。
手分けして買うことで、全種類が三人分ずつ揃った。
「ご苦労さん。これはちょっとした気持ちだよ」
ヘンデルはそう言いながら、百ギール札が一枚入っている封筒を三つ差し出した。
「受け取れません」
「お気持ちだけで十分です」
「同じく」
従騎士の三人は断った。
第一王子騎士団の者が買収されたり賄賂を受け取るわけにはいかない。当然の判断だ。
「ちゃんとわかっているね。でも、今回は大丈夫。王太子殿下からだよ。給与が入るまでのつなぎってことで」
油断は禁物だと三人は判断した。
許可を貰ってあるなどと言われても、すぐに信じてはいけない。
警備を担う者だからこそ常に警戒し、慎重に対応しなければならない。
わからないことは上司に判断して貰うようにと教わっていた。
「パスカル様、どのように判断すればよろしいのでしょうか?」
デナンは上司でもあるパスカルに尋ねた。
「今回については受け取って構わない。但し、言いふらさないようにね」
「はっ!」
「わかりました!」
「言いふらしません!」
「ほいほいほいっと」
ヘンデルは三人に封筒を配った。
「ありがとうございます!」
「心から感謝申し上げます!」
「とても嬉しいです! ありがとうございます!」
従騎士達は敬礼すると、執務室を退出した。
「早速役に立ったねえ」
ヘンデルは笑った。
「護衛騎士には頼みにくいよね。こういうのって」
第一王子騎士団は護衛や警護のためにいる。
指示や命令で軽食を買わせることはできるが、本来の仕事ではない。
下位の従騎士だからこそ、使い勝手がいいのだ。
「見ただけで腹が膨れそうだ」
クオンは席を立つとテーブルに近づき、買って来たランチをじっくり見つめた。
「これは日替わりパスタとスープの組み合わせです」
販売が始まったばかりで買物部の対応も慣れていない。
複数種類の注文だと間違いやすいため、一人に付き一種類のランチを選択して買うことになった。
但し、同じ種類かつ自分自身で持つことができる量であれば複数買えることも説明された。
「一人だと一種類のランチとスープしか買えない。でも、何人かで手分けして買えば全部揃う」
「本日の販売メニューはチキンサンド、ソーセージのピザ、バジルソースのパスタ、野菜入りコンソメスープでした」
「食べていい?」
「椅子はないのか?」
「廊下組と同じく立ち食い体験」
ヘンデルは早速自身の買って来たチキンサンドを手に取った。
「これ見てよ! 肉厚なのに五ギールだよ? やっすーい!」
「学生街で売っていそうな品です」
「ん!」
ヘンデルはチキンサンドに思いっきりかぶりついた。
「んん~っ!」
モグモグしているせいで言葉にはなっていないが、その表情を見れば満足していることがわかる。
「ピザが欲しい」
「わかりました」
パスカルは事前に用意していた皿にトングでピザを取り分けた。
「フォークは要りますか?」
「手でいい」
ピザは丸い円形タイプだが、そのままでは大きくて食べにくい。
そこで具を乗せた面が内側になるよう半分に折ってあるのがエルグラードの屋台流だ。
人によっては半分をもう一度折り、クレープのような三角形にして食べる。
「どうぞ」
「かなり大きい」
クオンはおしぼりで手を拭き、半月型のピザを手に持った。
「学生時代に食べていたのはもっと小さかったな」
「量り売りの屋台だよね?」
アイギスがお気に入りだったのはピザを量り売りする屋台だった。
デーウェンでは四角いピザもあり、手頃な価格で食べることができるよう量り売りをしている。
ちょっとした空腹感を紛らわせるためだけでなく、急ぐ時の食事としても重宝されていた。
「まだ温かい」
熱々ではないが、冷めきってはいない。
冷えた食事が多いクオンは嬉しそうにピザを食べ始めた。
パスカルはパスタの入った皿を持つと、フォークでクルクルと器用に巻き取って口に運んだ。
「いやいや、やってくれたね! マジで美味い! しかも、五ギール! 大満足っしょ!」
ヘンデルはチキンサンドの全てに満点をつけたいと思った。
「期待以上だった! 一回でも食べちゃうと、官僚食堂に行く気がしないなあ」
お世辞抜き。外部に特注したサンドイッチレベルだ。
間に挟んであるのはチキンというよりはチキンステーキ。
外注で取り寄せれば倍以上の値段で送料もかかるとヘンデルは思った。
「ピッツァロッサだな」
ロッサというのはデーウェンにおける赤の意味。
ピザであれば赤いトマトソースが塗られたもののことで、チーズ以外の具がない。
ソーセージピザという名称のわりに、ソーセージの量が少ないとクオンは感じた。
「ソーセージが少ないのは五ギールのせいだろう。チキンサンドの影響かもしれないが」
チキンサンドは原価率を上げ、ソーセージピザで原価率を下げたのかもしれないとクオンは推測した。
「パスタはどう?」
「美味しいです」
通常のバジルソースはバジルペーストのことで、チーズと混ぜたものを思い浮かべる。
しかし、今回のパスタにはクリームも使われていた。
バジルクリームパスタと言った方が適切だ。
「生パスタのモチモチした感触に濃厚なバジルクリームのソースがしっかりと絡んでいます。温かい方が嬉しくはありますが」
「冷製パスタ?」
「そこまで冷えてはいません。運ぶ間に冷めてしまったのだと思います」
「サンドイッチはこれでいいけど、ピザとパスタは温かい方がいいよねえ」
「スープは温かい」
冬籠りの差し入れで配られたスープは熱々だった。
今回のスープも熱々なことを考えると、中庭で温め直しているのかもしれなかった。
「野菜も取れる」
「そうだね。というか、一人で三種類ってきつくない?」
軽食かつ安価な値段だけに少量の可能性を考えたが、どれもボリュームがあった。
「パスタだけでは足りない気もしますが、スープがあれば満足度が高まります。女性には丁度いい量かもしれません」
「あー、女性を意識したのかな?」
「十ギールから十五ギール以内の昼食に抑えたいという話は聞いていたのですが、単品で五ギールにするとは思いませんでした」
「官僚食堂でこれと同じものを皿に乗せて出せば、十ギールでも喜ばれそう」
「リーナは優しいからな」
儲けたいはずだというのに販売価格を抑え、利用者を喜ばせようとしている。
儲けることよりも福利厚生の部分に重きを置いていることがよくわかった。
「俺だったら主食一つとスープのセットで十ギールをつけるかなあ」
「そうですね。さすがに安すぎるのではないかと」
「夕食の時に伝えておこう」
クオンはそう言った後、テーブルの上を見た。
「これをどうするか。無理をしないと食べきれなさそうだ」
「護衛騎士に任せればいいのではないかと」
「一口は食べて見た方がいいって。チキンサンドとピザは半分に切るとか」
クオンは思いついた。
「半分に切って三ギールで売ればいいのではないか?」
六ギールになる。一ギール余分に儲かる。
「ピザは大きい。もっと小さくていい気がする」
「持ち帰りじゃなければ、量を減らした三種セットで十ギールとか」
全ての主食を半分の量にして一皿に盛り合わせる。
割高にはなるが、三種類を食べることができる。
「廊下販売ですので、基本的には持ち帰りです」
「パスタは皿だからなあ。袋に入れるのは無理だし」
「そうですね。立って食べるには向いていないせいか、パスタの列は少なかったです」
「一種類しか買えないなら、チキンサンドに並ぶっしょ!」
「課題は多そうだ」
「二月はお試しだよ。最初から完璧にするのは難しい」
「チケット販売についても工夫した方がいいのではないかと」
先に発行して売ってくれるのであれば、当日はチケットの列に並ぶ必要がない。
手に入るかどうかもわかりやすいとパスカルは思った。
「ただ、数や値段を急遽変更した時に困るかもしれません」
「そうだねえ」
「チキンサンドは半分に切る。パスタは余っている皿に取り分ければいいだろう」
クオンは食べ残しが出ないようにしたかった。
「じゃ、護衛騎士に毒見ってことで食べさせるね?」
「好きにしろ」
「では、私のチキンサンドとピザも切ります」
ヘンデルはドアを開けると騎士の間にいる護衛騎士達に声をかけた。
「結構量が多くてさ。毒見ってことで少し食べてくれない?」
「実は期待していた」
クロイゼルがにやりとした。
「同じく」
アンフェルも期待していた。
「ありがとうございます!」
「お任せ下さい!」
護衛騎士達は喜んで毒見役を引き受け、その味と量と値段を絶賛した。
小話追加。
お昼。
国王のハーヴェリオン、宰相のラグエルド、首席執務補佐官エドマンドの三人は会議として集まっていた。
「昼食の時間だな」
「そうだな」
「軽食販売の時間でもある」
ため息。無言。そわそわ。
ドアがノックされた。
「失礼致します。本日の昼食は私の方で手配致しました」
「グレゴリー!!!」
ワゴンの上にあるのは三種類の軽食をほどよく盛り合わせたプレートランチとスープだった。
「王太子府で販売されている軽食です。試食されてはどうかと思い、全種類を少しずつ盛り合わせたものに致しました」
国王達はグレゴリーの優秀さとその細やかな気遣いを高く評価した。





