1038 最高の一歩
後宮内に新しい歴史が刻まれた。
それは軽食店でのパン販売だ。
福利厚生の一環として、日々の食事では足りない者、甘いものが食べたい者、できるだけ借金を増やさないようにしたい者のためにパンを販売する。
それは後宮で働いていたことがあるヴェリオール大公妃が後宮の人々に寄り添い、少しでも力になりたいと思ったからこその試みでもあった。
「完売間違いなしです! 集計は後ほど報告します!」
軽食課に買物部からの伝令が来た。
軽食課は予定していた販売分も追加分も全て出荷し終え、手伝ってくれた者へ配るカップケーキ作りに勤しんでいた。
「完売だ!」
「やったあー!」
「奇跡だ!」
「後宮の歴史に残りそうだな!」
軽食課は歓声に包まれた。
「俺、頑張った!」
「私も!」
「手伝いに来てくれた人がいっぱいいたから!」
「窯焼きの失敗もなかった!」
「ペストリー課とベーカリー課にお礼を言わないとだな!」
「調理部全体に言うべきよ!」
それぞれが思うがまま叫んだ。
抱き合って喜ぶ者。拍手をする者。満面の笑顔を浮かべる者。
全員の心に湧きあがる喜びと達成感。
間違いなく幸せな時間になった。
「聞いてくれ」
ブレッドが口を開くと、軽食課の部屋にいる全員が口をつぐみ注目した。
「正確な報告は後で来る。もしかすると何らかの事情で販売できないものがあったかもしれない。だが、売れると判断されたものについては完売だ」
「完売最高!」
「凄いよ、本当に!」
「やったねー!」
盛大な拍手が鳴り響いた。
とにかく必死で沢山作った。
可能な限りの数を。
ペストリー課の窯がフル稼働し、臨時追加でベーカリー課にも頼んだ。
早番で勤務を終えた者もかけつけ、無償の手伝いを申し出てくれた。
まさに調理部全体が軽食課と買物部のためにできるだけの力を貸してくれた。
だからこそ、達成できたことだった。
「正直に言う。毎日これほど作って売るのは難しい」
初日だけに絶対に売れるという確信があった。
何日もかけて食材を仕入れ、準備をしてきた。
当日は全力を尽くすのみ。
それに見合うだけの結果は出たが、毎日同じようにはできない。
手伝いを確保できない。各課の協力にも限界がある。売るものも違う。
理由を挙げればきりがない。
「明日はランチがある。種類も作業も増えて大変になるだろう。数は出せない。単価が上がるのがせめてもの救いだ」
ブレッドは正直に伝えた。
これから一緒に仕事をしていく上でとても大切なことだと思ったからだ。
「だとしても、俺達は最高の一歩を踏み出した。このことを忘れず、これからも頑張って行こう」
「軽食課、最高!」
「絶対頑張るー!」
「やってやるぜー!」
叫びと共に力強い拍手が部屋中に響き渡った。
「まだまだ仕事はある。手伝ってくれた者へのカップケーキが必要だ。作業に戻れ!」
「了解!」
「じゃんじゃん作るぜ!」
「焼くのはペストリー課だけどな!」
「生地作りはやらないとでしょ!」
手伝いにカップケーキを作らせるわけにはいかない。
軽食課の全員は疲れを吹き飛ばすように笑顔を浮かべながら、大量の材料を合わせて生地を作る作業に戻った。
夕食の席についたリーナは早くクオンと話したくてたまらなかった。
うずうずとしながら夕食時間になるのを待っていたのだ。
席についてからも今か今かと待ち望んでいた。
「今日は素晴らしい結果を手にしたようだな?」
「既に報告が?」
「完売したとは聞いた」
「そうなのです!」
リーナの嬉しい気持ちは一気に溢れだした。
「ランチがないので三種類でしたし、焼いて出せばいいのが二種類あったからです」
コロッケパン、パンプキンパイ、ハチミツパンの三種類のうち、パンプキンパイとハチミツパンは焼く前の作業に手間がかかる。
だが、焼いてしまえばパンケースに入れればいい。店ですぐに売れる。
コロッケパンはコロッケを作る作業と千切りキャベツを用意する必要があった。
コロッケを揚げる作業やパンを用意する作業は別の課でするが、最後にコロッケパンに仕上げるための作業も軽食課だ。
二回の作業があるため、その分手間取った。
「かなりの人がお手伝いをしてくれたそうです。でなければ無理でした」
炊き出しの時のように、調理部を始めとした大勢ができる限りの協力をしてくれた。
そして、沢山の人々が買いに来てくれた。
全てにおいて皆が力を合わせた結果だと言える。
「正直、ここまで作って売って買ってくれるとは思いませんでした。本当に感謝の言葉しかありません」
「良かったな」
「はい」
「取りあえず、食事にしよう」
「そうですね」
食事が始まったが、リーナは嬉しくて話したくてたまらない。
前菜を食べたのは一口だけで、すぐにまた喋り出した。
「かなりの無理をして追加分を作ったそうです。なので、毎日これほど作ることはできません。売り上げだって全部が利益になるわけではありません。原材料費はかかりますし、人件費もかかります」
但し、様々な部分で後宮ならではの特別待遇がある。
まず、どれほど売り上げが多くても税金がかからない。
店の賃貸料や設備投資費といった経費もほとんどかからない。
軽食課だけで独占するようなものでなければ、調理器具や食器類も全て無償で借りることができ、新規購入分も調理部の経費で落としてくれる。
食材の一部も無料だ。
後宮に届く小麦を始めとした献上品関連の無償品、商人から大量に購入している調味料の類も無料かつ自由に使える。
後宮で貯蔵している分だけでは足りず、軽食課用として追加発注する分についてのみ軽食課の経費で落とせばいい。
おかげで原価は非常に安い。
一方、人件費は高くつく。
民間では仕事の繁忙度に応じて臨時で人を雇い、固定の雇い人を控えて人件費を抑える。
後宮は全員が固定の雇い人だ。繁忙期かどうかに関係なく人件費がかかってしまう。
いかに原価が安くても人件費が高くつく以上、全体的には経費がかかる。
調理部全体が手伝っていることを考えて計上すると、まったく足りない。
「でも、これまでは予算が減る一方でした。販売によって収入を得られますので、予算が減りにくくなります」
「そうだな」
まずは一歩。
雇用を守るための取り組みは始まったばかりだ。
「軽食課によって雇用を守る方法が増えました。日用品や文具を販売する以外にも利益が出るので心強いです!」
「後宮はともかく、王宮での販売分は高く売ってはどうだ?」
「福利厚生の一環なので、利益だけを重視するようなことはしたくありません。利用者を喜ばせ、助けるようなものでありたいのです」
「そうか。お前がそれでいいならいいのだが」
「ただ、赤字も困ります。安定した黒字にできるような方法を考えていかなければなりません」
「そうだな」
「商売は難しいですね」
リーナはため息をついた。
売る側としてできるだけ多くの儲けが出るよう高く売りたい。
だが、買う側は良いものをできるだけ安く買いたい。
どちら側のことも考えてしまうリーナにとっては悩ましい問題だった。
「前菜を食べた方がいい。残すと無駄になる」
「そうですね!」
リーナはモリモリと前菜を食べ始めた。
食べ物を無駄にしないことも、リーナが取り組みたいことだった。





