1037 リーナのパン
国王の執務室では会議が行われていた。
参加者は国王のハーヴェリオン、宰相のラグエルド、首席執務補佐官エドマンド。
いつものメンバーである。
十三時から始まった会議は淡々と進んでいた。
だが、三人には気になることがあった。
リーナが新設した買物部の軽食販売だ。
初日は後宮内での販売のみ。
明日は王太子府での販売もあるが、王太子府か王子府の者でなければ買うことができない。
「国王府だけ軽食を買えないというのはどうなのだ?」
ハーヴェリオンは思わず呟いた。
食べて見たいという本音が漏れたとも言う。
「そもそも後宮は国王府の管轄ではないか。王太子府でも王子府でもない」
「その通りだ」
エドマンドが同意した。
ヴェリオール大公妃は次々と常識を打ち破って来た。
冬籠りの差し入れ。聖夜の茶会。炊き出し。
そして、新年からの買物部新設。軽食販売。
気にならないわけがなかった。
「王太子は後宮に自分の管轄する資金を流すつもりだ。第二王子も同じく。そのための軽食販売だ」
後宮の予算を大幅に削り、強制的に縮小化するしかない状況に追い込んだのは国王と宰相だ。
軽食を食べたいがゆえに後宮に資金を流すわけにはいかない。
表向きとしては王太子府と王子府の新しい福利厚生として、買物部による食品の販売を追加するかどうかを考える実地調査ということになっていた。
「軽食の販売数は少ない。王太子府と王子府の官僚達が奪い合うのは必至だ。国王府が加わる必要はない。官僚食堂で食事させろ」
「不味いのだろう?」
「人気がないのは確かだが、王宮省の管轄だ」
官僚食堂の食事が不味くて高いと不評だとしても、ラグエルドがその問題に取り組むことはない。
官僚食堂は王宮省の管轄だけに、王宮省が解決すべき問題だった。
「王宮省では解決できなさそうだ。後宮と同じではないか? 当事者達に任せただけでは解決できないこともある」
後宮の問題は何十年も前から続いていた。
国王は任せて欲しいという友人や知人、国王府、後宮を信じて任せて来た。
結局、問題は解決できず、とてつもない赤字ができてしまっただけだった。
ラグエルドが後宮統括になったことで次々と不正行為が発覚し、処罰者が続出。
金食い虫でしかなかった後宮の上層部を一気に解雇した。
おかげで人件費は驚くほど激減した。
不正等の責任問題に絡めて厳しい罰金も課し、負債の返済に充てられることになった。
これを何十年も前にしていれば、とてつもない赤字にはならなかった。
王宮省が抱える問題も早期に解決を目指した方が、官僚達の不満も大きく育たずに済むのではないかとエドマンドは思った。
「ランチはどうでもいいが、スイーツだけでも食べたい」
ハーヴェリオンは甘い物が好きだ。
リーナが考案した甘いグリッシーニはとても美味しかった。
販売されるスイーツも美味しいに違いないと思っていた。
「ただの菓子だ。いつも食べているだろう?」
「クッキーだとしても、リーナの作ったものがいい。一回だけでも食べてみたい」
「スイーツは菓子パンだ」
エドマンドは買物部で販売される軽食についての情報を得ていた。
「菓子なら後宮の購買部でも売っている。だが、空腹感を紛らわせにくい。そこで、福利厚生の一環として安い菓子パンを販売し、後宮の者が少しでも借金を増やさないように支援するらしい」
「どれほど安くても、借金のある者が買えば借金が増える」
ラグエルドの指摘は厳しくも正しかった。
「日々の食事は提供されている。栄養失調になることはない。借金をしてまで間食する必要はない。貧民達は日々の食事にさえ困窮しているというのに」
「食事量に満足するかどうかは個人差がある。とはいえ、体重や体型を気にする者は控えるべきかもしれない」
「太ったとは思うが今更だ……」
昔は細かったが、今のハーヴェリオンはぽっちゃりしていた。
「お前達もかなり菓子を食べているというのに、なぜ太らない?」
「激務だからだ。食事を食べる時間さえ惜しい」
「同じく」
「私だって相当仕事をして来たと思うが?」
「夜は甘いものも酒も控えている」
「同じく」
「そうなのか」
ハーヴェリオンはぽっこり出てしまった腹を見た。
「夜に食べなければ引っ込むか?」
「無理だ。運動するしかない」
「体型を気にする必要はない。私もラグエルドも痩せたくて甘いものや酒を控えているわけではない。常に冷静な判断をするために控えているだけだ」
「むう」
ドアがノックされた。
「会議中失礼します。ブレア公爵がお見えです。五分ほど時間が欲しいとのことです。いかが致しましょうか?」
ハーヴェリオン、ラグエルド、エドマンドは内心がっかりした。
グレゴリーは公爵家の跡継ぎらしく普段は堂々としているだけに横柄に感じてしまう者もいるが、恩義を重んじ細やかな気遣いもできる。
もしかするとヴェリオール大公妃付きの側近同士で友人でもあるパスカルに話をつけ、後宮で販売される軽食を持って来るかもしれないと密かに期待していた。
しかし、やって来たのはブレア公爵。
ヴェリオール大公妃付きの側近ではあるが、グレゴリーがうるさい者達に絡まれないようにするための牽制要員だ。
トール男爵も似たようなもので、宰相府の仕事が多忙なだけに最低限のことしかしていない。
二人は若手の側近だけでは難しい時に動く重鎮だった。
軽食を販売するからといって、自ら動くわけがない。
手土産を期待できるわけがなかった。
「五分程度ならいい。通せ」
許可を出すと、ブレア公爵が姿をあらわした。
その手には紙袋が三つ。
「どうした? 珍しいではないか」
ハーヴェリオンは期待の眼差しを紙袋に注ぎながら尋ねた。
「ヴェリオール大公妃が軽食を販売するのは知っていると思うが、側近用の配布分が届いた。宣伝用もいくつかある。腐れ縁のよしみで三人分持って来たが、いるか?」
「いるに決まっている!」
ハーヴェリオンは速攻で叫んだ。
「二人は?」
「食べる」
「貰う」
ラグエルドとエドマンドも答えた。
「後宮を延命するための資金集めだぞ?」
「新設を認めた。予算もやった」
「軽食に罪はない。食品ロスを増やさないための協力だ」
「早く寄こすのだ! 国王命令だ!」
意地の悪い友人の顔をしたブレア公爵は三人に紙袋を手渡した。
「お待たせ~! 持って来たよ~!」
シャペルは第二王子執務室にワゴンを押して入った。
そこにはエゼルバードと側近達が集合していた。
「シャペルは次々と成果を上げていますね」
エゼルバードの機嫌は非常に良かった。
リーナが販売する軽食を食べてみたかったが、後宮にいる人々のために販売するものだけに、堂々と欲しいというわけにも買い占めるわけにもいかない。
しかし、ヴェリオール大公妃付きの側近達であるシャペルはしっかりとエゼルバードの分を確保した。
「いくつあるのですか?」
「今日は三種類の販売で、各二十個ずつ。仕事上、僕は絶対に食べないといけない。実質として十九個ずつだよ」
「全員分あるとは思いませんでした」
「最初は各十個までって言われた」
他の側近はそれでも問題ないと判断したが、シャペルだけは困った。
エゼルバードの側近が多いこと、炊き出しの時もかなりの寄付金を集めたこと、今後も何かと協力してくれるはずだといって数量増加を説得したことをシャペルは説明した。
「さすがシャペルだ!」
「よくやった!」
「素晴らしい!」
「優秀だ!」
「友よ!」
「熱い友情を感じた!」
第二王子の側近兼友人達はシャペルを褒めちぎり、拍手までした。
「できるだけ作りたてのものを貰いたいとは伝えたけれど、さすがに冷めてる。すぐに食べる?」
「当然です」
実を言えば、全員昼食を取っていなかった。
「手で食べるものだけど……準備は良さそうだね」
「立食だが、必要そうなものは用意した」
大きなワゴンが数台。
おしぼり、皿、カトラリーだけでなくお茶の準備もしてあった。
「では、試食会を始めましょう」
「コロッケパンは三ギール、パンプキンパイとハチミツパンは二ギール。全部で七ギールだよ!」
「金を取るのか?」
「少額過ぎる!」
「奢れよ」
「そうだ。シャペルだろう」
「金持ちのくせに!」
「手に入れるための労力はプライスレスだよ? それなのに七ギールで許されるとでも思っているわけ?」
誰もが口をつぐんだ。
「明日のランチも特別に手配している。王太子府の販売所は凄いことになるよ。なのに、皆は僕のおかげで列に並ぶこともなく話題のランチを食べることができる。その凄さをわかっているのかな?」
その通りである。
王子府の者も買えるが、買物部の人数が少ないこともあって販売所は王太子府だけになってしまった。
わざわざ王太子府まで買いに行かなければならない王子府の者は不利に決まっている。
最悪の場合、一人も買えない内に売り切れだ。
「エゼルバードはいくらで売ればいいと思う?」
「初物はとても価値があるのですよ。とはいえ、七ギールですからね。百ギールで許してやりなさい」
「さすがエゼルバード!」
「慈悲深い!」
「ありがとうございます!」
「第二王子殿下、万歳!」
相当ふっかけられると思っていた側近兼友人達は安堵した。
「じゃあ、一人百ギールね! 台車の上に置いてよ」
シャペルは蓋を開けるとトングを手に取った。
ロジャーはエゼルバードのために茶を淹れ、セブンはおしぼりやカトラリーの用意をする。
ライアンが両手に皿を持って一番に並んだ。
「後で払う。一つはエゼルバードの分だ」
「ほいほい」
シャペルは皿を受け取るとコロッケパン、パンプキンパイ、ハチミツパンを一つずつ乗せた。
次に並んだのはジェイル。
台車の上に百ギール札を四枚置いた。
「ロジャー、セブン、ライアン、私の分だ。先に払っておく」
「まいど~!」
シャペルは営業スマイルを浮かべた。
順番に側近達がパンを貰っている間に、エゼルバードはナイフで切り分けた一口分のコロッケパンを口に入れた。
「……」
予想範囲内。
ジャガイモだ。コロッケは所詮コロッケ。
次はパンプキンパイ。
「……」
これもまた予想範囲内。
しかし、悪くはない。
奇抜さを狙っておかしな味にするよりもいい。
最後にハチミツパン。
「……」
エゼルバードは飲み込んだ後、もう一度ハチミツパンを見つめた。
そして、もう一口分を切り分け、口に運ぶ。
エゼルバードが!
一口以上食べた!
すなわちそれは、エゼルバードがもう一口食べてもいいと認めた証拠だ。
エルグラード一の美食家とも言われるだけあって、エゼルバードの判定は厳しい。
体を維持するために食事はしているが、それは美味しいということではない。
美容と健康のために仕方なく食べているというのが正しい。
「ふんわりしていますが、弾力もあります。口当たりもいいですし、何よりもこの控え目な甘さがいいですね」
三種類の中で最も平凡そうに思えるパンはハチミツパンだった。
ハチミツがかかっているようには見えないため、パン生地にハチミツを入れて焼いたもの。ありがちだ。
しかし、そうではなかった。
小さな丸いパンはとてもやわらかい。ふわふわだというのに、食べるとモチモチとした食感もある。
何の味もないパンのように思えるが、噛むほどに口の中にはほんのりとした甘みが広がっていく。
かすかなハチミツの香りとその甘さが砂糖を加えることによって引き立てられている。
とても優しい味だった。
「まるでリーナのようです。優しくて控え目なのに特別です」
エゼルバードが認めた!
一番個性のなさそうなパンだというのに!
エルグラードで最も美味なハチミツパンだ!
ヴェリオール大公妃の名前を出すなんて、最高の賛辞じゃないか!
コロッケパンから食べていた側近達は無理やり飲み込み、水を飲んで口内を整え、エゼルバードが認めたハチミツパンを口にした。
そして、
「んーー!」
「美味い!」
「なんだこれは!」
「優しい!」
「ほんのりした甘さが絶妙だ!」
「おかわりが欲しい!」
「俺も!」
「二ギールだぞ? ありえない安さだ!」
「このパンを作ったやつは凄い!」
絶賛だった。
エゼルバードはハチミツパンだけを完食した。
「シャペル」
「おかわりは駄目です。別の所にも持って行くので」
シャペルは牽制した。
「でも、また販売する時に買ってきます。それで勘弁して下さい」
「仕方がありません。ロジャー、払ってあげなさい」
「わかった」
ロジャーは皿をワゴンに置くと、シャペルの所へ向かった。
「エゼルバード分の百ギールだ」
王子であれば献上されて当然だというのに、エゼルバードは金を払うと判断した。
それだけの価値があるパンだということだ。
「まいどあり~! 一番嬉しい百ギールだ!」
「次回についてだが、私の分も買って来い」
ロジャーが言えば、解禁も同然だ。
「私も欲しい」
セブンもハチミツパンを希望した。
「俺も!」
「同じく」
「よろしくな!」
「頼む!」
「できるだけ沢山欲しい!」
「一個じゃ全然足りない!」
「再販が待ち遠しいな!」
大好評だ。
「皆から集めたお金で軽食課に差し入れしておくよ。その時に次の販売がいつ頃になるのか聞いてみる」
シャペルは心強い味方と評価を得られたことに笑みを浮かべた。





