1036 軽食の販売日
フィセルは早朝に起きた。
パン職人達は全員が早寝早起きかつ勤勉だ。
後宮から出た後は自分の店を構えたいと思っている者も多い。
しかし、後宮を出る前に店を開くことになった。
買物部の店という形だが、売るためのパンを作り、軽食課に渡す。
ベーカリー課から軽食課へ異動したのはフィセル一人だけだった。
軽食課自体は各課で分担する作業を通達する司令所のようなものであり、各課の手伝いをしながら進行度や品質を確認し、最終加工と出荷作業を行う。
食材の下ごしらえから完成までの工程全てを行うわけではないため、所属者数は抑えられていた。
「おはようございます!」
フィセルは駆け足で窯部屋に向かいながら挨拶した。
「おはよう!」
「おう!」
「おはようさん!」
ベーカリー課に限らず、調理部全体の朝は早い。
トラブルに備えて少しでも早く仕事を始め、予定よりも先行するようにするのだ。
窯部屋には当番がいて、日が昇るよりも早くから窯の温度を温めていた。
「おはようございます!」
「おう! 早いな!」
「軽食課のくせに!」
軽食課の勤務は八時からだが、フィセルは時計の針が進むまで寝ているつもりはなかった。
「手伝います」
フィセルは慣れた手つきでパン職人達と一緒に仕事を始めた。
「ペストリー課の方は大丈夫なのか?」
窯長に声をかけられた。
「今日はやる気満々ですよ。軽食課の仕事で盛り返そうって言っているらしくて」
「はは、こっちも負けてられねーな!」
「実は相談があって」
「なんだ?」
「軽食課の分は時間調整をして貰えませんか? できるだけ焼きたてを出せるようにしたくて」
いかにベーカリー課の窯が大きく何台もあるとしても、後宮にいる全員に焼きたてのパンを届けることはできない。
だからこそ、焼きたてのパンを提供できるようには考えない。
時間に関係なく窯の温度が上がったらどんどん焼きまくるスタイルだ。
軽食課用のパンだけなら時間調整がしやすく可能だとフィセルは思った。
「ま、そうだよな!」
「売るなら焼きたての方がいいよな!」
パン職人達はフィセルの気持ちも考えも理解できた。
自分がパン屋を開いたら、冷えたパンより焼きたてのパンを売りたい。
その方が美味しいと喜ばれ、評判も上がるに決まっている。
「しゃーねーな。何時から焼けばいいんだ?」
焼きたてを出すとはいっても、窯から出したばかりはとにかく熱い。
運搬にも加工にも時間がかかるため、フィセルは時間設定を早めにして伝えた。
「通常分を早く焼けるよう手伝います。ペストリー課の窯が温まったら使ってみてくれませんか? パンについてはベーカリー課が完全に仕切ってくれて構いません。ペストリー課も了承しています」
「それで来たのか」
「焼きたてのパンを食べにきたわけじゃないのか」
パン職人達はゲラゲラと笑った。
「誇り高きベーカリー課としては自分達の窯でしか焼かないというべきかもしれない。だが、緊急時は何でもありだ」
後宮には王家の者も最上級職の者も住んでいない。菓子や菓子パンを作る機会も必要性も激減してしまった。
軽食課の仕事で盛り返さなければ解雇対象になってしまう。
ペストリー課にとっては自らの命運をかけた緊急事態も同然だ。
「向こうの窯の調子を見るためにも、少しだけ焼いてみるか。お試しってやつだ」
「ありがとうございます!」
フィセルはすんなり窯長が承諾してくれたことに驚きを隠せなかった。
本心を言えば、断られてしまうのではないかと思っていた。
「お前は軽食課になったが、俺達の仲間だ。焼きたてのパンが食いたいのは誰だって同じだろう。前もって焼き時間を連絡すれば、できるだけ調整してやる」
「ありがとうございます! よろしくお願いします!」
フィセルは最大級の感謝を伝えるべく精一杯の大声で叫んだ。
朝、八時。
「おはようございます」
「おはようございまーす!」
「おはようですー!」
「おはよーっす!」
「おはよう」
挨拶をしながら軽食課の者が揃い、朝礼が始まった。
「今日の予定について説明する」
全体説明をするのは計算係のブレッドだ。
軽食課の全てを管理している。
計算係とは言いつつも、実質的には管理職。軽食課長も同然だった。
「今日は軽食店のプレオープンだ。王太子府でのランチ販売はないが、軽食店での販売時間が一時間早い。十三時から開店だ」
通常は午前中に王太子府用の作業を行い、午後は軽食店用の作業を行う。
今日はランチ販売がないことで軽食店の開店時間が早くなっており、午前中から軽食店用の作業をすることになっていた。
「軽食店への引き渡しは十二時から始まる。台車は軽食課専用のものが廊下に並んでいる。必ず一番から使え。足りないからといって、別の課や調理部の台車を使うな」
軽食の販売には後宮内外から強く注目されている。
日用品店や文具店のプレオープンと同じく、休みを取って開店前に並ぶと宣言している者も多数いる。
その注目と期待に応えるだけの数量を用意しなくてはならない。
そのために必要と思われるものを新規購入したが、実際の作業で不足しないかや回転率も調査することになっていた。
「スナックはコロッケパン、スイーツはパンプキンパイとはちみつパン。売れ行きが順調なら追加で出す。手伝いに渡すカップケーキは後回しだ。特別予約分は十三時に受け取りに来る。王族用だと思われるため、見栄え良く綺麗に仕上げろ。わかったな?」
「はい!」
「オッケー!」
「今日は三種類で楽だなあ」
「いやいやいや。量が半端ないだろ!」
「特別予約もあるしな」
「焼くのに失敗されるときついな」
「ペストリー課の窯なら大丈夫だ!」
「記録を打ち立ててやるぜ!」
そこへ女性達が団体でやって来た。
「おはようございますー!」
「お手伝いでーす!」
「八時組でーす!」
プレオープン初日は後宮にいる全員に一つ位は味わって貰いたいという軽食課独自の目標を達成するため、休日や非番の者に手伝いを呼び掛けた。
お礼は軽食課オリジナルカップケーキ。
一時間につき一個貰えるため、手伝う時間が長いほど多く貰える。
おかげで休みの者がこぞって朝八時から手伝うと言い出し、人数制限をしたほどだった。
「きゃー! 遅刻じゃん!」
「手伝いって別に遅刻ないでしょ?」
次々と集まる手伝いのせいで軽食課の部屋はあっという間に窮屈になった。
「コロッケ作りの手伝いは部屋を移動だ。緑のジャガイモと芽はしっかり取り除け。食材の安全度は極めて重要だ。軽食課の信用にかかわる」
すでに前日からコロッケ作りは始まっているが、当日分がまだまだあった。
「手伝いの人は俺と一緒に来て!」
「えー?」
「あんたと?」
「もっとイケメンを用意しておいてよ!」
「ブレッドさんじゃないの?」
「じゃあ、カップケーキ欲しい人は一緒に来て!」
「行く!」
「はい!」
「カップケーキ~!」
「ぶっちゃけ、コロッケの方が食べたいわ」
「揚げたてをね」
「言えてる~!」
軽食課も手伝いも朝から活気に満ちていた。
後宮。軽食店前の廊下。
十二時五十分に到着したトロイは長い行列を見てため息をついた。
予想通りではある。
今日の十三時から買物部の軽食店が開店する。
初日の販売は後宮の軽食店でスナックとスイーツに区分されている商品のみ。
王太子府でのランチ販売もお茶の時間に合わせた販売もない。
明日まで待てばいいというのに、待てないと思う王太子府の者は多かった。
「トロイ様~! ここです~!」
有給を取って早く並ぶよう指示した部下のフロリアンが手を振った。
「随分後ろの方ですね。もっと早く並べなかったのですか?」
「申し訳ありません。警備隊に邪魔されてしまいました」
フロリアンは朝九時に後宮へ来たが、後宮警備隊が廊下に並ぶのを許さなかった。
開店前に並ぶのは十二時からということで、フロリアンは付近の廊下や購買部をぶらつきながら時間をやり過ごすことにした。
当然、同じように考える者達が大勢いた。ライバルである。
そして、十二時五分前になると、猛ダッシュする者が続出した。
貴族出自で行列に並ぶことに慣れていないフロリアンは十二時になってからダッシュすればいいと思っていたため、完全に出遅れてしまった。
「ちょっと!」
「割り込むのは禁止よ!」
「そうよ! 友人とか知り合いでも後ろに並びなさいよ!」
「そうだそうだ!」
どう見てもトロイやフロリアンは高位の官僚に見える姿だったが、並んでいる者達はひるまなかった。
「部下と交代するだけです。順番が遅くなることはありません」
「それなら仕方がないわね」
「ちっ」
「一人だけだからな」
トロイとフロリアンは位置を交換した。
「台車と空箱を持ってきなさい。警備調査室に話をつけてあります。緊急です」
「わかりました」
フロリアンはすぐに走り出した。
「台車を持ってくるほど買う訳?」
「買い占めは禁止よ!」
「後ろにいる人が買えなくなるじゃない!」
「そうだそうだ!」
トロイは財布を取り出した。
「私は列を離れるわけにはいきません。そこで一人一枚ずつ取って後へ回していって下さい」
トロイから札束を渡された女性はあんぐりと口を開けた。
「十ギール札? 全部?」
「嘘!」
「束じゃない! 大金だわ!」
「百枚あります。私の後ろに並んだ百人は十ギール分の軽食を無料で買えます。ヴェリオール大公妃のためにも、軽食店の売り上げに貢献したいのです。ご協力いただけますね?」
「喜んで協力します!」
「ありがとうございます!」
「一人につき十ギール分奢ってくれるって!」
「キャー!」
「やったー!」
「ラッキー!」
並んでいる者達は嬉しそうに叫びながら十ギール札を一枚取っては後ろへと回していく。
その様子をトロイよりも前にいた者達は微妙な表情で見ていた。
早く並ぶことができたという意味では良かったが、十ギールを貰い損ねたと思っているのは明らかだ。
私よりも先に購入権を得た者への恩情はありません。
トロイは自分よりも前に並んでいる者に奢る気は一切なかった。
「開店します!」
「ゆっくり進んで下さい!」
ついに軽食店の販売が開始された。
テーブルの上にはコロッケパン、パンプキンパイ、はちみつパンが並んだ平たいパンケースがズラリと置かれていた。
「本日の日替わりスナックはコロッケパンです!」
「待望の販売です!」
「スイーツはパンプキンパイとハチミツパンです。ぜひぜひ食べて見て下さい~!」
「ハチミツパンはやみつきになりますよ~!」
「ふわっふわで美味しいよ!」
「トングがありますので、買う分だけお皿に取って下さい!」
「紙袋は有料ですが、お皿だと無料です~!」
「お皿は食べ終わった後に返却してね!」
宣伝担当者が前から順番に案内をしていく。
「コロッケパンは三ギール、パンプキンパイとハチミツパンは二ギールです!」
「できるだけおつりがないようにお願いします!」
「十個以上まとめ買いする方は手を挙げて下さい! 用意するのに時間がかかるので、別に注文を受けつけます!」
トロイは前に進みながら手を挙げた。
「はーい! すぐ行きますー!」
廊下にいた数人の女性が手を挙げている者の所へ向かった。
「注文を承ります。どのパンをおいくつですか?」
「コロッケパンを百、パンプキンパイを百、ハチミツパンを百。合計三百個。金額は七百ギールです」
トロイは財布から百ギール紙幣を七枚取り出すと差し出した。
「え、えっと……百個ずつですね?」
「そうです。三種類全てを百ずつ、全部で三百個です。部下が台車を持って来るので、紙袋に詰めて下さい。紙袋代は別ですね? 一枚いくらですか?」
「一枚一ギールです。三百枚だと三百ギールになってしまうのですが……」
「百枚で結構。一袋に各一個ずつ入れて下さい。ケースごと持って行けるようであれば、それでも構いません。それでも紙袋代は支払いますので、トングを一つだけでもつけてください」
トロイは追加で三百ギールを差し出した。
「わかりました。半端な数だけ紙袋に入れますね!」
「部下が来たら手伝わせましょう。私は台車と一緒に廊下で待っています」
「わかりました!」
注文を受けた女性は急いで軽食店へ戻っていく。
それに代わるようにフロリアンが戻って来た。
「トロイ様~! 大きいのを借りて来ましたよ~!」
ガラガラガラ。
確かに大きい。台車だけでなく音も。
「注文しました。支払い済みです。ケースごと運べるものを先に貰ってきなさい。トングを一つ貰うように」
「わかりました!」
フロリアンが軽食店の方へ向かう。
ガラガラガラ。
トロイは台車を動かして廊下の端に寄った。
ガラガラガラガラガラガラ……。
別の台車音が響いて来る。
「あれー? トロイも来てたんだ?」
シャペルだった。
台車は三台。王子府の官僚が押している。
「ディーバレン子爵もまとめ買いですか?」
「うん。特権で予約した」
エゼルバードが食べてみたいと言い出したため、軽食課に直接伝えて予約を頼んだのだ。
仕切っているのがブレッドだけに融通が利く。
そのためにブレッドを抜擢したのもある。
「明日まで待つなんてことは絶対にできないだろうしね」
「王太子府にも待ちかねている者が大勢います」
「全員分買うの?」
「まさか。それでは一足先に食べる意味がありません」
全員が食べたら自慢できない。そのため、あえて全員分は買わないということだ。
「だよね。まあ、受け取って来る」
シャペルは軽食店へ部下と共に入った。
しばらくすると、大きな蓋つきパンケースを抱えて来る。
「どの位予約されたのですか?」
「少ないよ。各二十個ずつで六十個を六セットかな」
合計三百六十個。
「意外です。もっと多いのかと」
「お金の問題じゃないからね。後宮の人々のためにしていることだ」
それはトロイもわかっている。
単に売り上げだけの問題であれば、王宮組が買い占めればいい。
だが、それでは後宮の人々に安い軽食を提供することができない。
全てを買い占めたい気持ちを抑え、トロイも百個ずつで我慢したのだ。
「明日も特別注文するから、軽食課には悪いなあと思っている。でも、上の方にもアピールしておかないとね」
シャペルはもう一度店内から蓋つきパンケースを持って来た。
「じゃあね!」
シャペルは王子府の官僚達と台車を押して行ってしまった。
「トロイ様、全部載せました!」
台車が一台しかないため、ケースが山積みだ。
途中で落とさないようゆっくり進まなければならない。
「絶対に落とさないように」
「わかっています!」
トロイとフロリアンは慎重に台車の様子を見ながら王太子府へ向かって進み出した。





