1035 計算係
「お待たせしました! 連れて来ました!」
フィセルが連れて来た計算係を見てリーナは驚いた。
「ブレッドさん? 軽食課に異動したのですか?」
軽食課の人員は調理部の各課から選抜すること、通常の仕事が減ったペストリー課を優先して異動させることになった。
人事案件だけに側近が担当していたが、調理部以外から軽食課への異動者がいることをリーナは知らなかった。
「ヴェリオール大公妃と同行者の方々にご挨拶致します。軽食課で計算係を務めているブレッドです。事務職として廃棄部から異動しました。ご質問いただいた件について説明させていただきます」
ブレッドは丁寧な言葉だったが棒読みで、その表情や態度には不機嫌さがにじみ出ていた。
「ヴェリオール大公妃に関連して届いた食品は二種類あります。新年謁見で貴族が寄付を申し出たもの、王太子府関係者が寄付を申し出たものです」
新年謁見によって寄付されたものは貴族が自領の特産品を王家にアピールするためのものだ。
寄付された食材については調理部で自由に使っていいということだったため、軽食課の試作や試食会の食材として使うことにした。
一方、王太子府関係者が寄付したものは買物部の軽食販売への協力品だ。
品質検査で問題がない食材は軽食販売に活用する許可も出ている。
但し、販売時に産地を宣伝する場合、最低でも該当品における一日分の必要量を満たしていなければならないという条件がついた。
「ご質問いただいたヴィルスラウン領のスイートポテトは基準を満たすだけの量があります。ですので、ヴィルスラウン領のスイートポテトを使ったパイとして売ることができます」
別の者が寄付した特産品も基準を満たしているために産地を宣伝できる。
だが、寄付者から無理して宣伝する必要はないと言われている。
宣伝をするかどうかは買物部次第だ。
「価格は現時点での市場価格に基づいて出しています。ヴィルスラウン領のスイートポテトを購入しても、値上がりしていなければ現在の価格を維持できます」
無償で食材を手に入れたとしても、その分が価格に反映されることはない。
必ず市場価格を調べて販売価格を決める。
無償で手に入った時は利益が増え、市場価格で購入すれば利益が少なくなるというだけだ。
できるだけ安く販売するための努力はしているため、一種類の食材ではなく他の食材等も含めた材料費が高騰すれば、同じ価格では提供できなくなる。
「価格を維持できない場合、より安い産地のものに切り替える方法や、高い食材を使った品を作らない選択もできます。値上げしてでも同じ品を販売するかどうかはわかりません。全くの未定です」
食材が高騰したからといってすぐに価格に反映すると、消費者心理として割高だと感じ、売れにくくなる可能性がある。
特定の領地や領主のせいだと悪く思われる可能性もあるため、価格に反映するよりも取引や販売を止めた方が適切だと判断するかもしれない。
「お茶の件ですが、一杯五ギールという計算は利益がほぼ見込めない価格です」
王宮で仕入れている茶葉は一般市場に流通しているものに比べると高品質だ。
もっと安い茶葉でなければ、利益を出すのは難しい。
「身分の高い方や貴族にとってお茶は常用品かもしれませんが、一般的には贅沢品の部類です。裕福な平民が購入するようになったおかげで輸入量が増え、その影響で安い茶葉も流通し始めてはいますが、まだまだ価格は下がりません」
「そうですか」
リーナはしょんぼりと肩を落とした。
「後宮にいる人々のためにできるだけ安い価格で食品販売をしようとするヴェリオール大公妃は慈悲深いと思います。ですが、慈善活動と同じではありません」
赤字になれば後宮という組織の負担が増す。
黒字になれば給与からの支出が増え、借金という個人の負担が増す。
借金のない者もいるが、借金のある者の方が多い。
結局は個人負担も後宮の負担に跳ね返る。
「赤字でも黒字でも後宮の負担は増し、多くの人々は苦境を脱することはできないでしょう。借金の増加が緩やかになるというだけです」
リーナは言葉が見つからずに俯いた。
「フィセルから聞いているとは思いますが、買物部で販売する軽食は一番高いものでも五ギールです。いくつ売れば人件費を賄えると思われますか?」
儲けるためにはできるだけ高く売りたいが、ヴェリオール大公妃の意向で可能な限り低価格で販売するよう通達されている。
買物部と軽食課全員の給与と食材費を大まかに考えると、一日の売り上げは最低でも一万ギール以上は欲しい。
五ギールの主食であれば二千食以上。二ギールのデザートであれば五千個以上だ。
毎日それだけ売れたとしても、軽食課の人数は多くない。
作業効率を高めながら懸命に作らなければならない。
調理部が全面的に協力してくれるため、軽食課の作業は少ない。だからこそ、ある程度はなんとかなる。
とはいえ、調理部全体の給与を買物部の売り上げで賄わなければならないというのであれば、話にならないほどの大赤字になってしまう。
「私は計算するのが仕事です。計算するほど、無謀な試みだと思えます。いっそのこと、後宮の者は全員解雇でいいのでは? 借金がある者は弁済労働になるだけです。自分の借金を弁済するために働くのは当然のこと。前科にならないだけましでしょう。ヴェリオール大公妃が陣頭指揮を執ってチマチマ軽食を売る必要はないと思いますが?」
重々しい空気が漂った。
身分差を考えると、ブレッドはヴェリオール大公妃への不敬罪に問われてもおかしくはない。
だが、現実的な話だった。
軽食課の計算係としてわかる情報を元に試算した上での提言だ。
軽食課に課せられた重責、黒字にすることがいかに大変かをわかっているからでもあった。
「……ごめんなさい」
リーナは答えた。
「ブレッドさんの言っていることはわかります。同じように考える人は沢山いると思います。でも、私はそうしたくありません」
それがリーナの正直な気持ちだった。
「私は孤児院で育ちましたし、後宮で働いてもいました。だから、後宮での生活は普通以上だと思いますし、借金が自己責任なのもわかります」
住む場所がある。毎日食事が取れる。お金がなくても後宮で働いている限りは必要なものも嗜好品も買うことができる。
孤児としての貧しい生活を経験したリーナにとって、後宮は普通以上の生活どころか贅沢さえできてしまうような凄い場所だった。
但し、対価が求められる。
働いた報酬以上に得てしまった分、贅沢や便利さは借金になった。
後宮にいる時は借金の返済を待ってくれるため、今が大丈夫であればいいと思ってしまいそうになる。
しかし、いずれ何らかの理由で後宮を去る時が来る。
退職かもしれない。解雇かもしれない。後宮の廃止かもしれない。
その時に人々が何を感じるかをリーナは想像できた。
どうしよう。
借金がある。返せない。
投獄だ。処罰される。
これからどうやって生きていけばいいのだろうか。
借金がない者や家族などの頼れる相手がいれば大丈夫かもしれない。なんとかなるのかもしれない。
だが、リーナが知る者の多くは何かしらの事情を抱えていた。
行く当ても帰る場所もない。居場所がない。頼れる人もいない。お金もない。
自分だけでなんとかしなければならない。
貴族も平民も関係ない。住み込みで働く理由があった。
「そろそろ孤児院をでなければならないと言われた時、私は途方にくれました」
成人すれば孤児院を出て行かなければならないことはわかっていたが、十六歳では未成年。
募集している所に行っても、断られてしまう。
いつもリーナに明るく声をかけてくれる人であっても、雇ってはくれなかった。
商売は慈善活動ではない。
利益を上げなければ、商売をしている人自体が生きていけない。
「どうすればいいのかわからなくて、苦しくなりました。生きていけないかもしれないと感じました。後宮にいる人々が同じような状況になりそうだというのに、何もしないなんてできません!」
買物部を作っただけでは後宮にいる全ての人々を救うことはできない。
全然足りない。
それでも、リーナは諦めたくない。
何か方法があると信じて、できる限りのことをしたかった。
苦しむ未来しか見えない人々の気持ちがわかるからこそ、少しでも和らげたい。寄り添いたい。
そして、少しでも希望を感じられる道を探したい。
自分の中にある良心、正直な気持ちからの行動だ。
「私はヴェリオール大公妃ですが、一人の人間としては平凡です。特別な才能もありません。不器用だし、小さなことをチマチマするしかできません。それでも一生懸命考えて、少しでも前に進んでみようと思います。それが正しいのか、皆の幸せにつながるかはわかりません。だから……ブレッドさんの力を貸して貰えませんか? 一人では無理でも、皆の力を合わせればできることがあるはずです!」
ブレッドは表情を歪めた。
リーナは優しい。良心的だ。
それは美徳であり、長所でもある。
だがそれゆえに、リーナが赤の他人のことで苦しみ、ヴェリオール大公妃のくせに何もできないと悪く言われ、責任を問われてしまうのではないかとブレッドは懸念した。
ブレッドは自分を身勝手な人間だと知っている。周囲のことはどうでもいい。自分さえよければいいのだ。
だというのに、完全に捨て去ることができない中途半端な良心が疼く。
優しくて真面目で頑張り屋のリーナがようやく手に入れた幸せを逃がしてしまう結末を許したくはなかった。
「後宮がどうなろうが俺には関係ない。それに、ヴェリオール大公妃にとって後宮はない方がいい。他の女性が王太子の妻になりにくくなる。後宮のために動く意味はない」
ブレッドは独り言のように呟いた。
助言のつもりだった。
だが、リーナはキョトンとした。
「なぜ、そうなるのですか?」
「王太子は何人でも妻を持てる。王太子が他の女性を正妃や側妃にしてもいいと? ヴェリオール大公妃だから気にしないということか?」
「良くありません。気にします。でも、クオン様が他の女性を妻に持つかどうかと後宮は関係ありませんよね?」
「関係ある」
ブレッドは呆れた。
「後宮は王族の妻が住む場所だ。後宮があれば何人でも妻を持つことができる」
「関係ないです」
リーナはきっぱりと答えた。
「後宮がなくても王宮に住めます。森林宮だってあります。だから、クオン様が別の女性を妻に迎えたければいつでもできます。後宮があるかどうかは関係ありませんよね?」
ブレッドは唖然とした。
だが、リーナの言っていることはわかる。
確かに王太子が別の女性を妻に迎えることと、後宮があるかどうかは関係がないとしてもおかしくない。
住居の選択肢が増えるだけ。
リーナが妻の座を独占するのに邪魔なのは後宮ではなく後宮制度、つまりは一夫多妻制度の方だった。
後宮があるかどうかに関係なく、一夫多妻制度は存続できる。
後宮がなくなっても、王宮や他の離宮で一夫多妻制度が継続されれば関係ない。
「ブレッドさんが後宮に就職したのは、住み込みの職が欲しかったからですよね?」
その通りだった。
「両親の仕事を手伝いたくないからですよね?」
ブレッドは視線を外した。
かつて、リーナに愚痴ったことがある。
廃棄部は後宮中に嫌われている部署だ。ゴミ臭い。
若い女性は長居したくないだろうと思い、わざと冷たい態度や怒鳴り声で追い出し、ブレッドがゴミの分別作業を行っていた。
しかし、リーナは冷たくされても怒鳴られても逃げず、自分で分別をした。
誰かが置いて行ったゴミもついでに分別するほど真面目でお人好しだったため、つい色々と話してしまったのだ。
「後宮があれば、ブレッドさんは両親の仕事を手伝わなくても大丈夫です。働く場所も住む場所も食事をする場所もあります。必要なものも嗜好品も買えます。助かりませんか?」
ブレッドは答えたくなかった。
なぜなら、助かるからだ。
両親は大金持ちだ。逃げても捕まる。連れ戻される。
だが、後宮には手が出せない。いくら金持ちでも所詮は平民だ。
後宮の許可がないと辞められないからこそ、ブレッドは両親から守られていた。
「全員が解雇して欲しいと思っているなら、解雇した方がいいと思います。でも、それでは困ると思う人がいます。だから、なんとかしたいのです。誰だって住む場所や働く場所がなくなったら困りますよね? 私も同じ立場だったら困ります。ある日突然、クオン様が別の女性を妻にすると言って追い出されたら困ります。ヴェリオール大公妃だって皆と同じです。そんな理由では駄目ですか?」
まったくわかってない……。
ブレッドは深いため息をついた。
ヴェリオール大公妃が皆と同じわけがない。騒がない代わりに慰謝料をたっぷり請求すればいいだけだ。
だというのに、リーナはそのことに気づけない。
良心的であるがゆえに、自分が得するためだけの悪知恵を働かせることができないのだ。
「まずは借金に関係なく退職希望者を募って見たらどうだ? 人件費が浮く効果は大きい。退職したいと思う者はそれなりにいるだろう。男性は特に多い」
後宮の先行きが怪しいことを誰もがわかっている。
潮時だと感じ、早く辞めたいと思っている者もいるのだ。
しかし、辞めさせて貰えない。
国王の所有する後宮への就職は民間企業に就職した場合とは全く事情が異なる。
王家のプライベートに関わるような守秘義務を負う関係上、自己都合のみで辞めることはできない。
辞めてもいいという後宮の許可がいる。
「弁済労働になっても辞めたい者はいる。それを許せば、男性は相当少なくなるだろう。女性だけで後宮を存続させなければならない」
重い荷物を運ぶ仕事も夜間の仕事も女性の担当になる。
現状では女性が一人もいない廃棄物関連の仕事も害虫駆除も危険な高所の作業も全てだ。
それを覚悟で辞める許可を与えることになる。
「後宮の運営に支障が出れば、縮小化を通り過ぎて廃止へと進む。赤字を膨らませるのをわかっていて、新規に求人を出すわけがない」
リーナもそうだろうと思った。
後宮の新規求人はない。宰相が許すわけがない。
「貴重な意見をありがとうございます。私もちゃんと自分で試算すべきでした。反省します」
買物部のことを考えてはいたが、細かい部分まで考えて計算していなかった。
数字で見ると、買物部の状況も展望も想像以上に厳しいことを痛感することになりそうだとリーナは思った。
「希望退職者についても検討してみます。でも、ようやく買物部が新設できたので、しばらくはこのままでやってみようと思います。ブレッドさんも後宮で働いている間は軽食課で仕事をして下さい。よろしくお願いします」
「わかりました。ヴェリオール大公妃の寛大なお心に感謝致します。では、失礼してもいいでしょうか?」
「何か質問はありますか? あくまでも計算係への質問だけです」
リーナの言葉はブレッドへの配慮だと誰もがわかった。
ヴェリオール大公妃が取り組んでいる買物部にケチをつけ、後宮にいる人々の行く末を自己責任だと割り切った言動への反論や文句を牽制するためだった。
「特になさそうですね。では、軽食課の方で試算した内容と結果を書類にして私の方へ提出して下さい。退出を許可します」
「ありがとうございます。失礼致します」
ブレッドは一礼するとすぐに部屋を出て行った。
「……すみません」
ドアが閉まると、フィセルが深々と頭を下げた。
「彼はとても優秀なんだと思います。だから、普通の人には見えないものが見えたり、深く考えてしまうというか」
「そうですね。私もブレッドさんと同じものが見えるほど賢ければ、もっと良い案が浮かんでいたかもしれません」
リーナは深いため息をついた。
「難しいですね。アルバイトのこと弁済労働のことも。思いついた時にはとても良い案だと思ったのに、許可が下りませんでした。宰相閣下も優秀です。きっと私とは違うものが見えて……」
リーナはハッとした。
「ああっ! 思いつきました!」
突然リーナは叫んだ。
「そうです! あれです!」
「何か妙案でも?」
「カタログショッピングです!」
カミーラは眉をひそめた。
「それは許可が下りなかったはずですが?」
「そうです。でも、商人相手ですよね? 買物部なら問題ありません!」
カミーラはすぐに理解した。
「なるほど。そうですね」
「確かにその通りです。問題が解決するかもしれません」
ヘンリエッタもリーナの考えを察した。
「どういうこと?」
ベルは訳が分からず困惑した。
「欲しい商品を注文書に書いて、代金を先払いするのです!」
リーナが思い出したのはカタログショッピングの注文方法だった。
利用者はカタログを見ながら買いたい商品を注文する。郵送か指定店で手続きをする。
すると、数日後に注文品が自宅に届く。あるいは店や指定の場所で受け取る。
買物部でも同じようにすればいいのではないかとリーナは思った。
「お店とは別の場所にカタログショッピング専用のカウンターを作れば、混雑しにくくなりますよね?」
「日用品店の混雑を解消する方法ね!」
「そうです!」
「倉庫部屋の側にカウンターを作っては?」
ハイジが提案した。
「倉庫係が注文書を見ながら商品をカゴに入れればいいと思います」
「予約販売ということよね? 在庫や入荷予定を確認して、数日後に受け取りに来て貰うというか」
リリーも注文書を使った販売方法は有効だと感じた。
一般的な店でも目当ての品がなかった時は予約して貰い、後日来店した時に渡すような対応をする。
「予約した商品が全部揃ったら、紙袋にまとめて入れておけば? 予約券と交換で紙袋を渡せばすぐだよ!」
「紙袋代がかかるから、貸出用の箱でもいいかもしれないわね」
「だったら、何度も使える布袋を売って入れたらどうかしら?」
「注文書が多くなってしまうかもしれません。計算しやすいように、注文数に限度を設けるべきかと」
「受付と引き渡しは別のカウンターがいいかもしれないわ」
「休憩室にカタログと注文書を置いておけば、休み時間とかにも書けそうね!」
「品物の記入だけでなく代金の計算も利用者にして貰いましょう。支払いの手続きが早くなります」
次々とアイディアが飛び出した。
「カタログや注文用紙はメリーネに言えば適切なものを作ってくれそうです」
「リーナ様、最初だけはカタログショッピングの業務を秘書室に頼んでは? その方がすぐに実行でき、マニュアルも作りやすくなりそうです」
「そうですね! メリーネに相談してみましょう!」
少しずつでも変えていける。皆で力を合わせれば……!
リーナの胸には希望が溢れていた。





