1002 ヴェリオール大公妃の執務室
リーナは執務室にいた。
ヴェリオール大公妃の執務室に。
王太子妃の部屋から王太子の私室になる際、王太子妃の執務室は書斎に変更されたが、新年からはヴェリオール大公妃の執務室に名称変更された。
公務等の書類仕事をする専用の部屋になり、後宮から来た者を通す部屋にもなる。
この日のクオンは王太子としての謁見があり、政治的な内容になることからリーナは同席できない。
そこでリーナは執務室に行き、豪華な装飾の入った金色の執務机の上で書類を読んでいた。
その姿はいかにも王太子の妻である女性が仕事をしているかのように見えるが、その表情はといえば少し違う。
ニコニコというよりはニヤニヤだ。
「……リーナ様、何かありましたのでしょうか?」
ずっと部屋の中に控えていた侍女長補佐のディナは気になって仕方がなく、リーナがかなりの上機嫌である理由を尋ねることにした。
本来、執務室に待機すべきは女官なのだが、まだ誰がリーナの執務室に待機するかが決まっていない。
王太子付きの女官数が少ないことから交代制のシフトを組むのが難しく、当分の間は侍女が待機し、必要に応じて女官を呼ぶか内容を伝えることになった。
「色々な食べ物や料理があると思って」
リーナが見ていたのは国王の新年謁見で収集された貴族の答えが書かれた資料と官僚食堂の改善案の書類だ。
謁見した貴族達はこぞってアピール品の付属資料を送付してきたため、多くの情報が集まっていた。
それに加え、パスカルが官僚見習いのディランとアーヴィンに作成させた官僚食堂の改善案の書類の写しも買物部の参考資料として貰えた。
リーナとしては今後の活動に役立ちそうな資料が多く集まったことを喜ぶ、美味しそうな食べ物や食事を思い浮かべてはニヤついていたのだった。
「ちょっと、いいですか?」
「どのようなことでしょうか?」
「腰掛け椅子を持ってきて、ここに置いて座って下さい」
リーナは自分のすぐ隣を示した。
ディナは言われた通り、腰かけ椅子を持ってリーナの隣に置き、座った。
恐らくは内密の話のため近く、長くなるので椅子を持参させたのだろうとディナは思った。
「ディナはどこの出身でしたか?」
「クリーヴランドです」
「ランド公ではないですよね?」
「違います。それは四大公爵家だけです。私の実家は公爵家でもありません」
ディナのルーツはクリーヴランド侯爵家にある。
「クリーヴランドってどんな所ですか?」
「普通です。特別これといって何かがあるようなものではなく、裕福でもなければ貧しいわけでもありません。でも、私は好きです。幼い頃はずっと領地に住んでいたので」
ディナは生まれ故郷であるクリーヴランド侯爵領で暮らしていた時のことを思い出した。
「食べ物とは少し違いますが、音楽が常に側にあるような環境でした。それが普通だと思っていたので、王都で食事の時に音楽が流れていないことに驚きました」
「ディナが食事を取る時は音楽が流れていたということですか?」
「そうです。祖父が音楽好きだったので、食事の時は常に召使にピアノやヴァイオリンを演奏させていたと言いますか」
「凄いですね!」
「今思うと凄いというか変わっているというか。でも、当時はそれが貴族の食事として普通なのだと思っていました」
リーナは何度も小さく頷いた。
「音楽を聴きながら食事をするのも素敵ですね。とても楽しそうです!」
「とても楽しいですし、曲によって落ち着いた雰囲気にもなります。誕生日などの記念日はとても華やかな演奏になって……贅沢な時間だったと思います」
「素敵なお話なので、メモしますね」
リーナはノートを取り出すと、今聞いたことを記入した。
「美味しい食事に音楽。こういうのもいいですね!」
「何か催し物などをお考えになられているのでしょうか?」
「買物部で販売する軽食のことを考えていました」
買物部自体が正式に設立されたばかりであるため、いきなり軽食の販売をするのは難しい。
まずは後宮内で王宮省の購買部から仕入れたものを供給できるようにする方が先だ。
とはいえ、軽食販売のための準備も必要ないわけではない。
今のうちにリーナの方でいくつか案を練っておこうと思っていた。
「さすがに最初から多種多様なものを揃えるのは無理なので、販売する軽食の種類も多くはできないと思います。材料の入手も考えないといけないですし」
王太子府に所属する者から、領地の特産品である食材を無料で寄付したい。ぜひ、使って欲しいという申し出があった。
新年の謁見でも特産物を紹介し、献上したいという貴族が多くいた。
すでに献上品認定されているものだけでなく、まだ献上品認定になっていないものをアピールしたい。
献上品として受け取って貰えれば、それは王家に納めるのに相応しい最高級品だと認められたことになる。
その価値も恩恵も計り知れない。
リーナとしても献上品として納められた食材を買物部に融通できれば嬉しい。
常時大量にあるということではないが、食材費を抑えることになり、販売価格も抑えやすくなりそうだと思っていた。
「それで特産品を調べていたのでしょうか?」
「それもあります」
食材の市場価格についても調査させている。
後宮が今までに扱って来たものは基本的に最高品質か高品質品のため、それらをより多く購入するということでは費用がかかり過ぎてしまう。
リーナはトロイに頼んだが、宰相府の担当者もできるだけ経費削減のための価格交渉をする気でいた。
候補を選定した結果、質より量を重視して食品の取引をしている軍や警備組織と取引している商人を通じて入手することになった。
これまでの食材に比べると品質が下がるが、不良品でも粗悪品でもない。
今までが異常に高すぎただけの話で、今後は一般的な感覚における標準になるだけだ。
但し、季節や収穫高による市場の価格変動の影響をより強く受けやすくなる。
だからこそ、無料の食材を取り入れることで、取引価格が上がっても販売価格を据え置けるようにしておきたい。
「実をいうと、ヴィルスラウン伯爵が領地の特産品であるお芋を沢山くれるそうなのです」
ヴィルスラウン伯爵領では広大な土地を活かした農業が盛んだ。
最も収穫量が多いのはスイートポテト。東方名はサツマイモだ。
元々は遠方の国で育てられていた芋だが、肥沃でない土地でも育つということで、ヴィルスラウン伯爵領での栽培に取り組んだ。
領内における食料生産及び自給率を挙げるためだったが、今では特産品として王都を始めとした各地でも販売している。
しかし、エルグラードで芋といえばジャガイモ。周辺国でも同じく。
一般的な知名度だけでなく市場規模も圧倒的に負けている。
名前も良くなかった。スイートとあるために甘い芋をイメージするが、実際は条件が揃わないと甘くない。収穫してすぐ食べてしまうと甘くないのだ。
収穫してから日数が経つほど甘くなる。その甘さを逃がさないあるいは引き立てるような調理をすることによって更に甘くなる。
遠方の国から来た赤い芋ということでそれなりには売れているが、一般的に誰でも知っているようなものとはいえず、数多くある芋の一種という認識だ。
適切な調理方法も広まっていない。
ヘンデルとしてはより多くの人々にスイートポテトの美味しさや調理方法を伝え、ヴィルスラウン伯爵領の収入が増えるようにしたい。
リーナの取り組みに無料でスイートポテトを提供し、宣伝活動の一環にしたいというわけだ。
「ディナはスイートポテトを知っていますか?」
「知っています。大変素晴らしい食材かと」
「パイにして食べるとか?」
「リーナ様も食べられたことがあるはずですが?」
リーナは驚いた。
「食べていましたか?」
「お茶の時間に出されていたと思います。スイートポテトパイも、スイートポテト味のクッキーも」
「全然知りませんでした!」
「特にご説明しているわけではないので、わからなくても無理はないかと。もしかしたら、カボチャと思われたのかもしれません」
「今度は説明して貰ってもいいですか?」
ディナは考えた。
「材料にスイートポテトを使っているかどうかはわかりますが、ヴィルスラウン伯爵領の特産品かどうかはわかりません。品質が良いものを使用しているはずなので、恐らくは特産品ではないかと思いますが……」
「大変かもしれませんが、次からは調べてくれますか? 今日のお菓子は特産品が使われているとか。食材や特産品の勉強になります」
「かしこまりました」
「取りあえず、スイートポテトを使ったメニューではパイが定番ということで間違いないですか?」
「はい」
「だったらやっぱり、一口パイが良さそうですね。カボチャと似た味なら大丈夫そうです!」
ミレニアスに行く際、リーナはシェーブルという街を通った。
旅行や商業の神であるマーリク神を祀った神殿に行く時、偶然入ったパン屋でリンゴ味とカボチャ味の一口パイを買った。
小腹が空いた時に良さそうだと感じて買ったことを思い出し、買物部で売るのに丁度良いのではないかと思ったことをリーナは説明した。
「カボチャのパイを味見したエゼルバード様は、塩気が強くねっとりしていて美味しくないと言っていました」
第二王子は美食家だ。
一般市民が買うようなものをよく味見する気になったものだとディナは思った。
「結局、もっと美味しいものを作るよう言われて、改めてホテルで作らせたものをいただいたのですが、とっても美味しかったです!」
そうだろうとディナは思った。
第二王子が作らせたものが美味しくないわけがない。
「あれはサイズも小さくて食べやすいし、価格もきっと抑えられます!」
ディナが知っているのはホールのパイだ。
しかし、名称から考えると非常に小さなもの、一口で食べてしまるようなサイズ。
食べやすい。価格も安くなる。
だが、一口で終わりというのは寂しい。物足りないとディナは思った。
「……個人的な意見ですが、一口では物足りないのではないかと」
「欲しいだけ買えばいいですよね?」
その手があった!
一人一個と決まっているわけではない。欲しいだけ、自身の予算に合わせて買えばいい。
「名案です!」
買いたい。いや、絶対に買うとディナは思った。
スイートポテトパイは大好物なのだ。
となれば、気になるのは値段。そして、侍女も買えるのかという点だ。
「お伺いしたいのですが、あくまでも現時点での一口パイの参考価格はいかほどでしょうか?」
「パン屋で買ったのは一個一ギールでした。この位の大きさです」
リーナは両手の指を使ってパイの大きさを示すように四角を作った。
ディナはチョコレートのように小さいものだと思ったが、かなり大きく口を開けた一口サイズだと思った。
「パンよりは小さいですが、大きいサイズのクッキーというか小さめのパンというか……」
「そうなのです。なので、女性なら小腹が空いた時に一つ食べればいいかもしれません。男性なら二、三個位とか?」
一個一ギール。激安だとディナは感じた。
「エゼルバード様が作らせたのはもっと小さくてこの位でした」
リーナがサイズを片手の指だけで作った。
まさに一口サイズ。ディナが最初に想像したような大きさだった。
「そのサイズであれば一口ですが、先ほどのサイズだと大口で一口ではないかと思われます。一口パイという名称は少し考えた方がいいかもしれません。かなり小さいイメージをしてしまうので、実物の大きさと合っていないと感じてしまうかもしれません」
「そうですか」
リーナはノートにメモを取った。
「お茶菓子のようにつまむということであれば小さな一口サイズ、昼食ということであれば大きな一口サイズの方がいいと思います」
「そうかもしれませんね」
「男性と女性では適度と感じる大きさや量が違います。男性は大きなサイズがいいでしょうが、女性は小さいサイズが好まれるのではないかと、特に貴族の女性は大きな口を開けるのが無作法になります」
「それは私も思いました」
リーナはノートに補足として書き足す。
「男性が圧倒的に多い王太子府で販売すると、男性向けの商品ばかりになりそうです。ですが、女官もいます。女性向けの商品もないと不公平ではないかと」
「そうですね、不公平はちょっと……でも、売れ残るのも困りますけれど」
「でしたら、王太子付きの侍女や侍従も買えるということにしてはいかがでしょうか?」
リーナはディナを見た。
「侍女や侍従も?」
「はい」
「でも、昼食は無料で取れますよね?」
「小腹が空いた時に食べ物が欲しい時もあります」
「王族付きの侍女の休憩室には飲食物がありますよね?」
「いつも同じものばかりで、飽き飽きしている者達が非常に多くいます!」
ディナはアピールするチャンスだと感じた。
「何年も王宮に住んでいると提供される飲食物に慣れてしまい、購入してでも別のものを食べたいと思う時があります。買物部で扱う新商品に興味を持っているのもありますが、リーナ様が懸命に考えられている軽食です。リーナ様付きの全員の侍女が食べてみたいに決まっています!」
ディナ自身が食べたい。その気持ちを言葉に込めた。
「侍女や侍従だって美味しいものや珍しいものを食べたいですよね。高くなければ、自己負担でも買いやすいでしょうし」
「その通りでございます!」
「わかりました。女性向けのものと合わせて、侍女や侍従も買えるように検討してみます」
「ありがとうございます!」
良かった! 今日の執務室付きは大幸運だわ!
ディナは心からそう思った。
お芋のお話が続きましたが、次回は第一王子騎士団のお話に戻ります。
またよろしくお願い致します!





