四面館忌憚
オリジナル邪神が登場する短編です。
1 内藤コレクション
私がその館の話を聞いたのは、仕事で訪れた地方の美術館での事だった。
『内藤コレクション ~昭和初期の怪奇画蒐集家展~』
そう謳われた展示は決して大がかりな物ではなく、中小十枚程度の絵を集めたもので、大きな部屋を使うわけでもなくこじんまりとした規模だった。
コンセプトが原因なのだろう。来客はまばらで、私が入った時は一人が出て行って私だけになった。
例えば、夏の納涼企画、なんて催しを東京の大きな美術館でやっていれば、まだ物好きが集まったかもしれない。
しかし実際は首都圏から移動時間三時間の場所柄では、そう高望みはできないと言う事だろう。
大きな美術館で展示をすると言うのは、それこそ数年がかりの計画になる。
決して趣味ではない絵画を見る事にしたのは、些細な理由からである。
この時、私は作家の近宮先生のインタビューを取る仕事を受けていた。
近宮居文氏は日本を代表する、………とは言い難いが、十本の指には数えられるサイコホラー作家で、その執筆のための研究が長じて大正期から昭和初期の怪奇作品やオカルト事情に詳しく、今回のこの絵画展示を企画指揮した人物でもある。
代表作は現代を舞台にしたサイコホラー『塵は鏖箱へ』と、大正期を舞台にした日本版切り裂きジャックの『大正切り裂き草子』。どちらもマイナーながら映像化されている。
まあインタビューと言うのは宣伝記事の延長みたいな仕事であり、私のようなフリーランスに回ってきた事からも、扱いに関しては察して欲しいと言う感じだ。
対して、近宮先生はかなり解説に熱心だった。
美術館の休憩スペースで始まったこの展示への熱弁は合いの手以外を拒み、いつしか絵の前に移動して長々と講義のように続いた。
これを録音から原稿に起こさなければならないかと思うと、背中に嫌な汗が流れる。
「大正十年頃から姿を現した内藤靖臣の名前は、オカルト研究者なら知っていて当然の名前ですよ。大正から昭和初期は、まさに本邦が迎えたオカルト文化の華の時代です」
内藤靖臣。自称伯爵と言う極めて胡散臭い人物。
彼が活躍した大正から昭和ヒトケタと言う時代は、来るべき戦争の準備期間だったと言える。
それは、武器であり兵器であり兵士であり情報統制であり教育だった。
どんな国でも、明日いきなり戦争します、とはならない物だ。テロリストだって計画を立てて準備期間を持つのだから。
意外と思うかもしれないが、戦後の我々が連想するいわゆる軍国教育と言う物は、実は期間にしてわずか十年ほどしか存在しない。
そして、同時にこの期間に日本では超古代論が華々しく流行する。
それは侵略戦争への肯定を背景とした全世界規模の流行でもあった。
アメリカ、ヨーロッパ、そして日本。
侵略や植民地を肯定する国々では例外無く発生している。
実は共産主義の流行と対になるのが、オカルト古代文明論なのだ。
例えば今日でも都市伝説として生き残っている『日本ユダヤ起源論』は、この時代にユダヤ人投資家の賛同を得る為に生み出されたトンデモ論だった。満州にユダヤ人を迎え入れる、と言うのも当時の政策を補強する為の物だった。
実際は中間の歴史を無視した言葉遊びのような幼稚な理論だったようだ。
他にも『邪馬台国エジプト説』なんて物も生まれている。
かの超絶皇室宇宙論を背景とする『竹内文書』が生まれたのもこの時代だ。ちなみに『竹内文書』とは主張する歴史観を纏めた書物と、その証拠とするヒヒイロカネ等の神宝を総じて『竹内文書』と呼称する。
なぜこんなブームが起きたのかと言えば、要は、超古代の支配者である〇〇民族が正統支配者であると言う戦争の理由付けに過ぎない。
実際に竹内文書などは学者はほとんど相手にしなかったが、国粋主義の時代だったので、民間の知識階級や軍人などはこのトンデモ論を擁護する傾向があった。
戦争末期にはこの奇天烈論を背景とした将校らの徹底抗戦論も、おそらくは存在したのだろう。
余談だが、竹内文書を根底とする宗教団体は現代にも継続して存在する。
内藤伯爵は、この時代に活躍したオカルト論者として有名であると同時に、多くの稀覯本や、オカルトに関連する資料を集めていたのだと言う。
それを総じて『内藤コレクション』と呼んでいる。
その中には、枚数は多くは無いが絵画や彫刻も存在しており、今回展示された物はその中の一部なのだそうだ。
「ここにある絵画は1925年の二月末から三月上旬にかけて、当時の旧制東京美術学校の生徒によって描かれたものです。僅か一月弱のこの期間は特にオカルト画の傑作が世界中で生み出されたと言う時期です。いわゆる、世界同時性、シンクロニシティと言うものです。しかも、異なる国で、異なる文化の中で、異なる主義主張の中で、テーマの共通した作品が遺されました。残念ながら描いた人々の多くは不幸によって、この世から姿を消してしまいます」
「例えば、この青い絵を描いた当時の美校生であった金湖克馬君は、この『九つの瘤』と言う作品を描き残した直後に行方不明になったと言います」
それは全体的に暗く青い色調の作品で、軟体生物のような頭部が不自然に幾つも隆起した巨人を描いた絵だった。
直立した巨人のようであり、海面から天に昇らんとする龍のようでもある。
腕にしか見えないが腕とは思えない器官を複数持ち、鱗とも粘液とも思える物を身体に纏わりつかせる。
皮膜を持つ翼はただ一枚が胸鰭のように開いている。
偏執的に塗りこめられた油絵具は立体で陰を作り、この異形の絵に奇妙な存在感を与えている。
狂気を一枚の絵に無理矢理仕立てたかのような、しかしはっきりと写実的な一枚だ。
まるで、これを描いた画家は実際にこの怪物を目撃したかのようなリアリティがある。
「世界的に見てもこの一枚は同時期に描かれた物の中でも傑作です。残念ながら無名の作者ともあって評価はされませんでしたが、内藤伯爵はこの絵を当時の金額で五百円。現代に換算しておおよそ百万円で購入しています。美校の生徒の作品としては破格の値段と言えます。もし、金湖君が画家として活動していれば、戦後の画壇や、玩具のボックスアート、少年誌のグラビア絵などの歴史が変わったかもしれません」
その他にも感受性の強い子供なら泣き止まないだろうと思える絵の数々。
地中の洞に寝そべる、獣のような蟇蛙のような口の大きなモンスター。何かのアニメ映画に出てきたものに似ていたが、遥かに凶悪な外見だった。
逆さにぶら下がる無数の黒い人型の蝙蝠。その顔は揃ってのっぺらぼう。
光り輝く太陽のような、しかし明確に生き物のようなもの。
見ていると平衡感覚がおかしくなりそうな狂った構図で描かれた、ち密な遺跡の風景。
犬のような顔をした飴色の質感を持つ肌の獣人が、人間の死体を食べる悪趣味なもの。
入館制限を行うべきだと思ったが、そもそも制限するほど人が入っていないのも事実だ。
どれもこれも酷く目眩を覚える絵から目を逸らし、私は近宮氏の話を聞き続けた。
「内藤伯爵が遺したコレクションは実に二百点とも言われていますが、残念ながら古文書や稀覯本の類はほとんどが戦後に流出してしまいました。海外に流れた物も少なくありません。しかし、絵画に関しては奇跡的に残って居たのです」
おそらく売ろうにも買い手が付かなかったのだろうと思ったが、近宮氏の続けた言葉はそれを否定した。
「実は、今世紀に入ってから内藤伯爵の別邸跡から十数枚が出てきたんです。コレクション目録に記されていた実に半数が確認されました。保存状態も驚くほど良好で、大きな修復は必要ありませんでした。今回こうして展示できたのは、日本国内のみならず、世界的にも大きな一歩だと確信しています」
油絵と言う物は保管が大変だ。特に日本は湿度が高く、まず日本家屋では長期保存はできない。
今でこそエアコン設備があるので何とかなるが、九十年前ではそれも望めない。
コンクリート建築はあったが、湿気は防げなかった。
「内藤伯爵別邸跡は、福島と山形の県境にあります。米沢は空襲が無かった地域ですから疎開先にはちょうど良かったのでしょう。そこは少々不思議な建築物で有名なんですよ。名前は四面館と言って、近所に住む人々にとっては忌避する場所になっています」
そんな言葉で、近宮氏のインタビューは終わった。
パンフレットなどをカバンに仕舞い、最後に一つだけ、私は先生に質問した。
そのオカルティストの最期についてだ。
「内藤伯爵の最期ですか? 終戦前年の1944年4月15日深夜未明に、その別邸にて怪死しています。館内の壁に叩き付けられた様だった、と聞いています」
難易度の高い仕事だと常々思う。
正直、今回はほとんど削らなければならない事が頭を悩ませる。クライアントが要求する範囲で、しかも取材相手から苦情が来ないギリギリの文章を作るのは、いつも大変だ。
そんな仕事の合間にも、私の心の中には奇妙な建築物だと言う『四面館』が引っかかっていた。
何故かは分からない。単なる仕事に対する逃避なのか。
あるいは、あの展示の空気に感じるものでもあったのか。
何の因果か、私はその仕事を納めた一週間後に、近場を訪れる機会を得たのである。
2 旧国道5号線
福島から山形を繋ぐ国道13号線は、旧街道の羽州街道を踏襲している。江戸時代から続く重要な道として現在まで残っている。
内藤伯爵が別邸を建てた時代は、国道5号線と呼ばれていた。何度か行われた道の統合で現在は13号となっている。
今は自動車道が通り、鉄道や新幹線と並んで大動脈として機能している。
昨今の戦国武将ブームで脚光を浴びた一つが、米沢三十万石の上杉景勝と名臣直江山城守兼続だ。
その流れで私はたまたま米沢の祭を取材する仕事を受け、それをデータで送信した後に滞在する余裕を得ていた。
取材を通して現地で知り合った女性に尋ねてみたのだが、彼女は四面館の名前は知らなかった。
ただ、大体の場所を伝えると、首を少し傾げた後に言葉を続けた。
「蛸岩の側かも」
彼女曰く、そこには遺跡が何箇所かあり、蛸岩と呼ばれる奇岩遺跡があるのだと言う。
東北は平安初期まで蝦夷と呼ばれた複数集落の領域で、蝦夷には岩石信仰も多かったので東北地方には巨岩信仰や奇岩遺跡が今でも残っている。
蛸岩と言うのもその中の一つらしい。亀岩とか石仏と言うのは聞くが、蛸岩と言うのはあまり聞かない。
北海道の知床には蛸岩と言う島があると聞いた事はある。
もっとも、ここにあるそれはどうも曰く付きの場所らしかった。
「蛸岩は昔からヤバいって噂があるのよ。近くにスキー場とかアウトドア施設があるから、夏でも冬でも人が近くに行くのよね。で、何年かに一度か二度、蛸岩の周りで奇妙な話が出る」
「ハイキングで霧に巻かれた遭難者が衰弱死寸前で発見された。その遭難者は下山しようと歩いていたんだけど、捜索隊が調べたら、蛸岩の周りをぐるぐる回っていただけだった」
「新雪を滑りたいからコースを外れたボーダーが、何故か遠く離れた蛸岩周辺で凍死していた。しかも、雪崩が起きた形跡も無いのに、雪の中に埋まっていた。警察が調べても事件性は無く、生きたまま雪の中に埋もれた、としか分からなかった」
「近くのオートキャンプ場で肝試しをした若者が全然帰って来なくて、蛸岩の側で発見された時は心神喪失状態だった。犠牲者は二人で、一人は病院に入ってまだ出てこれない。もう一人は自殺した。同じくキャンプ場のネタで、肝試しで蛸岩に向かった人間が発狂してキャンプ場に居た人間を殺したとか」
よくある恐怖系都市伝説のような話だった。
どちらかと言えばトンネルや大事故現場のような新しい心霊スポットと呼ばれる場所で、そう言う噂が出る。
「昔話でも旧街道の時代から変な事が起きるって聞いた事があるよ。明治になって何度か国道の名前が変わったんだけど、やっぱりそこで起きるらしいんだよね」
しかし、それだけ有名な怪奇スポットがあるのに、近くにある特徴的な建物の事を知らないのは妙な話だ。
朝、その女性と別れた私は、国道13号を福島方面に向かい、近宮先生に教えられた場所へと向かった。
奇岩遺跡らしい蛸岩にも興味はあったが、曰く付きの物に近付く趣味は無い。触らぬ何とやらに祟り無しなのだ。
道中は住所を打ち込んだカーナビを頼りにしたのだが、次第に山道に入り、遂に道は途中で完全に映らなくなった。
しかし、目の前には幅は狭いものの明らかに徒歩で進める山道があった。
致し方無く、私は車を邪魔にならない場所に停車し、取材に使うと言う理由で奮発した一眼レフのデジタルカメラを首から下げて道を進む事にした。
道ははっきりしており、草が生えている事も無い。
明確に、使用されている道だ。
高く太い木々がトンネルのように日差しを遮っている。僅かな木漏れ日が照明代わり。
暑くは無いが、静寂が感覚を狂わせそうだ。道も起伏や微妙に曲がりくねっているのでなかなか先が見通せない。
雰囲気があったので、何枚か写真を撮る。
やがて、光が出口の存在を教えてくれた。
てっきりこの先に畑でもあるのだろうと思っていた私の考えは外れ、代わりにその姿をはっきりと確認する事ができた。
木々が途切れ、視界が開けて見えたのは、小高い丘の上に建つ、文化財級の二階建て木造洋風建築。
白い外壁に槍の穂先のような屋根。
あれこそが『四面館』であると、私は認識した。
3 四面館の住人
遠景で一枚撮ってから邸に向かって歩いた。
経年劣化も感じられる白い外壁に三角屋根。豪雪地帯でもある米沢なので屋根に積もりにくい形と言える。
一見すると、正確には一方向から見るとおかしいようには見えないのだが、その外周を回ってみると、ある奇妙な事に気が付く。
建物はおそらく十字型になっている。その一辺は測ったかのように、まあ建築なのだから測っているに決まっているが、十五メートルもある。
つまり、縦横が最大で四十五メートルある。
そして尖塔状の屋根が四つと言う時点で、この建物が、四つの邸を隙間無く十文字に配置したと言う事が判明する。ちょっとした城のようなフォルムだ。
中心には中庭か、建物同士を繋ぐ回廊があるのだろう。
かなりの大きさの建物だ。正直、なぜこれほどの建物が地元で知られていないのか、理解に苦しむ。
十字の頂点の一つに玄関扉がある。
てっきり記念館か何かと思っていたのだが、それらしい看板は無く、ごくごく普通の、洋館風の玄関だった。
さすがに勝手に入るわけにもいかず、どうしようかと思ったのだが、とにかく来客を告げるノッカーを鳴らしてみる。
今日の事情では、写真一枚撮るにも許可を取らないと面倒な事になる。
ここに居るのが記念館の関係者とかなら話は簡単だが、仮に未だに住居であった場合は交渉は途端に難しくなるだろう。
もっとも、ここが住居なら、税金は大変そうだ。
しかし、ノックに対応して出てきたのは私の想像を裏切る存在だった。
メイドである。
秋葉原に居るようなスカートが短いウェイトレススタイルのメイドではなく、いわゆるヴィクトリアンメイド、と言うスタイルだ。
身長は恐らく百六十センチ台後半。長い闇のような黒髪をメイドキャップで纏めている。
肌はアルビノかと思うほど白く、手足は細い。
顔立ちは日本人。整っているとは思うが、美女と言うほどでもない。
ただ、どこか眼が離せないような不思議な感じがする。
「当家に何か御用でしょうか?」
私は見学の希望と写真撮影の許可を求めると、メイドは「畏まりました」と言って私を中に招いた。
まるで本当のメイドだ。一般家庭とは思えないし、そう言うコンセプトの記念館として邸を保存しているのだろうか?
それはそれで有りのような気もするが、ここへのアクセスの悪さを考えると繁盛しないだろうし、努力する方向が少し違う気もする。
メイドが私を案内した場所は、応接室らしきインテリアの部屋だった。
とかく成金趣味の応接室と言う物は、これ見よがしに様々な物が置かれていてゴテゴテしていたりするのだが、ここは装飾はあるもののすっきりと品良く機能的になっている。
暖炉が有るが、火は焚かれていない。
しばらくその部屋で待っていると、身形の良い壮年の男性がさっきのメイドと共にやって来た。
「お待たせしました。このような時に御来客と思わず、不作法致しました」
中背の男性。紳士的とも言える身形と態度。柔和な顔立ちに古いデザインの黒縁メガネ。
執事ではないかと思う腰の低さだが、着ているスーツを見ればそうではない事が分かる。
「この邸の主、内藤靖臣でございます」
男はそう自己紹介した。
それは、内藤伯爵の名前である。
驚く私を尻目に、内藤氏はメイドを示す。
「こちらは当家の家政婦、黒乃でございます。生憎と他の者には本日暇を出しており、満足なおもてなしは適わぬかと思いますが、どうかご容赦願います」
メイドは私に深く頭を垂れた。
内藤氏は私にソファに座るよう促すと、メイドにお茶の支度を命じた。
私と向かい合うように座ると、内藤氏は私に切り出した。
「さて、このようなご時世に山形の山奥までわざわざご足労頂いた、そのご用件とは?」
見学と写真撮影だと伝えたが、内藤氏は難しい表情を浮かべていた。
その態度は真剣で、演技にはとても見えない。
この時点で私は、内藤伯爵を演じる人物とメイドをコンセプトにした記念館、と言う可能性を捨てた。
何かがすれ違った、奇妙なやり取りが気になったのだ。
それに、内藤氏が私を見るその眼は、何かを疑っているような風を見せていた。
このご時世、と言う言葉も引っかかった。
内藤伯爵が生きていた時代は戦中だ。役作りのセリフなのか、それとも。
「………そのような風体で、立派な写真機を持っておられる。ライツカメラと言えど、そんな代物を一般向けに出したとは聞いていません。そんな物を持ち歩ける新聞記者も居ない」
ライツカメラ。持ち運び型軽量カメラの基礎を作り、戦争の時代に報道写真を支え、一時代を築いたライカの事だ。ライカはライツカメラの略語である。
ライカが名機を出して名を轟かせるのは戦後直後の1950年頃。
しかもライカが一眼レフを作るのはずっと後だ。
「居るとすれば、それは政府のお膝元。特別高等警察くらいではありませんか」
思わぬ言葉に変な声が出そうになった。
思想犯の取り締まり機関。特別高等警察。
普通選挙法とセットで法律化された天下の悪法・治安維持法に基く活動で知られている。
当時のエリート集団であり、暴行や過剰な取り調べ、拷問などの負のイメージが強いが、実際は社会主義者、共産主義者、無政府主義者の摘発を主としていた。
当時の共産主義は武力革命と政府転覆が大前提だった為、シンパは基本的に内乱罪、不敬罪、国家転覆罪、場合によっては銃砲刀剣等不法所持、危険物取締法違反に相当する存在だった。現代に換算しても過激派以上の存在、極刑相当の犯罪になる。特高の狼藉者イメージは、戦後の軍国主義への反発で一時期教育界を牛耳った社会主義教育者が広めたとも言われている。
悪名高き戦中の特高と思われている事に混乱する私は、恐る恐る内藤氏に今日の日付を訊ねた。
奇妙な物を見たかのような表情を浮かべた内藤氏だったが、すぐに私の質問に答えてくれた。
「今日は昭和19年。つまり、西暦だと1944年4月15日です」
覚えがある。近宮氏から聞いた。
内藤伯爵が死亡した、当日だった。
私は、荷物の中から仕舞いっぱなしだった美術館のパンフレットの存在を思い出し、それを取り出した。
『内藤コレクション ~昭和初期の怪奇画蒐集家展~』
パンフレットには当然、内藤伯爵についての紹介記事も載っている。
写真も、掲載されていた。
目の前の人物と見比べてみると、目の前の人物は若干老けて見えるものの、よく似ていた。
最新の特殊メイクなら再現は難しくないと言うが、それはあくまでも映像として見ればの話。
実際に人間と対話していれば一流の役者を使ったとしても不自然さは拭えない。
しかし、目の前の内藤氏は至って自然。もしこれがメイキャップの仕事なら、世界中から技術者として招かれるだろう。
私は恐る恐る、パンフレットを内藤氏に渡した。
それを見た内藤氏は、驚きの表情を浮かべて私を見た。
そうして一言、彼は呟いた。
「………ああ、何と言う事だ。やはりあれは本当の事だったのか。今日と言う日に、こんな事が起きるとは」
その顔にはありありと恐怖の色が浮かんでいた。
4 真実の蒐集者
味も分からないお茶を一杯頂いた後、私は応接室から内藤氏の書斎に案内された。
途中で屋敷の中を確認したが、やはり二十一世紀とは思えない調度品や設備である。
例えば窓。例えば扉。アルミサッシが見当たらない。
時代を表現するようなテーマパークでなければ、これはやはり現実なのだ。
少々違和感を感じながらも、私は邸の中をついて行った。
窓が無い書斎にはぎっしりと書物が並んでいるが、海外の物から和綴じの物まで、様々だった。背表紙を見てもどんな物なのか把握できない。
大きな書斎机を中心に置いて背の高い本棚で囲まれた、男の憧れの本格的な書斎だ。
「お尋ねしたい。一年後の夏、日本に米国の新型爆弾が投下されると言う話は、本当ですか?」
内藤氏は私が未来の人間だと理解したのだろう。正直に言えば驚きである。確かに百年も前の人間ではないが、そう簡単にタイムスリップなど信じられるだろうか?
確かに、内藤伯爵が活躍した時代は超科学が論じられた時代でもある。SF作家H・G・ウェルズの活躍も五十年ほど前。むしろ、現代と比べても情報としては突拍子も無い物ではないのかもしれない。
しかし、当の私ですら未だに混乱してると言うのに、七十年前の人物が受け入れていると言うのは些か複雑な感じだ。
さて、どう答えるか。答えるべきなのか。
「私は、この世に存在する技術で可能な事以上に不可思議な現象が起きる事を知っています。この世界が抱える真実に関しても、ここに集めた資料から知る事ができました」
「世間では一笑で終わる物にも、真実が宿っている事がある。調べれば調べるほど、私は日本民族、否、人類に待つ悲劇を理解するに至ったのです」
悲劇? 日本に原爆が落とされたのは、ああ、この時間軸だと落とされる、のは事実。
しかし、その言い方ではまるで別の事が内藤氏は気にかかっていたようだ。
「今から三十年も前の話です。まだ、私は世界の真実になど興味も無い、日を楽しく暮らせばいいと考える人間でした。上っ面を撫でたような文学論や具にもつかない聞きかじりの理想論を振り回し、自らを高等遊民と名乗る、どうにも愚劣な存在だった」
内藤氏は莫大な財産を受け継いで、その財産で特に職に就く事も無く生きてきたのだと言う。
『伯爵』と言う呼び名も、元はそんな内藤氏に対する揶揄だったそうだ。
「ある日の事です。骨董趣味を持っていた友人の一人が、大陸から仕入れたある物を持ち込んだのです。それは『未来観の水鏡』。一説では、シナの古代王朝に君臨した則天武后が使ったと言う代物です。それに水を張り、夕闇が落ちる逢魔が時に覗き込むと未来が見えると言う代物。仲間内で試した時、他の誰もが何も見えなかったのに、私だけが見えたのです」
「空を飛ぶ巨大な鉄の飛行機械が、日本に信じられない破壊力の爆弾を落とす、その光景を!」
「仲間には笑われましたが………その直後に、欧州で大きな戦争が起きました。飛行機が空から爆弾を落とし、戦車が地を走る時代が来た事を知った私は、自分が見た物が現実になると考えるようになりました。私は友人から水鏡を二束三文で買い取り、それから何度も確認しました。見える光景はだんだんと広がり、飛行機が米軍の物で、場所は広島。時間は1945年8月と分かりました」
私のようなタイムスリップがあったのだ。未来の事を知ると言う現象があっても不思議ではない。
そして内藤氏の言葉は余りにも正確な『予言』だった。
だが、やはり気になる部分がある。
内藤氏は、その先の悲劇と言っていた。それは一体何なのか?
「その日から私は真実を研究する者としての道を選びました。学問の本道からはほど遠い、狂気の道です。怪しい研究をしてると疑われ、外国との戦争に反対する意見を述べたので特高に目を付けられたのも一度や二度ではありません。マルクスも置いていなかったので大事にはなりませんでしたが。はは、むしろ御嶽教関連の資料もあったので、一目置かれた事もありました」
「1925年2月から3月にかけて、世界的に同時多発的な事件が起きました。あらゆる国の多くの芸術家や作家が意識を失ったり、奇妙でおぞましい作品を作り上げたりした事件です。この日本でも発生し、幾つかの作品は私が買い取りました。それは、私の研究が真実に迫った事件でした。若き日に観てしまった予言の時は確実に訪れると言う確信を抱いたのです」
「人類は遠からず悲劇を迎える。もはやこの戦争を続けるのは愚劣の極み。私は、長年研究していた内容から、世界を救う為の試みを実行しようと決断したのです。この別邸は、その為に建てたのです」
「………未来から貴方が来た。それは、これから私が行う事が正しい事だと言う事実に他ならない。悲劇は回避され、人類は存続した。この暦………2015年か。何と言う、遠いが近い時代があるのだと、私に最後の勇気をくれた」
内藤氏は本棚の一つを大きく動かした。
そこには更に引き戸が作られていた。
本棚は隠し扉になっていたのだ。
そう。私はようやく、先ほどから感じていたこの邸に対する違和感の正体を掴んだ。
中庭と思われる空間がある筈のこの邸には、中庭に通じる扉や窓がどこにも無いのだ。
普通の家なら明かりを入れる為にも庭に面した窓がある。
それなのに、十文字になった屋敷の中心にある筈の場所に行くための扉も窓すらも無かったのだ。
そしてこの書斎は、外窓のある方ではなく、内側へ置かれた部屋だったのだ。
内藤氏は私を忘れたかのように、隠し扉から中庭へと続く通路に入った。
四つの窓も無い壁に囲われた、中庭がある筈の場所。
そこには何も無かった。
何も、木も、地面すらも無かった。
巨大な真四角の穴。
おそらく十メートル以上深く掘られた穴があった。
「………この別邸の近くに、蛸岩と言う古代に作られた環状列石があります。気が触れたり、異様な出来事が起きる事で有名な場所です。それもその筈。その蛸岩は、遥か古代にとある存在を崇める祭壇でした。いいえ、祭壇と言う言葉は正確ではない。それはある種の通信機なのです。遥か超古代に南太平洋の海の底に沈んだ都市の主の声を聴く為の、双方向の通信機なのです」
「1925年2月末。沈没都市は僅かな期間浮上したと記録に残されています。その支配者も、一瞬微睡から覚醒した。結果、世界中の芸術家たちがその意志を感じ取り、絵筆をとって大いなる存在を讃える作品を残した」
突然、私の脳裏に、あの絵が思い出された。
近宮氏が傑作と呼んだ、おぞましいナニモノかの絵。
「その存在はとてつもなく強大で、太平洋に沈んだ大陸の支配者でもあった。その支配は大陸を越えて環太平洋の周辺まで及んだのです。しかし、環太平洋地域で何箇所か空白がある地が存在する。その一つ、日本海を中心とした東アジアの一角には、何故か遥か後の時代の遺物しかない。何故か?」
「満州! 朝鮮! 私は多くの文献と、遺跡調査を行い、その事実を突き止めました。当時、その強大なる支配者と覇を競った存在が、世界中に何柱も存在したのです。この日本を含む大東亜にも存在した。それは今は日本海の海底に沈んだ、『腐敗森林』の盟主!」
「かの盟主が目覚めれば、蛸岩を通して刺激し、沈没都市の主も目覚める。人類は戦争の継続を断念し、新たな世界連合の元で団結する時代が来る! 思想も恩讐も越えた、生き残るための時代がやって来る。新しい時代を迎える為の、最後の破壊が必要だ!」
内藤氏は巨大な穴に向かって、聞き取れない呪文のような物を高らかに唱え始めた。
日本語では無い。英語や他の言語とも全く異なる。
本当に人の発音かと疑いたくなる言葉の羅列。
「地の底、古代の樹々の墓場より目覚めよ! 『腐敗森林の盟主』、『穢れた甲虫』、ザ=ドゥーガ!」
呪文を唱え終えた直後、館は大きな揺れに襲われた。
同時に、穴の底から耐え難いほどの大量の悪臭が立ち上り始める。
それは木々が腐った、腐食の臭い。腐葉土の臭い。
まるで世界全てが腐ってしまったかのような、暴力的な常識の書き換え。
同時に、穴の底から途轍もない巨大な気配が感じられた。
巨大な生き物。象や鯨を間近で見た事はある。
だが、それは根本的に存在感が異なる。
桁違い。
まだ姿を見てもいないのに、支え無しでは立っている事もままならない圧迫感。
私は遂に耐えきれなくなって隠し通路を振り返って逃げた。
そう遠くない筈の距離がやけに遠い。
メイドが立っている。
表情はよく見えないが、割れたような笑みを浮かべて立っている。
「勿体無い。どうして見ないのかしら?」
このメイドは関わってはいけないモノだと私の心が叫んだ。
書斎を抜け、廊下に飛び出した。
なのに、出口に辿り着かない。
揺れはどんどん大きくなり、建物は遂に悲鳴のような酷い音を立ててきしみ始めた。
出口は無い。
あったとしても、それは出口ではない。
本当の脱出口は一つ。
私はそれを探していた。
この異変が真実であるのなら、私が助かる唯一の場所が存在する筈だった。
それはきっと地下にある。
館が崩れ始めた。
同時に、私はそれを見つけた。
地下に作られた保管庫。
絵画を保管していた筈の場所だ。
飛び込もうとした時、耳元でまたメイドの声がした。
「折角ここに来たのだから、振り向いて見なさいな。数億年の時を越えて蘇った腐敗森林の盟主、大いなる神の姿を」
見てはならない。
そう考えたのに、私の身体は思わず後ろを振り向いていた。
………嗚呼。それは一体なんだ?
脚だ。巨大な黒い脚だ。節の間から虹色の粘液が零れる5トントラックほどのサイズの甲虫の脚が館の壁を砕いていた。
露になった中庭の方向には、しかし中庭も壁も見えなかった。
すでに屋敷は半壊しており、地の底から這いあがったそれが身体の半分を見せていた。
カブトムシ、クワガタ、カマキリ、スズメバチ、ムカデ、クモ、サソリ、トンボ、コックローチ。
ありとあらゆる昆虫やそれに類する多脚生物のパーツがぐちゃぐちゃに飛び出したかのような狂った昆虫の王。
全てがそいつの器官である。
そいつの中に全てがある。
そしてそいつには人智を越えた智慧がある。
圧倒的で絶対的な存在の塊。神と呼ぶしかない、醜悪な超生命。
身体の中に有る無数の顎がガチガチと己の復活を世界に示すような咆哮を上げる。
悲鳴を上げながら私は地下保管庫に転がり込んだ。
身体を丸め、耳を塞ぎ、眼を硬く瞑る。
全ての情報を遮断して、嵐が通り過ぎる幸運だけを祈る。
世界がひっくり返りそうな衝撃と振動。
途端に静かになった。
震えが収まるまで私は動けなかった。
何分そうしていただろう?
もしかしたら半日以上そうしていたのかもしれない。
私は恐る恐る保管庫から外に出た。
そこには何も無かった。
館も、穴も、何も無い。
ただ地下保管庫だけが残った、何十年も経過した廃墟だった。
5 四面館の終焉
あの体験から一月ほど経った。
幾度と無く悪夢に悩まされ、幻覚を見たのも一度や二度ではない。
フリーランス故に仕事は調整できたのが救いだった。
心療内科を受けたとしても、真実を話す事などできやしない。一体何を信じて貰えるだろう?
それでも日を重ねるごとに症状は治まった。
時折のフラッシュバックも、少しずつ軽くなっていった。
そんな中、私は再び近宮氏と会う機会を持った。
仕事ではなくプライベートな時間での、あの美術館訪問でだ。
その日はあの企画展示の最終日だった。
近宮氏は例の青い怪物の絵の前に居た。
「四面館跡に行きましたか。何も残っていなかったでしょう? 屋敷部分は火事か何かで失われてしまったようなんです。内藤伯爵は僅かに残った壁に叩き付けられて死んでいたそうです。もしかすると竜巻か何かを受けたのかもしれませんね」
四面館はもう存在しない建物だった。
昭和19年に何らかの事故で建物が崩壊し、住人だった内藤靖臣氏が死んだ。
当時の状況ではまともな捜査など行われなかっただろうから、真相は不明。
地下に作られていた保管庫だけが無事だったが、その存在を発見したのは今世紀に入ってからだと言う。
「発見したのは誰であろう、私なんですがね」
近宮氏はそう言うと、変な微笑みを浮かべた。
パンフレットには「誰が発見した」とは書いていなかったが、私はあの体験をした後、何となくそうだろうと思っていた。
「ある理由で、保管庫の事を知ったんですよ。それで、発見したんです」
近宮氏との二度目の邂逅は終わった。
氏は千葉県の夜刀浦市の美術館で展示を行った後、いよいよ海外に持っていくのだと言っていた。
さて。
実は、私のデジタルカメラにはあの時の画像が残っている。
訪れた際に遠景で撮った四面館の画像が。
あの体験が真実であると言う証拠だったが、一枚だけ奇妙な画像が残っていた。
四面館に向かう道で何の気なしに撮った一枚。
木漏れ日が照明代わりの木のトンネルの中。
車の通れない狭い道。
そこに映っていたのは………。
………映っていた世界は………。
クトゥルフ神話リプレイ動画が凄過ぎる。素晴らしい。




