神父たちの哲学的な昼食
頭上で鐘が鳴り響くのを、アレクセイは目を閉じながら聞いている。
王宮の小さな礼拝堂で、彼は跪き、祈りを捧げていた。
どうか、日々が平穏でありますように。神よ、天使よ、この祈りを聞き届けたまえ。
王宮に時を告げる鐘は、礼拝堂中に胸に迫る低い余韻を残して消え去っていく。
それを合図に彼は瞼を上げて、正面の正十字を視界に収めてから、ようやく立ち上がった。
信者席では、アレスタ神父が祈りを捧げる格好で軽く寝息をたてて眠っている。
頭が前後に振れていくのをしばらく見守った。
アレスタ神父の体の具合は刻一刻と悪くなっていると聞いていた。だから、自分の死後にスムーズに引き継ぎができるように、同じ修道院から時々アレクセイを呼び寄せることとなった。
祭壇の正十字、左右の壁にはめこまれたステンドグラス、比較的簡素な内装、喧騒とは程遠い静寂の時。この礼拝堂は、華やかな王宮の中での離れ小島と同じ。ただ一つ、清らかな場所である。いや、その清さを保つための番人として、彼らは代々呼ばれているのかもしれない。
しばらく経ってもアレスタ神父は身動ぎせずにゆっくりと舟を漕いでいる。鼻先に乗っけた眼鏡がどうして落ちてこないのか不思議に思う。サロンに行くには早いが、その前に済ますべき用事があるのならば、起こした方がよいのだろう。申し訳ないと思いながらも、アレスタ神父の肩を揺らした。
「アレスタ神父、アレスタ神父」
二三度体を揺らした神父はあっけなく覚醒した。しょぼしょぼとした目を瞬かせて、眠気を振り切るように頭を揺らす。
「ああ、また寝てしまった。アレクセイ君、私はどれくらい寝ていたのかね?」
「十五分ほどではないでしょうか」
鐘が鳴る前からだとしたら、もっと長いかもしれない。鐘の真下にある場所で居眠りしていた、としたならば。
「そうかね、また」
アレスタ神父は呆けたように呟いた。無感情にも見えるが、体を起こす仕草はいかにも重苦しげである。しまいに心臓があることを確かめるように胸を押さえた。
「悪いね。よいせっと」
彼は、アレクセイの手を借りて立ち上がった。
「アレスタ神父。お休みになりたいのでしたら、お部屋までお連れしますよ」
礼拝堂の裏手にある小さな建物がアレスタ神父の住まいとなっている。
しかし、アレクセイの申し出に神父は手で拒絶を示す。
「君をサロンへ連れて行くのは私だと決めているのでね。それに休んだところで変わらないのだ。眠るたびに死へと近づく。最近はそれを考えずにはいられないのだよ」
私もまだ、死にたくないのでね。神父はゆっくりと礼拝堂から出る扉を開けた。
発言に困惑したのはアレクセイの方であった。
「確かに理屈はそうでしょうが、よくわかりません」
「最近はとみに眠りが長くなったということだよ。次に眠るときにもう目覚めないことも覚悟している。若く健康的な君にはまだわからないだろうね」
はっはっは、とアレスタ神父は上滑りの笑い声を上げるも、その瞳の奥に思索的な輝きが宿っていたことを忘れてはならない。まるで世界の真理を探求する哲学者のような顔をしていた。以前はもう少し陽気で活発なイメージを持っていたものだが、人は変わるものらしい。アレクセイは少しの新鮮な驚きを持って、彼を見つめる。
二人は外に出て、黒の帽子をかぶり直した。
「君、昼は何か口にしたかね」
「まさか。修道院の規則に合わせて、一日二回ですよ」
「それならちょうどいい」
小道を通って、王宮本館の裏手に出る。粗末な入口から中に入った。いくつかの角を曲がって、厨房らしきところに入る。
「エッカート、いるかね?」
隅の椅子に座っていた男が立ち上がった。
「なんだい。こっちは今、部下に全部やらせて、休憩していたというのにさ」
髭面でいかにも俗っぽい男である。しかし、こちらに来る時も他の者たちに指示を飛ばしている様子を見るに、彼がここの責任者であるらしい。
「そういえば、君をここに連れてきたのは初めてだね、アレクセイ君。紹介しよう、彼がここの厨房長のエッカートだ。エッカート、彼がアレクセイ君。僕の後任になる男だ」
エッカートはぞんざいに後頭部をさすったあと、気がついたように前掛けで手を拭って、アレクセイと握手を交わす。
「どうも。あんたがここに越してきたときは、ここで食事をつくることとなっている。そのときはまた声をかけてくれ」
「ええ、よろしくお願いします」
アレクセイはエッカートのごつごつとしたタコや肉刺だらけの不格好な手の感触にぎょっとする。さぞや、エッカートの方でも驚いたことだろう。修道院のお勤めがあったとしても、アレクセイの指は白く細く、なんの苦労も見えない手なのだから。目立つのはペンダコの奇形ぶりぐらいのものか。あまりに大違いの人生を辿ってきた手が握り合わされたのだ。
「さっそくだが、エッカート、彼はこれから大事な用が控えているものでね、何か食べさせてやってくれないか」
「アレスタ神父!」
咎めるようにアレクセイが声を上げても、アレスタ神父は異議を受け付けないかと言わんばかりにひたすらエッカートに体を向けている。
「働いたもんは食わなくちゃなんねえさ」
エッカートが言う。八重歯を見せて、にやりと笑った。
「どうせ、今食べたって、疲労困憊になるのがオチ。せめて頭の回転ばかりは早くしておかなくちゃなあ。王宮なんだから」
アレクセイとて、初めて王宮に来たわけではないのだが。わずかな疑問を感じたが、別段それ以上何も思えなかった。
「若いうちは食える分は食っとけ」
何か反論する前に、厨房長はくるりと踵を返して、料理の支度に取り掛かってしまう。やがて、小気味良く野菜が刻まれていく音が聞こえてくる。
「ちなみにメニューはサンドイッチだ。さっき作ったから、材料が余っているんだ。それ以外は認めん」
後ろを向いたまま、エッカートが宣言する。
教会の規則に反しているので、どうにも罪悪感が拭えないが、人の好意は必ず受け取る、というのも、教義にあることも確かだ。
邪魔にならぬよう、アレクセイは厨房の端の方に寄った。アレスタ神父はエッカートの椅子に背筋をぴんと張って座り、両手を綺麗に揃えていた。きっとこうして料理が作られるのを待つのが習慣となっているのかもしれない。
エッカートはがさつそうな風貌とは裏腹に流麗な手つきでボウルをかき混ぜ、包丁を用い、フライパンを操っていく。これもまた一種の曲芸のようにも思えるから不思議なものだ。
そして、時折、指示を仰ぎに来た部下に檄を飛ばし、持ってきたものに味見をして、片手間に批評をする。その間にも別の作業を進めるのである。
「私たちの立場で言うのもなんだが、〈魔法の手〉のようだとは思わないかね」
「このような〈魔法〉なら、教会もよろこんで受容したでしょうね」
この世は二人の天使が作りたもうたとされている。不思議な力が使えるのはかの天使らだけ。もし人が不思議な力を使えたのなら――それは否認される。〈魔法〉あるいは〈魔術〉と称され、排斥される。
文献を見る限り、その不思議な力というのは往々にして災いを呼んだとある。こんな平和な目的ならばいいのに、という冗談に近い言葉だったのだが、アレスタ神父は厨房長の背中を眺めているようで、もっとはるか彼方を望んでいるような目をした。
「どうだろうか。今の私には、それは違うと思われてならないのだがね」
「と、言いますと」
「君の専門はなんだったかね? 以前は数百年前の古文書を読みあさっていたようだが」
話の展開に戸惑いつつ、アレクセイは頬を掻きながら答える。
「今もその延長にいますよ。最近はその中で当時の写本の研究をしています。教会と民俗信仰の折り合う過程が目に見えるようですよ」
「そうか、それならば君にも理解してもらえるかもしれない」
アレスタ神父が口を開きかけたその時、ずいとアレクセイに皿が押し付けられた。
「ほれ、おまちどおさん。悪いがよくわからん話を始めないでくれるかい? わからん話をわかろうとして、さらにわからんようになるからな」
「あ、ありがとうございます」
エッカートは無言で扉の外を指し示した。察したアレスタ神父が若者の袖を引く。
「隣が食堂だ。そこで食べるといい」
神父は自分の分の皿を受け取ると、扉から出た。アレクセイも続こうとしたが、壁沿いの棚にふと人影を感じた。
見れば、背の低いどんぐりのような女がつま先だちとなって、ごそごそと棚を探っている。そばかすの赤毛の女が急に頬を緩めた。次の瞬間には頬が栗鼠のように膨れている。
アレクセイはその変化の察するところを悟り、彼女に近づこうとしたが、またも袖を引かれた。
神父は己の唇に人差し指を立て、首を振っている。
女は今も口の中に角砂糖と思しきものを詰め込んでいる。王宮なのに、なぜこのようなことがまかり通るのかわからなかった。
しかしあんまりにも恐ろしい形相で口に放り込んでいるものだから、元来優しい性質のアレクセイは気後れしてしまった。引っ張られるがままに、厨房をあとにしてしまう。
「どういうことです?」
攻める口調になるのはお門違いでも、理由は問わずにいられなかった。
アレスタ神父は長机の並ぶ大きな食堂に座り、アレクセイにも座るように促してから、ようやく口を開いた。
「君も私も、幸運な人生を歩んでいるのだよ。我々は貴族の血を引き、幼いころはその経済的援助に頼ることができた。そうだろう、アレクセイ君?」
はい、と彼は言葉少なにそう肯定する。きっと今はみっともない子供のようなしかめ面をしているのだろう、アレスタ神父が子を諭すような顔つきをしているのだから。
「世知辛く思うかもしれないがね、これは真実なのだよ。よほどの功績をあげない限り、平民出身で王宮付きの神父にはなれない。君のような若者なら、なおさらだ。血筋が高貴とされることで、身元が確かになる、ということなのだから」
「選ばれたことは名誉に思いますよ」
しかし、どうしてもこの仕事が向いているとは思えなかった。彼はそもそも学究型の人間なのである。人に説教をしても、話が難しく理解されないうえに、それを指摘されると途端に気弱となって、声高に主張できなくなってしまう。そして鬱々と思い悩むという、厄介な性格なのだ。
「君は時々、引っかかるような言い方をするね」
そう言いながら、神父は短い祈りの文句を捧げたあと、サンドイッチを口にする。トーストにされたパンにレタスとかりかりに焼かれた厚切りベーコンが挟まれている。
修道院では食事は沈黙の時間とされている。その伝統をまったく裏切る形を見せつけられたアレクセイは困惑の瞳でアレスタ神父の言葉を待った。
「まあ、それはいいさ」
神父は間を置いてから、こう切り出した。
「つまり私が言いたいのは、我々は、非常に〈美しい〉世界に生きている、ということなのだよ。どういう意味か、わかるだろう?」
すぐにサンドイッチは冷めてしまう。わかっていても、アレクセイは口をつけなかった。
「王宮でさえ、〈美しくない〉世界があり、我々はそれに目を瞑ってやるべきだとおっしゃりたいのですか」
さきほどの厨房の女の賎しさを思い出す。王宮で取引される角砂糖は間違いなく高級品である。その高級品を手づかみに口に入れていく様に、彼は形容しがたい心地になった。
盗み食いは貪欲や大食といった悪徳にもつながる。悪徳が魔を引き寄せると言われる。
アレスタ神父がサンドイッチを保つ手から、パンくずが溢れ、肉汁と思しき汁が更に滴り落ちる。握り直した際にトーストが軽く潰れて、さくり、と美味しそうなきしみを立てるのが聞こえるようであった。
アレクセイにとってはまるでそれが悪魔の誘いのようにも思えるのである。
彼は意識して、神父の手ではなく、顔を見つめた。
「そんな危ない主張をするわけがないだろうに。ただね、〈神書〉の解釈と同時代の古文書の研究に我が人生をかけているうちに、考えさせられる機会が多くなった、ということだ。〈魔法〉の存在にしてもね。とうの昔に捨て去られた〈魔法〉に魅せられる」
神父は静かに言って、軽く一口サンドイッチにかぶりつく。
「君は軽い気持ちで言ったのかもしれないがね。王宮には今、じわじわと〈魔法〉が一つの流行になっているのだよ」
神父の視線が手の中のサンドイッチに投げられる。代わって若者が瞠目する。
「……教会は知っているのですか」
深い驚きを身体のうちに留めておけなかった若者は、神父が背をのけぞらせるそぶりで我に返った。気づかず、彼に詰め寄るかのごとく、前のめりになっていたのである。
「教会は軽視しているね」
アレスタ神父の声音は教え導く師であった。実際、アレスタ神父は王宮勤めになる以前は若年にして、若き神父たちの師を務めていたという。王宮勤めとなっても、時折自分の古巣に舞い戻っては、盛んに神父たちとの交流を繰り返し、様々な議論を行っている。その縁が書簡のやり取りとなって繋がる。アレクセイと知り合ったきっかけもそこにあった。
「私もそこまで深刻視しているわけでもない。手に入る情報を常に収集し、報告だけはシュタット枢機卿に上げているよ」
アレスタ神父はくい、と口角を上げてみせた。それから、サンドイッチを完食する。
シュタット枢機卿はかつてアレクセイが所属している修道院の修道院長を歴任した人物であり、二人の派閥のトップをはる人物であるが、アレクセイにとってはまだ見ぬ人である。
「ここ百年ほどで我々人々は目覚ましい進歩を遂げてきただろう。君だってここに来るのに用いた列車もそうだ。機械による大量生産、数々の物理現象の解明、勇気ある探検家たちによる動植物の新種の発見! くるくるくると糸車が狂いながら回っていくように……」
「あの、アレスタ神父」
アレクセイが困惑していると、神父が鬱々とした口調を切り上げて、気を取り直したようにこう言った。
「君はこうも考えたことはないのかね。我々の発明と発見で豊かになった。便利になったと言い換えてもいいだろう。ある科学者は、『我々人間こそが、時代を作っていく時代がやってきたのだ』、と言った。これは〈ルヴォアの告白〉という名で大層売れているようだが」
「それなら、僕も読みましたよ。実に、合理的な無神論者、といった無駄のない文章でした」
「随分と傲慢だとは思わないかね」
食卓の上で両手を組むアレスタ神父の顔色を読み取れない。皮肉めいているようでもあり、退屈なようにも見えた。
「私のような者には小石が坂道を転がり落ちていくさまがありありと思い浮かべられるというのに。だから、人が時代を動かす時代ではなく、時代が人を振り回しているのではないか」
アレクセイはじっと耳を傾けていた。
「時代がある一方へ強烈に向かっていくことは、もう一方で逆へと揺り戻しがあるものだ。新しい物へ走る一方で、古き物へと惹きつけられる。その現れが、〈魔法〉を愛好する現象ではないか、と私には思われてならないのだよ」
意見を求めるように、神父の視線が動く。
アレクセイは冷め切ったサンドイッチを一瞥してから答える。
「不思議なことが不思議なことではなくなった。だから、もっと不思議なことを求めているようにも思えますよ、僕には。それが〈魔法〉ないし〈魔術〉、ということなら、わかります」
人を前進させるのは、知的好奇心でもある。不思議な事柄は、知的好奇心をくすぐる。アレクセイのように、知的好奇心を満たしながら生きている人間ならば、実にわかりやすい論理なのである。
「僕にはアレスタ神父ほどの学識に浅いので、なかなか実感としてお考えに賛同することはできませんが、おっしゃりたいことは理解できます」
「いいや、君はよくわかっていると思うよ。総じて、私が言いたいことはだね、今のまま、〈魔法〉を好む風潮がにわかで済むなら、それでいいのだ。危ないのは逸脱したときだよ。〈魔法〉が遊びで終わらなくなったら、ね」
神父は口を閉じ、アレクセイはようやく食事に手をつけた。
冷めたサンドイッチだが、噛み締めるほどに旨みが広がっていく。
その時にも、アレクセイの思考は深い迷いの森へと誘われた。迷いの森の奥には〈魔法〉という過去の遺物が眠っているのだろう。




