正午の王子たち
十二時。クレーエキッツェ中の鐘が一斉に鳴り響く。地上を揺らすほどの音の波は十分以上も続くので、どんな寝ぼすけさんでも飛び起きる。
鳴るのは鐘ばかりでもない。朝食をしっかり食べていたとはいえ、午前中の運動量が多かった。腹の虫がおとなしくしてくれるわけもない。
やっと衛兵が捕まえてきてくれたと思ったら、今度は腹の虫でジョルジュに抗議してくるのだ。ジョルジュは仕方なく勉強を打ち切った。廊下に出て、近くにいた侍女に昼食の支度を頼む。
「何か、ご希望はございますか」
見慣れぬ侍女はほんの少し頬を染めながら、そう聞く。胡桃色の髪をした、純朴そうな娘であった。名前は知らないが、ホルテンシュタイン夫人のところで見かけた気がする。
「え、と。そうだな」
サンドイッチだー。部屋の中から注文をつけてくる声がある。ジョルジュはため息を一つついて、彼女に希望を告げる。
「すまないが、サンドイッチで」
「は、はい」
侍女がますます顔を赤らめながら、そろりと扉を一瞥すると、振り切ったようにせかせかと歩き去っていった。
ジョルジュが部屋に戻ったとき、どことなくふくれた面持ちが出迎えた。
「どうした、カロ」
カロはべたりと机に張り付く格好で、顔だけ上げていた。
「腹がすきすぎて、何も手が付かない状況なんだ」
「それで、勉強もボイコットする、と。子供か」
出来が悪い弟ではないはずなのだが、いかんせん怠けぐせと逃亡癖が甚だしい。母を幼くして亡くしたために、年の離れたジョルジュとクリスタで甘やかしすぎたのかもしれない。
「お前のご希望通りにサンドイッチを頼んでおいた。潰れていないで、そこの本に目を通しておけ。わかったことをまとめておくように。明日、私が来るまでが期限にしておく」
「ジョルジュ、厳しくないか!」
カロがバネのように飛び上がって、声を上げる。ジョルジュからすれば、だいぶ優しい処分だというのに、それこそ意味がわからなかった。わざと低い声音で弟に告げる。
「ペナルティだぞ。軽々とできてどうするんだ。夜会に出ないというなら、時間はあるだろう。もしできなければ……クリスタに説教をしてもらおう」
途端にカロがむすりと押し黙った。やはりクリスタの名前は弟に絶大な影響が及ぼすらしい。昔から姉にべったりな甘えたがりだったが、成長しても変わらないようだ。
「やる。やればいいんだろ、もう!」
やけっぱちだが、言質は取った。こうともなれば、カロは意地でもやり遂げるだろう。
さっそくジョルジュが置いた分厚い本に目を通しているカロの表情は真剣そのものである。サンドイッチが届くまでは保つだろう。
ジョルジュはカロの部屋から静かに退出した。胸ポケットから懐中時計を取り出して、時間を見る。十二時十分。王宮の礼拝堂から響く、長い長い鐘の音がちょうど終わった。
彼は自室へと急ぐ。彼が住まうは国王の居室の下の階であった。カロの居室とは棟も違うので、王宮本館を横切る形を取る。
赤い絨毯の続く先を延々と辿っていく。シャンデリアが下がり、無数の鏡と金で彩られた華やかな廊下と、豪奢に着飾った男女が行き交っていくにつれ、ジョルジュは段々と〈彼ら〉にふさわしく、貴族的にしたたかでにこやかな、澄ました顔に作り替えられていった。人に礼を取られるたびに、挨拶されていくたびに、言動がすべて公のものとなっていく。まなざしが弟への親しみから、教養豊かな聡明な皇太子のものへと取り替えられた。
ジョルジュ皇太子が歩けば、人々が左右に分かれていく。彼は実にスムーズに廊下の中央を堂々と闊歩した。
弟の面倒を見ているとは言え、彼は決して暇を持て余しているわけではない。貴族や国民、国外との折衝も、細々とした国事の補佐とを合わせれば、それはもう目まぐるしい。
この国は立憲君主制だ。憲法が制定されても、大臣たちが並ぼうとも、国王がすべてを握る国。そして、もう一つ。この国に成文化された憲法が作られたことはない。常に概念はあやふやなのだから、国王が行動できない枠外のことなど存在していない。仕事は無限に押し寄せてくる。
よって彼は時間に追われている。時間という名の蛇の尾っぽをむんずと握ってどうにか逃げられないようにしている。
途中で己の侍従と落ち合う。
「アラン、事務処理の方はどうなっている?」
「頼まれたものは出来上がっております。その他に一部、お伺いをしたいところがございます」
「ああ、あとで見ておく。何か変わったことは?」
「そうですね、いくつかご報告したいことはございますが、緊急というほどのものはございません。そうですね」
アランの言葉と足が唐突に止まる。ジョルジュも止まらざるを得ない。廊下には通る隙間も見えず、迂回路などないのだから仕様がない。
「変わったことと言えば、あの集団くらいのものでしょうか」
「なるほど。それは確かに」
眼前に事実が広がっているだけに、妙に納得してしまう答えである。ジョルジュは眉を吊り上げながら、失礼、と集団をかきわけながら、その中心に顔を出す。そこにはまだ王宮への出入りが許されたばかりの年齢の少女と言っていい年頃の貴族の女が絨毯に座りこんでおり、その傍に憔悴極まった、とでも表現すればよいのだろうか、そんな男が女を心配そうなまなざしで見下ろしている。せせこましい感じの中年の男だ。服装の生地からして、貴族の身分ではないのだろう。
「ちょっと、気分が悪くて」
フリルのたっぷりついたドレスに身を包んだ女は、男を見上げて言う。辛そうに小作りな顔を顰めて、丸い目には涙を溜めている。
アランがジョルジュに耳打ちする。
「どうなさいますか、殿下。おそらくこの様子ですと」
言外の意味を汲み取ったジョルジュは、溢れそうになるため息を飲み込んだ。
囲んでいる人々は皆好奇心に駆られ、周りを取り囲むので、通行人の妨げとなってしまっている。ただの野次馬を決め込むぐらいなら、どこか休める部屋に運び、医者に見てもらう方がよい。
「ああ、殿下」
一人がジョルジュに気づく。するとあっという間に群衆に広がった。一斉に突き刺さる視線を受け流しながら、彼はご婦人としっかり目を合わせた。
「ご気分がすぐれないのですか?」
女はますます目を潤ませた。熱のこもったもの欲しそうな目である。ああ、またこの手か、とジョルジュはげんなりした。
妻とこの数年、まったく疎遠となっているのを国中が知っていた。容貌に秀で、ある程度身分がある女なら、誰しもが寵姫の座を夢見ている。未来の国王の気を惹けるなら、なんでもしてやろう、仮に国王一家でなくても権力者の愛人でもいい、自らをきらびやかに彩るものが欲しい。
このようなことばかりだから女の言動一つで、その裏を探るような癖が身に付いたようなものである。すべてを慎重に、注意深く生きねばなるまい、と心に決めるのには十分ではなかろうか。
今回の女はあからさまで大胆な手を使う物だと感心するが、彼にとってはそれだけのことで終わる。ジョルジュは裏のある女が好きではないのだ。
ジョルジュは女の返事を聞かずに、頭を巡らせた。
「誰か、ここに医術の心得がある者は?」
ここにおります、と恥じ入るような声で答えたのは、女を心配そうに見ていた中年の男である。貴族でないと思っていたら、どうやら医者だったようだ。
「申し訳ございません、殿下。殿下のお手まで煩わせることになってしまいまして」
男は王宮の医局に在籍する医者であり、ブゼ、と名乗った。
「具合を診て差し上げたいのは山々なのですが」
ブゼは声を潜めた。
「このご婦人は、わたくしをお気に召さないようで、要らない、と突っぱねていらっしゃって」
「それならば大丈夫ですよ」
ジョルジュは紳士の微笑みを浮かべて請け合った。女の顔を一瞥してから、念を押すように、
「王宮の医局にお勤めなら、この場で彼女を診るのはあなたが適任でしょう。気後れなさることはありません。あなたには、その資格がある。ご婦人、いかがでしょうか、多忙ゆえ、私がつきそうことはできませんが、部屋まではアランに運ばせますよ」
男は一瞬呆けたようだが、首振り人形のごとく首を縦に振る。女は男と同じ一瞬のうちに怒りの色がさっと差すも、結局は何も言わない。
事態の収拾がついたためにぱらぱらと人が散り始める。駄々を捏ねる女とそれに戸惑う男の喜劇がようやく終息したということだ。
「アラン」
「かしこまりました」
アランは女に肩を貸しながら、近くの空き部屋へと運び込んでいった。ブゼは深々と頭を下げた。
「殿下、ありがとうございました。ここで失礼させていただきます」
ジョルジュが鷹揚に頷くと、ブゼはアランの後ろを追いかけていった。
人々が思い思いに四散していくのをなんとなしに観察していた彼だが、その中に異様な風体の老人がいることに気づく。
何もかもがツギハギだらけの服に、室内でも外さないぼろぼろの帽子。顔は皺とシミだらけ。歯は何本も抜け落ちて、残った歯も黄ばんでいる。右目はすでに盲ているらしく、奇妙にすぼんでいる。
はあ、はあ。老人は鼻息荒く、右手に握った杖を震わせながら、ジョルジュとは別方向に歩きさっていく。
「メジリアク」
彼はその名を呼び、呼んだことに対して恐れを抱く。背丈が低い自分よりもさらに小さな老人を恐れるのはおかしいのだと誰かが言うことがあるかもしれない。しかし、ジョルジュはそう言い切ってみせる輩こそを疑おう。不快感、嫌悪感のさらに向こうにある得体の知れなさが形を為しているような存在なのだ。王宮の浮浪者ともいうべき風采でも、近づいてくるだけで体がすくみ上がる。なのに、さきほどの騒動の中で、誰も彼の存在に気づいた様子は見せなかった。奇妙なのに、するりと空気に溶け込んで馴染んでいくのだ。常日頃から、彼に特段に注意を払っているジョルジュでさえ、今気づいたという始末だ。昔も今も、克服することのできない存在感である。
彼の職業が貧しいリュート弾きではなく、乞食でもなく、画家であることを、今は何人が把握しているのだろう。彼の作品はもう長らくアカデミーでもサロンでも発表されていない。弱者は自然淘汰されていくのが常の王宮に成果も残さず、その身を置いている不思議さに触れることは、彼にとっては禁忌そのものに思える。
左右に振れていた頭がぐるりとジョルジュを向いた。まるで彼が名を呼んだことに気づいたように。この距離で、口の中で呟いたような言葉なのに、寸分たがわず、左目でジョルジュを射抜く。にやあ、とがたがたの歯並びをみせながら、彼は笑う。
ジョルジュはまるっきり子供に戻ってしまった心地だった。ひとりきりのベッドで夜を過ごすことが苦手で、暗闇にわけもなく怯えた幼子である。あるいは、夜に抜け出してきた弟をあやしながら、部屋に戻る途中で、闇の中から這い出てきた彼と鉢合わせてしまった時のようだった。
彼は自ら顔をそらせて、足を早めた。一刻も早くその場を離れたい。その一心である。
しかしながら、彼の背後で蛇が頭をもたげて、今にも首筋にかぶりついてくるという想像が心の奥底でこべりついて離れようとしなかった。
太陽はここから昇ることをやめ、西に沈みはじめていく――。




