謁見者たち
王宮の顔は貴族である。と、なると王宮が寝ぼけ眼をこすって、ようやく気取った笑みを浮かべるようになれるのは十一時頃である。貴族が自室を出て、交際を始めるのだ。
王宮に住むことが許されていない貴族は、クレーエキッツェに住まいを持ち、彼らが本格的に王宮を訪れるのはこの時間帯から。王宮内の貴族がぞくぞくと国王に謁見を申し込みに殺到するのも、この頃である。
ただ、謁見を希望しても、その内容によるところもあり、いつ許可が出るかはわからない。運良く謁見の申請を通った者は、本館の階段を上り、続き間になっている、親衛隊の間、謁見控えの間を経て、謁見の間へと入る。扉ごとに親衛隊が守っており、護衛に力を注いでいる。
もちろん、謁見の間へ入るのは要件ごとの少人数であるので、自然と謁見控えの間に人が集中することとなる。
壁の三面を巨大な歴史絵画に彩られ、シャンデリアがぶら下がる豪奢なつくりの謁見控え室は、大勢の人々を収容するのにふさわしく、広々とした広さを取られている。その代わり、その用途のためか、椅子のような調度品は一切用意されていない。長時間待たされる、こらえ性のない貴族には少ない忍耐を強いられる場所でもあった。
その煌びやかな簡素な空間に、この日集まったのは十数人の貴族と、ほんの二三人の中産階級の人々である。貴族は正式の謁見という場にふさわしく、黒いマントと馬の尻尾のような三つ編みを施した銀の鬘をつけている。古めかしく、時代の流行から取り残されているのは確かだが、この装束を許されることこそ、貴族の特権の一つでもあった。一方、普段着に近いと思われる格好をしているのは、中産階級に属する人だ。タキシードに蝶ネクタイをしている。彼らは貴族らのような装束を許されていないのだ。
彼らのすることと言えば、謁見を知らせる国王の秘書官の到来を待つことと、無益なおしゃべりで暇をやりすごすこと。貴族ともなれば、狭い世界だ、一人でこようとも、顔見知りの一人や二人はいるもの。
すると、自ずと派閥ができてくるというもので。
「これはまあ、お綺麗な令嬢をお連れのようですね。伯爵家ともなれば羨ましい。我が家の身分などでしたら、立派な家柄に嫁がせなければ、国王への謁見など叶いますまい」
などと、白い鬘をかぶった御仁が親しげに隣の親子に話しかければ、相手方でも顔を知っているらしく、ごくごく親しげに返答する。
「いやいや。こうして澄ましている分にはいいがね。問題はこれからですよ」
「ほう、これから!」
もったいぶった言い回しで、散々周囲の興味を引きつけておきながら、年配の貴族は相手の耳に顔を寄せる。間をおかず、ええ、そうですよ、と肯定の返事がかえる。二人ともが、含みのある笑みを浮かべて、さらにこそこそと話し合う。
一方で、他の貴族も互いに近況などを話している者、これからの謁見で国王に申し述べることを話す者など様々だが、先ほどの二人の貴族が視線を集めた以外には、彼らの興味が自分たちの他に向けられることはない。
ただし、そうでない者たちもいる。
「さきほど、声を上げておられた方と、話しておられるハウンド伯爵は――ああ、令嬢を連れている方だ。噂によると、娘を収めるべき高貴な座を求めておられるという」
「と、いうことは、今日の謁見は国王の反応を見るため、か」
窓辺に近い壁際で、ひっそりと会話を交わしたのは、謁見控えの間で明らかに身分が隔たっていると思われる者たちである。一人は腹の膨れた小男で、もう一人は神経質そうな顔立ちで、杉のように縦に長い男である。
横に並んで小さく唇だけを動かす。
二人して、笑うことを忘れてしまったような硬い表情で、貴人たちから向けられる遠慮がちでいて、内実は軽蔑した目を跳ね返す。
「俺たちには関係のない話だ。この先、誰が王妃になろうとも、たいして変わりはしないだろうに」
小男が淡々とそう言い、
「変わらないとも。私たちは私たちの仕事をすればいい。国王に求められれば応えればよい」
同じように抑揚少なくのっぽの男が答える。
「では、決めたのだな、ユルゲン」
小男の言葉に、ユルゲン、と呼ばれた男は顎をくいと上げるものの、相手に顔を向けてはいない。押し殺したように彼は告げる。
「言わずに済ませられないはずがないことは明らかだったのだ。今まで同じ階級同士、世話になったな、ヨスト」
「もう猶予はないのか、一年ぐらいサバを読んでも誰にもわからない」
ユルゲンがヨストを見下ろし、文句をつけようと口を開きかけたものの、結局は噤む。
一瞬の沈黙の後、ヨストが視線を下ろし、自分の短い足と黒い革靴を見る。
「気持ちはわからんでもない。この国に絶望したくなるのもわかる……あのようではな」
二対の目が動く先。謁見の間に続く扉が開き、国王との面会を終えた者が出てきた。先ほど、娘を自慢げに話していた伯爵は、次の瞬間、足のもつれかけた娘など気にも留めずに、さっさと部屋を横切って去ろうとする。娘は案の定、転んでしまい、周囲の冷笑に涙を浮かべながら、父親の後をついていく。
「イローナ、お前のせいだ、お前のせいで何もかもが台無しだ! なんだって、そんなに不細工に生まれてきたんだ! やはり妾の子として修道院に入れておけばよかったっ!」
閉じられた出口から漏れ出るのは、娘を叱責する父親の声と、すんすんとか細く泣く哀れな娘の声であった。
控えの間には、白けた空気が満ちている。忠実なる秘書官が朗々とリストにある、次の謁見者の名を読み上げた。
「アンガス・ユルゲン博士、国王がお待ちでございます、どうぞお入りを」
ユルゲンはびくりと体を震わせたあと、高らかに靴音を鳴らしながら、何の迷いもなく歩み出た。
「アンガス・ユルゲンは、ここにおります」
秘書官は頷く。彼を先導して、謁見の間に入っていく。
ユルゲンの針金のような背中が消えるのと、新たな人物がその部屋にやってきたのはほぼ同時だった。
その場にいた貴族たちの一人が彼の名を呼ぶ。
「これはご無沙汰しております、ロワイユ総監」
「そうですね、子爵。最近はチェスの相手を務めることができず、心苦しく思っておりますよ」
鷹揚に応じたロワイユ総監は、丁重に挨拶を交わし、無駄のない足取りでヨストのずんぐりとした体を目指して歩み寄る。
「ヨスト」
「閣下、お元気そうでなによりです。総監も謁見をなさりに?」
ヨストはロワイユの差し出した手を握り返す。
ロワイユはいや、と短く言葉を切り、ちらりと周囲を鑑みる。彼に注目していた観客たちがさあっと引いていった。
「ユルゲンが王宮に来ていると聞き、謁見後にでも私の部屋を訪ねてくるように言いたかったのだが、この調子だと、今まさに、というところか」
「そうでしたか。総監にわざわざお越しいただかなくとも、言伝を頼んでくださればよかったのに」
ロワイユは肩をすくめて、気のない様子でこう言う。
「気分転換を兼ねているものでね。事務仕事ばかりで気が滅入るばかりだというのに、さらに陳情に来る者たちが多いのだ。それよりも、君に聞きたいことがあるのだが」
「何でしょう」
ヨストはユルゲンとそうしていたように、二人して横に並んでいた。ロワイユは表情を動かさず、極力話の内容を聞き取られぬように、口を小さく動かす。
「ユルゲンからは、もう話は聞いているものと思っていいのだろうか」
「そうですね。もう今頃は国王陛下にも伝えられていることでしょう」
ロワイユの目が固く閉ざされた木の扉へと向く。顔をしかめてみせながら、彼ははっと息を吐いた。
「それで、君の謁見の理由は何だ?」
「私は、陛下に呼ばれたものですから。……おそらく、例の事件ですよ。まだ公にはしていないのですが、とうとう貴族の令嬢にも被害が出ましたからね」
あまり気分のいい話ではない。
夜の闇に女が消えた――。
紙面を覆う〈黒鴉〉の記事に隠れるようにして、しばしば日報に掲載される見出しがある。王都クレーエキッツェは日々多くの人々が出入りすることもあり、すべてに公序良俗が
行き届いているわけではない。流出入が多いというのに、すべてを把握するのは不可能であ
った。
変わり果てた姿で見つかった彼女らには、四つの共通点が存在している。
行方不明から発見までの周期がきっちり十三日間あるということ。
発見時、みな、血のように赤いドレスを着ていたこと。
致命傷は錐のように尖った刃物で胸を刺されていたこと。
彼女らの両目はことごとく潰され、赤い虹彩の義眼を入れられていたということ。
被害者はすでに五人。ただし、この数字は、身元が判明した者の人数のみである。身元不明で、かつ、二つ目からの条件にあてはまる遺体の発見件数は、過去四年間で十五人にも達する。
まるで悪魔のごとき所業であるが、なぜここまで遺体が執拗に痛めつけられているのかわかっていない。十三、という数字ばかりは古くから不吉な数字、悪魔の数字ともされているが……。
「とうとう二十一人目なのだな。もう、伏せるのも限界ではないか、ヨスト」
今まで人々が注目してこなかったのは、ひとえに見つかった彼女らの身分がけっして高くなかったことと、殺害の周期がはっきりわかったのは「わずか」五人であって、しかも皆が皆、発見される時期がまちまちだったからだ。
当時、ヨストには余裕がなかった。民間から初の警察長官として任命され、風当たりが今よりもっと厳しいものがあった。何の実績もないままで、今と比較できないほどに不安定な立ち位置にいたのだ。そして、警察内ではこの事件を事件として扱わないものとする人々が存在した。初めて見つかった遺体は、男に体を売る娼婦であると判明したからである。犯人たちは下層の女たちを狙っているようだった。娼婦、バレリーナ、売れない女優、花売り娘、上京したばかりの貧農の娘。年齢は年増と呼ばれる頃から、幼い少女までで、互いに知り合いだったということもない。彼女らには何の共通点も見られなかった。
ヨストが足元を固め、動き出した頃には、見知らぬ犯罪者は段々と犯行頻度を上げていた。
昨日見つかった、フリーエ男爵令嬢はやはり十三日前に消息を絶ち、長官のヨストに内々に捜索を依頼していた。フリーエ男爵とは同じ大学出身で、在学時代に多少知った顔だったからだろう。ヨストは嫌な予感を振り払えないで、十三日過ぎていくのを待つことしかできず、路地裏のドブに捨てられた遺体と対面することとなってしまった。
もはや、一刻の猶予もない。怪人〈黒鴉〉の動向も気になるところではあるが……。
「できることならば、都中に警戒を促したいところですよ、閣下。我々警察も万能ではありませんからね。閣下も身の回りの女性に気を配られてください。相手は、もう見境ないように見えます」
ロワイユが腕を組み、目を伏せたまま、冷淡に呟いた。
「私のほうは別にいい。大事な女なら、ずっと手元に留めて逃がさない」
〈放さない〉というところを〈逃がさない〉と表現するところを見るに付け、ヨストは不穏なものを嗅ぎつける。
警察長官に任命される前にも、警官として多くの犯罪者を目に焼き付けてきたヨストからすれば、ロワイユ総監の今の発言は〈黒〉だ。彼の言葉に実が伴って聞こえた。あたかも、その〈大事な女〉とやらが実在するかのごとく。
さりとて、ロワイユが犯罪に染まっていようといまいと、それはヨストの手に負えないことであり、どこにも確証がないことだ。ヨストはすぐさま話を切り替えた。
「とりあえず、陛下にはこれから大々的な公開捜査に踏み切ることを報告させていただきます。あとは、私の知る範囲でお教えできることはすべて包み隠さずお話しますよ。捜査難航をお伝えするのは心苦しい限りですが」
「そうするといい。陛下も君の事情を理解している。あまりにも叱責するようなこともないだろう。ただ、困ったようなお顔をされるかもしれないがね。たぶん、ユルゲンからの報告を聞いた陛下がいまごろ、そのようなお顔をされていらっしゃるだろう」
国王は滅多に喜怒哀楽を面に出さない。あるかなきかの微笑みをたたえて、淡々とすべてのことを川の流れの中へと投じて、それを見守っているような節があった。
毎日報告に上がっているロワイユ総監が指摘していることは案外的を射ているような気がしていた。
「今現在、陛下は非常に困難な状況に直面しておられるのだ。君の抱える犯罪の問題ばかりでなく、ユルゲンが抱えていた財政の問題も、数年続く不作の問題も、すべて、だ。特に、不作は税収を極端に減らす。宮廷が維持できずに、金を借りる。次の年にまた足りなくなって、借りる。借金は利子を返すのでやっとで、年々累積していく」
ロワイユは眉をひそめながら、窮屈そうに首元の蝶ネクタイをいじっていた。実際、首が締まっていくように思うのだろう。
王宮の財政を統括する立場にいるロワイユにとって、財政問題こそ、最大の敵であるのだろう。日々、逼迫していくことに焦りを感じていたのは想像に固くない。
「あと、三年、ですか」
ヨストは確かめるようにその数字を口に出した。ユルゲンもこれを確信し、人に告げるまでにどれだけの葛藤を要したのかわからない。同じ階級同士、たまに親しむことはあっても、二人の職掌は重ならない。ヨストは警察長官、ユルゲンは経済学者からの職業理念の良心に忠実であって、行動原理が異なる。ただ、ユルゲンが己の首を賭けたことには敬意を持つばかりだ。
「国家が破産するなどとんでもないことだ。とうてい許されるべくもない」
ロワイユは今まさに謁見の間から出てくる針金のような背丈の男を見ている。
「近いうち、大規模な異動人事があるかもしれないな。陛下がただ手をこまねいていらっしゃるわけにもいくまい」
二人に気づいたユルゲンがこちらに歩み寄って、頭を下げた。
上げた面に浮かぶのは、悩みを告げられたことへの安堵感と、告げた内容のための深い憂愁である。普段なら、ユルゲンの心の奥深くで幽閉されているはずなのに、とうとう抑えきれなくなって、光あるところへと出てきてしまったのだろう。
「閣下」
ユルゲンの呼びかけにロワイユは小さく頷いてみせた。「君には今後の展望をより詳しく話してもらおうと思ってね。私の執務室に来てもらう」
「かしこまりました」
たった三年で何ができるのだろう――。冷静なロワイユはそう思う。しかし、やらないわけにはいかなかった。たとえそれが、国を壊すことよりもかえって大変であったとしても、彼を義務と責任ある立場へと置いた国王陛下を裏切れない。
努めて、彼は反政府へと傾きそうになる危うい均衡を保てるように、息を詰めた。
辺りを漂う甘ったるい香水に辟易していたころだ、もういいだろう。彼は待ち人を連れて、部屋を出て行ったのである。