辛辣王女と逃亡王子
貴族社会における王族の役割の一つは、流行を作り出すこと。王女ともなれば、日に二度三度と「お召かえ」の時間が設けられ、国中でよりすぐりの仕立て屋が腕によりをこめて針で縫ったドレスに袖を通すことになる。
昔と比べて、色味が落ち着いたものになったけれど、とクリスタは心の内で思い、侍女に着替えを手伝ってもらう。化粧直しまで含めたら、これだけで一時間はあっという間に過ぎてしまう。起きている時間の四分の一は飾り立てるためのもの。きらびやかな生活に押しつぶされてしまわないための鎧を着る時なのだ。
新たなドレスを身につけた自分を姿見で確認したクリスタは、こんなものかしら、と言いたげに裾をつまんでみた。
「クリスタさま、よくお似合いです」
フェルメール侍女長は最後の仕上げとばかりにクリスタが朝早くに摘んだ黄色い薔薇を胸に挿し、首元の襟をしっかり立ててから、年嵩の女特有の安心させるような笑みを浮かべた。
「今宵の夜会もこの花を身に付けられたらどうでしょう?」
クリスタは少し考え込んだが、笑顔のまま首を振った。
「好きだけれど、もう私には似合わないわ。もっと若い令嬢が付けていたら、比べられて見劣りしてしまうもの。昼間付ける分には堂々としていられるのだけれど」
「かしこまりました」
侍女長は目を伏せた。
「次の予定までしばし時間がございますが、いかがなさいますか」
「次……」
クリスタが胸元の薔薇の花弁に触れながら、逡巡する。
「ホルテンシュタイン夫人が主催するサロンに招かれていたのだったかしら」
「はい。神父さまをお招きして、夫人方の信仰心に訴えかけるのだと申されておりましたよ」
姿見を部屋の端に戻したフェルメール侍女長は、クリスタの斜め後ろに控えた。
クリスタは結い上げた髪を軽く押さえてから、相手に向き直る。
「なら、温室に行ってくるわ。図書室から借りてきた本があるの。ああ、ついてこなくても結構よ。何かあったら、呼んで頂戴」
侍女長を後ろに残し、クリスタは本を持って一人で部屋を出た。楚々とした足取りで本館を出て、庭園の中で一際陽光を浴びるガラスケースのような温室に入る。彼女の歩く姿はまさに自然そのもので、すでに日常となっていた。彼女が誰かを視認する者はいても、特別何かを思うこともない。
温室は十字型に通路があって、その中心はぽっかりと円状になっている。そこにティーテーブルが一式備え付けられていて、彼女はそこに座って、読書を始める。
王宮の温室に他の貴族は近づいてこないのは、彼女がひとり静かに過ごすのを好むことを皆が知っており、この場所こそが、国王が彼女のために作り上げられた秘密の花園にほかならないからである。
この温室に入ることを許されるのは、持ち主の王女と、薔薇を剪定する庭師、そして彼女が認めたごく一部の人々のみ。温室だからこそ、微風が吹くことさえもなく、彼女が静かにめくる本のページが、土に葉が落ちる音と変わらない程度の、かすれた音を発するばかりである。
クリスタが白い面をふいに上げた。そのまま頭を巡らせる。一度血の気が引いたように見えたものの、すぐに柔らかな笑みをつくる。
ばたりと温室の扉を占めて、がさがさと狭い通路で葉に擦られながらやってきたのは、喧騒とでもいうべきものだった。
あ、いた、と間の抜けたような声を発して、クリスタの前に回り込んで椅子に腰を下ろす。
健康そうな血の気の多い頬と、三白眼気味の黒い瞳、大柄な体。短く切った黒髪を乱暴にわしゃわしゃとかき混ぜながら、声を潜めるように前のめりに顔を近づけ、彼は真面目そうにこう言った。
「かくまってくれ、クリスタ」
彼女は笑顔のまま、首を傾ける。
「嫌よ。あなた、また逃げてきたのね。そうやって嫌がってばかりいるからジョルジュがむきになるのではなくて?」
艶やかな唇から漏れるのは、舌先をぴりりとしびらせる胡椒のような言葉たち。カロはそのために麻痺したかのごとく、口元をうごめかせた。
「だ、だって、さ、クリスタ。一応、僕だって、もう一通りの教育はどうにか終えられたというのに、ジョルジュがまだ足りないって、主張するものだから」
クリスタが興味を持った様子で目を見開いたあと、おかしさを含んだ口調で、
「そう言っているジョルジュにだって、言葉が足りないわね。もう少しやりようはあるはずなんだけれど、ジョルジュもジョルジュで不器用だし、カロは鈍感だものね」
カロは苦いものを飲み込むような顔をする。姿勢を元に戻し、普通に相対した。
「クリスタって、僕たちのこと、そんなふうに思っていたの」
彼女はそれに明確な答えを返さず、視線を本に戻した。
「兄弟が上にも下にもいれば、よく見えてくるものよ。そうやって、二人で騒ぎあっている分には、この国は平和だってこともね。特にジョルジュがあなたのことで頭が一杯なのは、いいことよ」
「それは、わかっている」
弟のむくれた声にクリスタはくすっと笑みを漏らして、顔を上げる。声の調子通りの弟の表情に微笑ましさを感じながら、言葉を返す。
「あなたに必要なのは、知識を得ようとする〈意欲〉じゃないかしら。普段から何かためになる本でも、日報でもいいから、読書の習慣でも身につければどう? あの人、学者肌だから、それだけでもあなたを見直すでしょうね」
「どうだろうなあ。娯楽小説ばかり読んでけしからん、って言いそうだけれど。それよりもクリスタ。それ、なんの本? 面白い?」
カロが気のない調子で手元をのぞきこむと、彼女は彼に読んでいた本の表紙を見せた。
「どうかしらね。面白いのかしら、面白くないのかしら? 歴史小説なのだけれど、判断しがたくて」
赤い装丁に金文字で書かれたタイトルは、〈黄昏〉とある。彼の心に瞬時に斜陽が差し、己の影が背後に伸びていくさまが思われた。
「そんなに出来がよくないってこと?」
面の皮一枚でカロは曖昧に笑みを浮かべた。彼は己に宿った幻想からまだ逃れきっていなかった。言葉から浮かぶ、昼と夜との境目に思いを馳せずにはいられなかったのである。
「違うわ。出来は恐ろしくいいの。淡々とした日常の中を侵食していく、大きな歴史の流れを、様々な人々の観点から捉えていて……。きっとこれは国の〈黄昏〉を描いているのでしょうね。とてもいい作品なのだろうということはわかるのよ」
ここでクリスタは言葉を切って、しおりを挟みもしないで本を完全に閉じた。少し力をこめて続ける。
「でも、私は読まなければよかった、と思っているわ」
「それなら、結末まで読まずに放り出してしまえばいいよ」
カロは至極当然そうに言いつつ、テーブルの上の本を手にとって、ページをめくる。すぐに気乗りしない様子でテーブルに戻してしまった。
「うん。やっぱり読まなくてもよかったよ。クリスタ、もうそろそろ行くよ。たぶん、今頃ジョルジュが僕の居場所に気づいた頃合だろうし、隠れ場所を変えることにする」
「夕方のお茶会は大丈夫?」
「うん。丘の上の離宮でしょ。わかっている」
「夜会の方は?」
カロはすぐさま、行かない、と子供のように甲高い声で言い切って、逃げるようにその場を駆け出していった。
再び、黄薔薇が咲き乱れる温室に静謐が降りてくる。羽虫のはばたきほどの小さなため息を熟れた果実のような唇から漏らしたクリスタは、弟の消えていった方を見た。
本音を言えば、クリスタは弟に夜会に出てもらいたかった。少年という域を出て、青年とも呼べる年齢となったなら、王室男子としてしかるべき義務を負わなければならないからである。貴族との様々な付き合いは、彼の足を引っ張ることもあろうが、多くにおいて、その身を助けることになるのだ。
それでもやはり、今日のように兄から脱走するところを見るに付け、まだまだ子供、という認識がぬぐい去ることができなかった。だからこそ、クリスタは真面目にカロに諭すことができない。カロがクリスタとの約束は決して破らないことを知っていても、その弱さに付け込むことはしたくなかった。
クリスタは、この上もなく、優しい弟を持っているのだから。