洗濯女のお仕事と総監の務め
午前十時、日は天高く昇る。
城館内のあらゆるリネンのシーツが次々と取り払われていく。使用人でもさらに下層にある女たちは王宮に寝起きするすべての貴族の部屋を回って、シーツを大きな篭にぎゅうぎゅうに詰め込んでいく。視界を遮るほどの山をこさえて、彼女らは案外器用に、行き交いはじめた貴族たちを避けていった。
篭が辿りつくのは王宮の庭の端にある洗い場である。ここには洗濯用に水路が引かれており、洗濯女たちが各々洗濯板を持って水を張った盥の中のシーツを激しく叩く。洗われたシーツは別の洗濯女が近くの物干しにかけていく。
「ねえ、昨日散々ジャックのことを詰ってやったんだけどさ」
洗濯板の音に負けないような大声で一人の洗濯女が叫んだ。
「ああ、まったくセンスのない指輪をもらったっていう話?」
「え、それは別の男の話でしょ。今、ケーナが付き合っている男は三人だもの」
「ジャックと、ポリニャック様と……あと、ジャック?」
「ちょっと待ってください、先輩方」
一際若い女がたまらず声を上げた。
「ケーナ先輩が付き合っているのは上位使用人のポリニャックさまと、あと、ジャックという名前の男性二人なんですか? まさか、ですよね」
「何を言っているのさ、メラニー」
「莫迦なことをいうもんじゃないよ、メラニー」
先輩二人がほぼそろって自信満々に返す。
「ケーナなら、やりかねない」
「おほめの言葉ありがとう」
ケーナはシーツを干すのを止めて、気取ったお辞儀をする。
「あたしは、大ジャックと小ジャックと呼びならわしておりますのよ?」
女たちはどっと笑う。
「最低だね、ケーナ」
「それでこそ、私たちのケーナ。このままその美貌で男を食っちまえよ!」
「もちろんよ」
両手を腰に当てたケーナはふふ、と悪女の笑みを閃かせた。
「それで、あたしが最初に言っていたのは、小ジャック……あの若造のことなんだけどさ。あいつさ、あたしが詰ったのを、自分が親しげに女官とくっちゃべってたからだと思っているみたいでさ。慌てて自分の弁解を始めるの。その慌てっぷりったら、ありゃ、なかったよ。こっちが三股をかけているのを何も知らない純朴な青年で、あたしは笑うのをこらえるのに必死。でも、それをまたあたしが泣いていると勘違いしちゃってさあ」
「あらら、ひどい女だねえ」
洗濯女たちの日常は、日々の単調な作業のみ。楽しみは仕事の合間の雑談の花を咲かせることだけ。噂話や自分たちの色恋沙汰を面白おかしく囀り合う。
メラニーは新入りなので、このペースについていくのに慣れない。せいぜい耳を傾けて、一人で話を楽しむことぐらいなものだ。
「ああ、メラニー。もう乾いたやつを集めて、シーツ保管庫に持っていきな。くれぐれも模様つきのやつを入れ違わないように。とくにロレイユ総監は人のシーツをお使いになるのを嫌がられるからね」
「わかりました。いってまいります」
篭にシーツを積めなおし、いってらっしゃい、と女たちが口ぐちに言うのを後にする。
シーツの保管庫は厨房の下、つまり地下にある。わりと上級の使用人も行きかう中で、洗濯女の位置はことごとく低い。誰かに会えば必ず道を譲らなくてはならないのはもちろん、性格が悪く、かつ不機嫌な使用人に当たってしまえば、嫌味の一つや二つは覚悟しなければならない。保管庫に行くのはあまり気分のいい仕事ではないために、新人が受け持つのが暗黙の了解となっていた。
しかしながら、少しだけいいこともある。保管庫に行くためには本館にも出入りを許されるということ、そしてそこで出会える人がいるからだ。
「オレリーお嬢様」
メラニーのお嬢様は一瞬、怪訝そうに振り返ったあと、ああ、と嬉しそうな声を上げる。
「ごめんね、シーツで顔まで見えなかったものだから。今から、保管庫の方へ?」
王宮内でおすまし顔をしている貴族のご婦人とは違う、素朴で飾らない微笑みに、メラニーは楽園を見つけたように思った。
「そうです、お嬢様。よかった、会えて!」
「ええ、私も嬉しいわ。王宮で同郷なのって、あなたぐらいだもの。ほら、少しシーツを貸しなさい」
オレリーは幾枚かのシーツを取って、メラニーの隣に並ぶ。
「ありがとうございます、お嬢様」
メラニーが丁重に頭を下げたのにも関わらず、オレリーは軽く笑い声を立てた。
「相変わらずなのね、安心してしまったわ。変に遠慮しないのって、いいわね」
「遠慮……ですか?」
通りがかりの使用人に頭を下げる。怪訝そうに見られたのはオレリーの服装が洗濯女にしてはひどく上等なものだったからだろう。それもそうだ、メラニーのお嬢様は国王の寵姫の侍女をしているのだから。
「私は特にそうしているつもりはありませんけれど、もしかしてお嬢様、王宮内で働くことに疲れてしまいましたか?」
「私よりもあなたの方がきついでしょ? 今はいいけれど、冬は水が冷たくて大変だもの。前、私があげた軟膏持ってきている? あかぎれとかにならないようにしなくちゃね」
「私は大丈夫ですよ! だって、洗濯女ですもの、体力があれば、同僚もよくしてくれますし、どうにでもなります。でも、お嬢様が働いているところはそれだけではありませんもの。洗濯女にも高貴な方々の噂が流れてまいります。いつ、そんな無遠慮な噂の餌食になってしまわれるかと思うと、心配で心配で。旦那様もきっと心配なさっておられたのでしょう。父も心配しておりましたよ。そのうち、旦那様に呼ばれるかもしれませんね」
メラニーの父は、オレリーの父の屋敷で庭師として働いていた。事情は筒抜けになるのも道理である。
メラニーのまくしたてるような問いに、オレリーは言葉を詰まらせるも、すぐに答えた。
「そういう言い方をされてしまうと、こちらがどぎまぎしてしまうじゃないの。……そうね、実は今日の夜からお暇を頂いていて、里帰りする予定よ。もしかしたら、もう戻ってこないかもしれないわ」
「もしや」
メラニーが息を呑む。「縁談相手が決まったのでしょうか」
「それはまだ聞いていないわ。でも心配なさるのは無理ないわ。クレーエキッツェでは裕福な若い女性の行方不明が相次いでいるもの。身分の高い方々は自衛できるでしょうけれど、私ぐらいの中間層ではそういうわけにもいかないでしょ? 王宮だってたくさんの人が行き交うわけだし」
悪い誘いだってないわけじゃないわ、とオレリーは寂しそうに笑う。メラニーははっと胸を突かれた。
「メラニーはお嬢様の味方ですよ、絶対に。あまりお役には立てないでしょうが、お忘れにならないでくださいまし」
「とっくに知っているわよ」
メラニーの主は、彼女が主を追いかけてきたことは百も承知で、かくも嬉しそうに告げたのである。
来訪者が一人あれば、二人三人と際限なく続くものだとロワイユ総監は知っている。補佐が運んでくる書類が山のように積まれていく中、歓迎せざる来客がなんと多いことか。
首元できっちり留めていた蝶ネクタイが外れ、胸の前で揺れている。
仕事を進めるために、彼の執務室の扉に面会謝絶の札がかけていた。
「そのようなことなど我々には関係ありません、閣下。ガルシア侯爵は本当に困っておいでなのです。どうかお聞き届けください!」
何度も何度も札をかければ、それが方便であることに大概気づく。書面はおろか直談判も珍しいことではない。
弱りきった様子で頭を下げに来た中年の男にはロワイユにも見覚えがある。目の下にも隈ができているのに、ここまで来て追い払われることになる男だ。
鬱陶しさを隠しもしないで、ロワイユ総監は相手を睨めつけた。万年筆を下ろし、椅子に深く座りなおした上にである。
「大変お気の毒なこととは思うが、かと言って、こちらの財政は常に逼迫しているのですよ。先代ガルシア侯爵の王宮内の部屋は、かつてこちらが調査したときよりも大幅に家具の配置も量も変わっている。これでは次にその部屋に入る方のご迷惑になります。その旨は、入居なされたときの契約書がきちんとこちらの手元に残っているのですよ。壁紙や窓の補修も含め、多額を支払っていただくのは当然のこと。文書でも丁寧にご返答いただいたはずですが?」
「もちろん、それは我が主人にも伝わっていることです。正式な文書も確かに。ですが、ガルシア侯爵はとうてい承服しきれぬと申されております。以前も申し上げたとおり、王立高等法院への訴えも辞さぬ、と」
ガルシア侯爵からの使いの言葉は揺るぎなく、それが真実であることを告げている。
ロワイユ総監は軽くため息をついた。
「こちらより爵位は上だからと言って、そのような無茶を受け入れるわけにはいかないのですよ。そちらがこの王宮に住まう以上、定められた掟には従っていただきたいものです。
それに聞く限り、ガルシア侯爵家ならたやすく用意できる額であるはず。ピンシェール、お引き取り願え」
男は側へと寄ろうとしていたピンシェールを手振りで抑えた。
「いや、そこまでしなくても結構です、閣下。今日のところはこれで失礼いたします。仕事のお邪魔をして、申し訳ございませんでした」
一礼して、そのまま扉へと向かう。開ける間際に彼は再度振り返った。
「また、そのうちお伺いすることになるでしょう。旦那様はひどくこの件に意欲的でいらっしゃいますから」
「そうですか。またいらしてもお返事は変わりません、とお伝えください。私が言っても無駄かもしれませんがね」
後ろ姿は振り子のように揺れている。足元がひどくおぼつかない様子であった。最後にロワイユが垣間見たのは、うつむき気味に額を押さえるさまである。
「彼も哀れなものだ。仕える主人を間違えるとああなる、という典型ではないか。ガルシア侯爵にはもう少し模範となるべき品性を見せて欲しいものだ。よほど暇に飽いたと見える」
「貴族というものは皆そうでしょう、閣下」
ピンシェールはロワイユが記した書類をまとめて、角をそろえた。思慮深い青年は、ロワイユを不快にさせない物言いをする。彼の考えをことごとく把握しているのかもしれなかった。
「閣下の職務のように仕事に熱心である必要はないのですから。荘園の経営も家令に任せきりにさせている方々は、面白いことを求めておられる」
「それならば、皆、〈黒鴉〉の探索に出ればよい。闇を駆け抜けるあの怪人の目元を覆う白き仮面をはぎ取るのは大層骨が折れるだろうに」
ピンシェールの視線が斜め上に動く。
「そういえば、日報にも〈黒鴉〉が一面を飾っていたようですね」
巷を騒がす〈黒鴉〉。都の漆黒の闇を駆け抜けていき、さっそうと闇に吸い込まれそうな無辜の人々を救っていくのだという。その名の由来は屋根から屋根へと飛び移る黒いマントの姿がさながら鴉のごとく空を飛ぶかのごとく映った一人の作家が名付けたからだと言われるが、さだかではない。
「あれにはクレーエキッツェ警察も手を焼いていると聞く。どうせ、暇つぶしなら我々と関係のないところで行って欲しいと思うものだ」
「私もそう思います、閣下。あの方々の苦情が無くなるだけで閣下の仕事は四割ほど減るに違いありません」
「君の休暇も長くなるだろう」
そうでしょうね、とピンシェールは曖昧に肯定して、書類を届けに部屋を出て行く。
ふいに口元に寂しさを覚えたロワイユはケースを取り出し、巻きたばこを作って火を付けた。両手で窓を開き、新鮮な風で空気を入れ替える。二三枚書類が机の下へ落ちたが今だけは気にすまいと決めた。
彼に届けられる嘆願書は数多い。先ほどのガルシア侯爵しかり、王宮内でのトラブルは絶えないものである。王宮に住まう貴族が一人、賜った部屋を出ていけば、その空室を巡って争いが起こる。少しでも大きな部屋に移りたい者、はたまた隣の自室と繋げてもっと広くしたい者、クレーエキッツェ市内から王宮に移り住みたいと願う者があの手この手で決定権を持つロワイユにいい顔をしようとする。時には威圧的に接する者もいた。男爵家から婿養子に入った、と馬鹿にする者もいた。こうも反応がばらばらなのも、彼がその地位についてから日が浅いにほかならない。
彼自身は付け届けには興味を示していない。破産寸前の妹の婚家に手をかそうとは思わない。あれは彼女の自業自得である。贅沢に溺れた挙句、若い俳優に入れ込んで散々貢いで破滅を招いた子爵夫人。救いようもないのだ。
白い煙が彼の口から吐き出された。オールバックにした髪をさらにかきあげて、ほんの一時、物思いに沈む。