英雄に慰めの歌を
黄色いチェンバロが音を奏でている。
夜遅くになるというのに、王宮の音楽室では子守唄のような優しいメロディーが細く長い指によってこぼれ落ちていくのだ。
指は戯れに跳ねて、鍵盤を弾いていく。
格調高い典雅な響きが部屋中に満ちていく。ライヒャヴァルト中に広く愛好されている、国の美しさを賛美する曲である。彼女も旋律に合わせ、かすかに鼻歌を口ずさむ。
「まだ、眠っていないのか」
演奏する彼女の隣に来た男がその肩にそっと手を置いた。
「夜会で疲れただろう。もう眠れ。侍女長が心配していたぞ、クリスタ」
「そうね。……でも、もう少しだけ」
彼女は音楽の調べに再び耳を傾ける。
ややあってから、彼女は立っている兄を振り仰いだ。
「ね、カロがいないの」
彼女は少女のようにあどけない表情をしていた。「どこにも、いないの」
指が止まる。
「また、いなくなってしまったの。ジョルジュ、どうしよう、ねえ、もしもあの子にどこかで悪いことがあったら。どうしてか、とても不安なの。不安で、不安でたまらなくて」
ジョルジュは慌てて、妹の顔を見つめた。クリスタの瞳はからりと乾いている。なのに、どうして泣いているように顔を歪ませているのだろう。
「大丈夫だ」
ジョルジュは妹の頭を抱き寄せた。安心させるようにもう一度呟く。
「大丈夫だとも。……カロは、いつものようにけろっとして帰ってくる。そう、きっとだ」
そうね、とクリスタはかすかに聞き取れるような小声で言う。
三年前の出来事は、クリスタにも大きな影響を与えている。特に雨の夜には、まるで成長から逆行するように子供のような振る舞いをする。
ジョルジュは、弟妹のために何もできない己が歯がゆい。こうやって傍にいることしかできないのだ。だから、彼は祈り続けている。
――カロ、早く帰ってこい。お前がどこで何をしていても構わない。でも……どうか、無事に帰ってきてくれ。
カロは眠り続けている。
クレーエキッツェの深き闇の中、そこには光が見えた。
それが、死者の国への渡し守の持つ明かりなのか、それとも彼を死者の国から引き戻そうとする彼の大切な人々の祈りの光なのか。――けれど、きらきらと瞬いている。きっと悪いものではない。
じいっと見つめていれば、光の中から彼を急かすように二つの啼き声が耳に届く。
「にゃあん」
「カァ」
あぁ、やっぱり、と彼の唇がゆっくり弧を描いていく。彼がとりわけ気にかけていた、黒い猫と、鴉の啼き声である。早く、早く来て、と彼をせっついている。
「にゃあ、にゃあ」
「カァ、カァ」
こっちだ、こっちに来て。あっちはだめだ。ここでないどこかで猫は首を一杯に伸ばし、鴉はばさばさと翼を羽ばたかせているに違いない。
――〈猫〉と〈鴉〉が呼んでいる。行かなくちゃ。
クレーエキッツェは、まだ彼を必要としている。
彼は、光に向かって手を伸ばす。どうか届け、と祈りながら。
十二時となった。クレーエキッツェの時計たちが一斉に真上を指さした。――一日が、終わる。まさにその瞬間に。
とある夫人は、夜会でその華を開花させ。
とある大公妃は、静寂の中で読書をし。
とある神父は、明日が無事に迎えられることを神に祈り。
とある画家は、白いキャンバスを前に考え込み。
とある司書は、安い酒場で仕事上がりの酒を掲げて。
とある侍女は、粛粛と今日起こったことを日記に書き付け。
とある料理人は、簡易ベッドの中で寝返りを打ち。
とある貴族は、ひたすらに愛人を抱きしめて。
とある若者は、教会の宿舎で怪人の夢を見て。
とある王女は、戯れに音楽を奏で。
とある皇太子は、その音楽に耳を澄まして。
とある老人は、死者となり。
そして――とある王子は、いまだ生とも死ともわからぬ霧の中を彷徨っている。
クレーエキッツェ。そこは喜怒哀楽がまるごと詰まっている、玩具箱。神話、歴史、魔法が今、箱の中に散らばっていく――。
完結です。
ありがとうございました。




