夜に埋もれた秘密
〈黒鴉〉はクレーエキッツェの夜を駆ける。うねうねと蛇行する屋根の上、あるいは木々やガス灯の上へ飛び移る。彼は飛び跳ねる弾丸と同じ。地上をたむろする夜警など、蝿のようなもの。わざわざ明るくするだけ役に立つというものである。
誰も彼を捕まえられない。五十年もの昔も、今も変わらず。
いつしか彼は名も知らぬ路地へと至っていた。近くには大きな教会があって、にょっきりと尖塔が伸びている。その根元に一人の老人がいて、懸命に曲がった背中を伸ばしながら塔を見上げている。杖を持っていない手で携帯用のランプを持ち上げているので、彼にもその仕草が窺い知れた。老人は、〈黒鴉〉が見る前で、堂々と教会に唾棄したのである。
〈黒鴉〉は仮面の下で眉をひそめた。屋根の上から飛び降りて、暗がりから姿を現す。
「僕の偽物が現われたと聞いたのだけれど。あなたの仕業だったようですね。一体、誰をその役に据えたのですか? 僕のような真似が常人に出来るわけがないので、ぜひともあなたに聞いてみたかったのですよ」
唐突にかけられた声にも、老人は動揺しない。ぎょろりと隻眼の黄ばんだ眼球が彼に焦点を合わせてくる。
彼の言葉に対し、地獄から響くような恐ろしげな声が漏れ出てくる。
「君と同じようなものだよ。王宮にこっそりと忍び込ませた修道女の皮をかぶった〈雌狼〉さ。君と違って〈悪魔つき〉とも呼ばれているがね。発作になれば、君よりも強いかもしれない。教会が定めた全能の神以前に神と呼ばれた動物たちの遺産の一つだと思われるよ。実によく役立ってくれる」
「また、何かよくないことに使われたようですね」
〈黒鴉〉にとって意外だったことは、相手から紡がれる言葉は存外にしっかりしたものであったことだ。さらに〈黒鴉〉の事情にも通じているらしい。クレーエキッツェの〈夜〉を支配してきた男と思えば、これぐらいは承知の上なのだろう。そして、そもそも〈魔術〉に通じていなければ、〈魔術クラブ〉という幻想を信じさせることができなかったに違いない。
「わしも君に聞きたいことがあるのだよ、〈黒鴉〉」
「なんです」
老人の顔の皺がうぞうぞと蠢いた。皺の中に蛆や蚤が住んでいるような有り様である。すっと眼ばかりが剣呑に細められた。
「君の力は、誰から受け取ったものかね……カロ王子」
「やはりあなたは何でも知っているな、メジリアク」
カロ王子は息を吐いて、口調を崩した。
勿論、そのことは予期していた。そうでなければ、〈魔術クラブ〉特別会員たちの犠牲者にオレリーを選ぶはずがない。わざわざ、カロが密かに知っていたオレリーに、目を付けたのだ。
「あなたが生まれたときも知っている。先代の王が生まれたときもこの目で見届けたのだ」
王宮の最底辺から王宮を支配した老人は言いながら鬱蒼と嗤う。この老人は誰よりも長く王宮にいたのだ。それでいて、誰も老人がいることを気にしなかった。でも、高貴な地位にあるほど、彼らは注意しなければならなかったのだ。心の隙間に入り込み、弱みを握って、上に立つ。この顕著な例が〈魔術クラブ〉の一件だった。
もしも、彼が〈黒鴉〉でなく、また〈鴉〉や〈猫〉の助けを借りなければ、知らぬままだった。
〈黒鴉〉の並外れた情報収集の力はすべて彼らから借りたものであった。〈鴉〉と〈猫〉、この二つの生き物はどこにだっていて、誰の近くにだっている。古くから、人の近くで住まってきた生き物だ。人にとっては会話を交わさぬ隣人のようなものである。でも、その隣人だって、隣家がうるさければ聞き耳だってたてている。まさか人の言葉がわかるとも思わないだろうから、彼らがいようとも平気で秘密を口にする。誰も存在を気にしない。
つまりは種のない手品のようなもの。〈魔術〉と同じくあやふやなものなのだ。
「僕だってあの人が誰か知らないよ。それに誰だってよかったんだ。僕にとっては関係ない」
「無知なことだ、王子」
老人が嘲笑う。
「わしは君に〈力〉を託したのは前の〈黒鴉〉……〈黒羽〉であると思っているのだがね。むしろ、彼しか考えられない。五十年前にわしの手から逃れおった、〈魔術〉の遺物を持つ男のことよ。やつの足跡を辿れば、きっと〈魔術師〉へ至る。本物の、〈魔術〉が手に入るのだよ」
老人は不可思議な熱を持った声で語ったのを、カロはどこか冷めた顔で見守っていた。
「今の時代に、〈魔術〉など必要ないよ。そもそも幻想の産物だ。仮にあったとしても〈魔術〉は〈魔術師〉の一族にしか使えないらしいね。赤い瞳を持った〈魔術師〉の一族。それだって、遠い昔に教会が攻め滅ぼしてしまったのだと言われているじゃないか」
「では、君の超人的な能力は? 君が持っているはずの黒い〈石〉の恩恵ではないのかね?」
カロだって、薄々感じている。ただの人に屋根を渡り歩き、高い跳躍力を持てるわけがない。元々身体能力は高いほうだったが、〈石〉を持つとべらぼうに上がる。
〈猫〉や〈鴉〉とも意思疎通することができる。
カロは胸ポケットに入れていた、片手に収まるほど小さい〈石〉を取り出した。
「これは違う。〈黒羽〉は言っていた。これはクレーエキッツェを守っている〈猫〉と〈鴉〉の力が込められている不思議な石なのだと」
「だが、おそらく使える者は限られておる。それは、〈魔術師〉の血を濃く受け継いでいる者。君と、わしのように」
老人は己と、そして、カロを指さした。
「まさか」
カロは軽く笑い飛ばす。〈石〉をさりげなくポケットに戻した。
「そうだとしても僕には関係のないことだ。僕がすることはあなたを止めることだ。そして、あなたのためにクレーエキッツェ、ひいてはこの国が荒れていくのを食い止めたい」
「王族の義務としてかね」
躊躇いなく、彼は首を振る。
「いいや、僕のためだ。ここには僕にとって大事な人たちがいる」
「かつては守れなかった者への贖罪かね? クリスタ王女が君を守って、体中に大きな傷を作ってしまったから?」
老人はなんでも知っている。
きっと、カロが姉にねだって、都に下りてきたことも。カロが護衛を撒いて、クリスタだけが追いついてきたときに、暴漢に襲われたことも。カロを逃がしたクリスタが、胸にも足にも背中にも、そして首でさえ、大きくて醜い、ひきつれたような傷を負ってしまったことも。そのために、クリスタの縁談がすべて立ち消えになってしまったことも。
王宮でもごくわずかな者しか知らないその秘密。クリスタが露出の少ないドレスしか着られなくなってしまった理由だ。
まるでボロ雑巾のように転がっている姉に男が群がっていくというのに、カロは逃げてしまった。すべてが終わったとき、カロは呆然と立ち尽くすしかなかった。
それから、〈黒鴉〉と出会って……カロは〈黒鴉〉になった。
自嘲気味に、カロは笑う。
「これは僕のわがままなんだ。それぐらいわかっているさ。でも、力があったら、それはみんなのために使うべきなんだ」
「〈富める者の義務〉というやつかね。今度は貴族の理論か。だがね、この国はろくなものではないじゃないか。王宮の煌びやかさなんて、ほんの上辺だ。その下で苦しんでいるものが何万人もいて、成り立つ幸福なのだよ。当の貴族も人は殺すし、互いに足を引っ張り合って、笑顔の下で残酷なことを考えもする。そんな国は一度滅んでしまうべきだと思うのだがね」
カロは、はたと瞠目する。
「それが今回の目的だったのか」
「さて、どうかね。ただ、わしの中の悪魔が囁きかけてきたものでね。わしは悪魔の忠実なる下僕なのだよ。何も成し得なかった哀れな画家ではなく、ね」
カロは画家としての彼を知らない。彼が描いた絵画も収蔵庫で眠っているか、散逸しているのだろう。おそらく、もう日の目を見ることもあるまい。
彼は、歴史に残るような名画家にはなれなかったのだ。
「しかし、それも遠い過去の遺産なのだよ。今は……」
気づけば、老人はカロに銃口を向けていた。杖を持っていたはずの手が、こぶりの拳銃を握っているのである。なのに、老人はびくとも揺らがないでそこに立っている。
それどころか、老人はゆっくりと背筋を伸ばしていた。
みるみると顔が変貌していく。皺が伸ばされ、むき出しにされた黄色い歯が白くなり、身長さえも伸びていく。髪はざんばらの白から、カロと同じたっぷりとした黒へ。潰れた片目はそのままだったが、健常な方の目はぱっちりと開く。
老人はたっぷりと五十歳は若返ったような姿で、カロと相対した。
「驚いたかね」
老人、いや青年が愉快そうな声を立てて笑っている。声まで若々しく装っている。
確かに、カロは息を呑むほど驚いた。〈黒鴉〉でなければ、また銃口を突きつけられているこの状況でなければ腰を抜かしていたかもしれない。でも、冷静に考えれば、この老人が何をしようと、それは予想の範疇内のことのように思えてきた。そして、今夜は何が起ころうとも不思議ではない夜なのだ。
「これは、また。よく化けたものだなあ、と。……どうやら、悪魔が囁きかけてくる、というのもあながち嘘じゃないみたいだ」
老人があらゆることを知れたのも、確かに悪魔に魂でも売らない限り、難しいことである。
「ああ、悪魔はいるとも。教会の〈神書〉にでも散見されるだろうに。わしは悪魔に魅入られた男らしい。だが、悪魔とて、そもそもは神になりそこねた〈混沌〉なのだがね」
「残念だけれど、僕はそこまで信心深くないから。正直言って、あなたの言うことはよくわからない。やたらオカルトチックだということはわかるけれど。ただ、あなたが世の中を乱すというのなら、僕があなたを止めるということだけは知っているんだ」
君はよほどの愛国者だね、とメジリアクが彫像のように整った顔で言う。
「昼間は王子、夜は正義の味方となって、町を守るカロ王子、かね。ずいぶんと偽善者ぶっている。君は自分のやっていることが子どもの遊びだということをわかっていない」
拳銃の安全装置が外される音がした。カロは乾いた喉に唾を飲み込む。
おそらく、相手はカロをここで殺すつもりなのだろう。死人に口なしとあるように、〈黒鴉〉と判明した王子には、どんな罪をかぶせることが可能になる。ああ、本当に最悪の結末だ。
「僕が子供だって?」
「子供だとも。失ったものに耐え切れなくて、今も認められないでいる。君のしていることはただの代償行為だとも。ここでわしを止めたところで、根本的には何も解決しない」
「知ったことではないよ」
〈黒鴉〉は大勢の人を助けた。多くの感謝も捧げられてきた。姉の悲劇と向かい合えないため……それだけのためにこの三年もの間〈黒鴉〉でいられたはずがない。クレーエキッツェ中の期待に満ちた声が、カロに力を与えてくれている。
だから、カロは、彼らのために働きたいと思うのだ。
止めても何も解決しない? いいや、目の前にいる誰か一人ぐらいは救えるはず。
国の重大事には何も出来なくとも、兄のように有能でなくとも。……カロにできる精一杯のことをする。
どんなことがあろうとも、カロはこれからも、王宮を、クレーエキッツェを、この国を。
彼の唇が笑みを刻んで、綻んでいく。
「僕はさ、この国を――この、ライヒャヴァルドという国を、愛しているんだ」
メジリアクの顔が歪んでいく。さきほどまでの老人のときのごとく。
その目と目が交錯したとき、そこで何が起こったのかは本人にもわからぬことであった。
パン、パン!
乾いた夜空に二つの銃声がこだました。
……ただ一つ、カロにとって確かだったのは、素早く短銃を取り出して、迷いなく撃ったこと。
そして、彼自身の胸に鉛がぶち当たったような衝撃を受けて倒れたということだ。
ふと、彼が我に返ったのはどう、と別のところからも倒れる音がしたときであった。
カロは間違いなく眉間を狙って撃ったので、彼はきっと絶命したはずだ。
彼も傷を追っていた。胸から冷たい地面へ温かい血が流れていくのがわかる。四肢はこわばって動かず、何かを考えようとしても、痛みで中断されてしまう。
きっと、カロはここで死ぬ。メジリアクと相討ちであるだけ、まだ最悪よりはよかったのだろうか。わからない。彼には、何もわからなかったのだ。ただ、ひどく胸が苦しい。どこかに大事なものを忘れてきてしまった気がする。なのに、体が辛くて思い出せないのだ……。
カロの黒い目がやがて閉じられる。身体はすべての力を失っていく。血は赤々と石畳の隙間に染みていく。
まもなく天は涙を流し始めた。しとしとと、血も体温も奪っていって。そのときも、カロの身体は雨に濡れながら、ドブネズミのように道端に転がっていたのだった。
家々の屋根から彼を見下ろしたのは、黒い鴉であった。ガア、と死者の葬送を告げるように一つ啼いているのであった。
次で完結です。




