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誰が彼に希望を見たか

 神父はまだ人通りの多いところを選びながら、宿泊する教会を目指して歩いていた。この時刻には酔っ払いが多い。赤ら顔の彼らにぶつからぬよう、避けていく。足取りはまずまずきびきびとしているようであったが、彼の頭はやはり別のことで占められている。

 話すことだけ話して、ゆっくりと立ち去った〈クラウン〉と、彼の口から出た恐るべき出来事。夢の如き、現実感の無さに、彼はどこか上の空となってしまっている。心中では、身体極まった、と言ってもいい。身も心も疲れきっている。

 まさか、そこまで王宮が魔物の巣窟とは思っていなかった。仮にも悪がまかり通るということがあるだなんて、信じたくもなかった。アレスタ神父が黙認しているとは信じ難かった。次に会うときがあれば、どんな顔をすればいいのだろう。

 王宮が巨大な機械であるとすれば、その中の小さな歯車でしかないアレクセイたち聖職者は、その働きを歪めることさえできないということなのだ。そう思えば、組み込まれる己は、大層ちっぽけなものだ。

 彼は、修道院が懐かしかった。辺境の岩山にそびえる古き修道院と、そこで営まれる敬虔な生活の素晴らしさを。充実した日々は、あそこにこそあったのだ。

「お、あれ、見てみろよ!」

 近くの男がそう言いながら、上に指さしたのが始まりだった。続々とその場にいた行きずりの人々が空を振り仰ぎ、たまらず叫んだ。

「ああ! 〈黒鴉〉じゃねえか!」

「本当だ! 俺ははじめて見たぜ。あんなに器用に屋根を走ってまあ」

「どこへ行くんだろうなあ」

「もちろん、誰か助けにいくに決まっている」

「わが町の英雄ってか! がははは」

 陽気に肩を組む者や、祝いだとばかりにジョッキを合わせる者、ステップ踏む者、大笑いする者様々である。一様に感じるのは、〈黒鴉〉への好意的な感情であった。

「〈黒鴉〉……」

 アレクセイの眼はつぶやきながら、名高き怪人を追っている。颯爽と人々の前に表れ、地上の人々には気にも止めないで、無辜の人を助けに赴く。行動に迷うことはないのだろう。

 風の噂で聞いていただけで、本物を見るのは、これが初めてであった。

 やがて、〈黒鴉〉は人々の前から去った。だが、去っても彼の話題がやむことはない。嬉しそうに今の目撃談を周囲と語り合っている。

 彼も、ほうっと息を吐いた。心にのしかかっていた重さが、軽くなっていく。

 弱い者を見捨てない正義の味方の存在は、どうしてここまで胸を高鳴らせるのだろう。久方ぶりにこみ上げてきたのは、わくわくと心が浮き足立った感情だった。

 彼は今晩、どんな活躍を見せるのだろう。どんな武勇伝を打ち立てていくのだろう。それも、夜警の見張りの目をかいくぐりながら。

 見知らぬ怪人に思いを馳せながら、少しだけ安らいだ心地でその道を下っていったのである。




 クレーエキッツェ市内の舗装された道を、馬車はひた走る。

 少しばかり急いでいた。なぜならば、思ったよりも王宮を出た時間が遅くなってしまったから。

 王宮は一見してそうは見えないが、厳戒態勢に置かれていたのだ。馬車が通る通用門は、衛兵の厳しい監視に置かれていて、通るにも細々とした手続きを経なくてはならなかった。入る者には寛容だが、出て行く者には厳重にチェックを行っている。

 わずらわしかったものの、どうにか門をくぐり抜けて、駅近くの宿へと向かっている。そこで一泊し、明日朝一番の列車に乗らなくてはならない。

 夜道を女一人で行くのは不安であったが、時刻表も約束の日時もずらせないから仕方が無かった。

 オレリーは馬車の箱の中で俯きながら、馬車の発する耳障りな雑音を聞き流していた。もう随分長いこと。地理には詳しくないが、もう着いていてもおかしくはないのではなかろうか。クレーエキッツェ中央駅は、さほど郊外から離れていないはずで、つまりは宿屋がそこまで遠くはないのだ。

 おそるおそる小さなカーテンを開いて外を覗くが、ガス灯もない、まったくの暗闇で自分がどこにいるかもわからなかった。ここで放り出されたところで、きっと迷子になってしまう。

 いや、御者はしっかりと馬車を操っているのだから、これは過ぎた心配なのだ。馬車に乗っていて、さらに王宮から御者を手配してもらってまでいて、そんなこと。

 ごとごとと馬車は揺れ続けている。軽快に走りを続けているうちは大丈夫。そんなことを思ってひとまずほっとした瞬間、馬車が大きく揺れて止まる。

 無遠慮に扉が開けられる。ぬっと顔を出したのは、のっぺらな顔をしている御者だった。ランプで照らされた光の中で、彼は深刻そうな顔で頭を下げる。

「申し訳ございません。お嬢様」

 彼が再び顔を上げたとき、にやりと下卑た笑みを浮かべている。

「次の〈真に魔術を愛する同好の士〉の犠牲者は、あなたになられたようです」

「え……何を、言っているの?」

 本能で後ずさりしても、あっという間に男に引きずり出される。案の定、まったく人通りのない、見知らぬ路地に馬車が止められていたようだった。

「や、やめてっ」

 あちらこちらに体をぶつけながら、彼女は懸命に抗った。だが、所詮女の力で、他にもいた数人の仲間たちに羽交い締めにされてしまう。

 一人の男が憐れむような声を出す。

「あんたも不幸な女だよなあ。〈クラウン〉のご指名付きだもんな。どう考えても逃げられねえ。いつものように適当に、だったらあんたも助かったかもしんねえ」

「く、クラウンっ? そんな人、知らない!」

「あんたみたいな小娘が知っているほうがおかしいさ。知らないままでいたほうがよかったろうな。死ぬ前に一つ教えてやる。あんたに来た手紙は偽物だ。巧妙に細工させてもらったよ。字がそっくりだっただろ?」

 さあ、とオレリーの顔から血の気が引いていく。ならば、手紙が偽物だったなら。父の手配したという宿屋も、存在しない。王宮に別れを告げてしまえば、誰かがよほどのおせっかいをやいて、実家に問い合わせでもしない限り、オレリーが失踪したという発覚自体が遅くなる。わかったときには、彼女はもう。

 かたかたと彼女は歯まで震わせて、何もいうことができなかった。声を出して助けを呼んでも、誰かが来る前に彼女の口に猿轡を噛ませてしまう。

 何もできないで、彼女は死を待つことになる。

「本当は、儀式の中断ということも有り得たんだけれどなあ。でもまた、すぐにやりたいと言い出す輩が出るはずだ、とマルセルさまおっしゃっていたよなあ」

「ああ、お前、親切にも教えすぎだ、馬鹿やろう!」

 男たちのそんな会話が頭の中で飛び交うが、オレリーは逃げることもできないでいる。

 目の前には別の馬車があった。足取りを追われないようにするためだろう。王宮から出した馬車は、ひどく目立つのだ。

 いつしか祈るように彼女は目を瞑っている。誰か、彼女に気付いて欲しい。そう例えば、クレーエキッツェの空を舞う、あの怪人〈黒鴉〉がいたのなら――

 ふと頬に風を感じた。視線を巡らせると、うっすらと見える視界の中で、横にいた男が倒れている。その代わり、彼が立っていた場所には。

「ごきげんよう、お嬢さん」

 暗闇でもわかる白い仮面。口元が緩んでいるのだとわかる声色。紳士的な口調。日報に載っている内容そのものの、怪人〈黒鴉〉が夢の残滓のようにそこに立っている。

「どうぞ、こちらのカンテラをお使いください」

 彼は彼女の猿轡を外し、自分の持っているカンテラをオレリーに握らせた。

「あ、あの、ありがとうございます……」

 彼は大柄だった。振り仰ぐようにして、お礼を言う。

「いや、僕は大したことはしていないよ。ちょっと近くにいた夜警の人から借りてきたものだからね。むしろ僕は君に悪かったと思っている。君が狙われたのは、僕のせいだろうからね」

 紳士的な口調が、やや幼くなった。どこか優しげにオレリーを見下ろしている。

 よく見れば、白い仮面から見える瞳は黒。そして、シルクハットから零れる髪もまた黒かった。オレリーは、この人を知っているのではなかろうか。天啓にうたれたようにこぼれてきそうになるその名を口にする前に、〈黒鴉〉が続ける。

「早く行くといい。この道をすぐ左に行けば、大きな酒場がある。その辺りまでいけば、ひとまず安全だから。朝になれば王宮から人を呼んだりもできる。さ、行って」

 とん、と背中を押される。

 そうだ、行かなければ。〈黒鴉〉の足元で伸びている男たちが起き上がってくる前に。

 少しだけ駆け出して、彼女は後ろ髪引かれるように〈黒鴉〉を見た。

「あ、あの……」

「僕は君を知っている」

 彼女は〈黒鴉〉を凝視した。〈黒鴉〉は静かに告げる。

「王宮の猫たちの世話をしてくれてありがとう。彼らも、そして僕もいつも君に感謝している」

 その言葉にもう一度背を押され、彼女はドレスの裾をつまんで駆け出していた。

 次々に思い出されるのは、幾度も繰り返される言葉たち。

 僕は君を知っている。

 ありがとう。

 感謝している。

 こんなことがあるなんて、信じられなかった。自分の想いが報われていたなんて。カロ王子が、彼女に向かい合ってくれた。

 走っている彼女の頬につう、と涙が伝っていく。これは、嬉し涙。あまりの幸運に恵まれた自分へ流す涙だった。




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