彼は怪人〈黒鴉〉
クレーエキッツェでは、昼は〈猫〉、夜は〈鴉〉が守護しているのだと伝説は語っている。しかし、よく考えてみればそれは変ではなかろうか。〈猫〉は本来夜行性であり、一方で〈鴉〉は昼行性である。おかしな話だ。けれど、伝説の矛盾を解消するように、こんな文言も伝わっている。
――クレーエキッツェを〈猫〉と〈鴉〉に与えたとき、神はもう一つだけ条件を出した。お互いがお互いの領分を守ることはもちろん、この二つの力が再び過剰となって、都市を滅ぼしたりできぬよう、互いの活動時間帯を逆転させたものを己の領域とせよ、と。
こうしてクレーエキッツェは、〈鴉〉と〈猫〉をその名に頂きながら、今日まで繁栄を保ってきたのである。
そして、午後九時。一人の大柄な男が、黒い紳士服に、黒い光沢を持ったマントを身につけている。そして、黒いシルクハットを乗せ、黒く輝く石を胸ポケットに入れる。仕上げには顔の上半分を覆うほどの白い仮面をつけた。最後に黒い短銃をズボンに忍ばせる。
誰も知らない屋根裏にある小部屋。この場所こそが、彼の隠れ家である。
この男の名は、〈黒鴉〉という。クレーエキッツェを守る〈鴉〉を連想させる名前にふさわしく、大勢の人々を救ってきた。とくに子どもと、女性である。これは彼のポリシーだった。いや、救えなかった人への贖罪なのかもしれない。
彼は立ってすれすれに当たる位置にある窓をスライドさせた。今晩は曇天で、月は見えない。勢いをつけて、窓から外に出た。
出てみれば、冷たい風がぱたぱたとマントをひらめかせている。シルクハットが落ちぬよう、彼はツバを押さえて、ぐいと目深にかぶった。
彼がいたのはとある巨大な建物の屋根であった。
空を仰ぎ、鼻を蠢かしてから、〈黒鴉〉は苦々しげな口調でごちる。
「今晩はやはり、雨になりそうだな」
今度は眼下を見る。だだっ広い黒の中に、ぽかりぽかりと光を放っているものがあった。小さなものは街灯で、もっと小さなものは夜警のカンテラ。そして、一際大きなものは今晩行われる夜会のものだろう。
なんの感慨もない様子で、彼はとん、と勢いをつけて、屋根を駆けていく。まるで重力など感じていないように、近くの建物や、木へと乗り移っていく。そのさまは、優雅な空中遊歩のようであったし、水中を歩くのと似ている。
凄まじい跳躍力を見せながら、彼はひっそりと誰にも見つからぬように、人気のない屋根を伝っていく。そして、彼はクレーエキッツェへと降り立った。振り返れば、大きな壁に囲まれた王宮が見える。ところどころについた照明が、白い壁を照らしている。おそらくあの奥ぐらいに国立図書館があったはず。そしてさらに奥には黄色の壁をした本館や、あまたの離宮があるはずだ。
彼は回想を断ち切って、手で筒を作ったものを口に当てて、カア、と鳥の鳴き真似をした。
「カア、カア、カア」
するとばさばさと羽ばたきの音がして、一羽の鴉が彼の肩に止まった。
「どうだい、様子は?」
彼の問いかけに黒い鴉が啼いてみせた。それに応えるように彼も相槌を打つ。
「ふうん。そう。今日はそんな感じか。なら、いいよ。他に用事ができなくて、僕も助かる。できれば今晩中に決着をつけておきたいんだ。さ、もう少しあいつの様子を探っておいで」
「カア」
一啼きすると、黒い鴉は再び闇に消えた。
「じゃあ、そろそろ〈黒鴉〉も行こうか。夜のクレーエキッツェへ」
仮面の下の〈黒鴉〉の表情は誰も知らない。本人でさえわかっていない。素顔と仮面、どちらも彼自身であったために。ただ、彼は己に持ち得た権利を行使し続けているのだ。
思い出されるのは、暗い雨の夜の出来事だ。惨めたらしく町の路地で泣いている自分の姿。そしてそんな彼を覗き込んだ〈黒羽〉を名乗った男。彼は語る。
――失ったものは、取り戻せはしない。でも、失われそうになっているものを守ることはできる。あなたが望まれるなら、その仮面と名、そして力を差し上げます。
すべては〈彼〉から託されたバトンの意志と石によって、ここまで来た。
〈彼〉の意志はこの胸の奥に、〈彼〉の石は胸ポケットにある。〈黒鴉〉のときのお守りとして、ずっと身につけている。どうか今宵も無事であるように祈る。
彼の正体は決してバレてはならない。バレてならないのを知っていても夜の町を駆けてしまうのは、彼を望む声があったことと、そうしなくてはならないという切迫感のためである。
彼は、もう体中が傷ついた姉を為すすべもなく見守ることには耐えられなかった。こうしていることで、姉をもっと心配させる結果になったとしても、彼は何度だって〈黒鴉〉になる。
「ごめん、クリスタ」
カロは、何も知らない姉に心中で謝る。それから吹っ切ったように、向かいの建物の屋根へと飛んだのだった。




