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神父に悪魔は囁く

 同時刻。アレクセイは心が晴れぬまま、帰路につく。兄の部屋から出たあとを追いかけてきた秘書のピンシェールが、気を利かせて通用門まで送ることを申し出たが、そのような気分でもないので断った。

 広いとはいえ、さして迷わないだろうと見通してのことである。だが、それが甘いことを思い知らされた。常ならば、決してしない判断である。本館に入ったときもそうだが、今日はずいぶんと調子を狂わせられている日のようだ。

 行きに通った記憶におぼろげな道をたどっていくが、合っているかは半信半疑である。やはり、見回りの衛兵に聞いてもよいかもしれない。

 ただ、夜会の警備にかかりきりになっていないとよいのだが。

 そうこうしているうちに、気になる人影が見えた。ガス灯の下で、佇んでいる。

 それは世にも醜悪な老人であった。背を曲げて杖をつき、それでもなお、アレクセイを見ている。黄色い不揃いな歯がにやりと不敵そうに垣間見える。

 また一方で、老人は隻眼だった。使い物にならない目は、ひしゃげて、顔の造りをさらに歪めている。ざんばらな白髪と、小汚い服装。それだけなら、アレクセイだって、修道院の保護下にあった老人たちで慣れている。

 彼らに独特の、獣じみた本性の露呈が、この老人には見当たらない。むしろ、知性ある別の生き物が仮の姿をとっているように、とても歪であった。

 そもそも、どうしてこのような時刻、王宮という場所で出会えるというのだろう。アレクセイはそっと息を詰めた。けれど、彼は聖職者だ。このようなことで臆してはならないのだと気を持ち直し、彼は老人に歩み寄った。

「そこで何をなさっているのですか、ご老人」

 老人は奇妙に首を傾けながら、アレクセイを見上げた。ぞっとするほどに酷薄そうな瞳に出会う。非力な老人がどうしてこのような目を持ち得たのか、アレクセイにはわからなかった。その力は、いったいどこから裏打ちされているのだろう。

「君の顔を一度見ておきたいと思っていてね。アレスタ神父の後継者になるはずの、アレクセイ神父」

 老人から信じられないほど不幸に満ちた重苦しいしゃがれ声が響いてくる。

「僕をご存知のようですね」

 何もおかしなことはない。アレクセイが今日王宮にいたことは、おそらくすでに広まっているのだ。黒い神父服に正十字のネックレスを下げていれば、聖職者であることはすぐに知れる。それでも老人の異様な風体に気圧されてしまって、警戒心が働いてしまっていた。

「宮廷の噂でわしの耳に入ってこないことはない。どんなことでも、わしは知ることができる。ただ、君も訪問するタイミングが悪い。今、王宮を席巻するのは、見目麗しい神父の話題ではない。王宮に起きた惨事のことだ」

「惨事、ですか?」

 アレクセイは首を捻る。心当たりがないわけでもなかった。どことなく、夕方は昼前よりも空気がそわそわして落ち着かないように感じていたのだ。しかし、それは慣れぬところに来たためであって、気のせいだと片付けてしまっていたのである。

 老人がねじれた唇をさらにねじれさせる。

「王宮での殺人」

 は、とアレクセイが呆れたように息を吐こうとするが、すぐに嘘ではない、と気づくことになる。老人は本気で言っているのだ。

「衛兵にでも聞けばわかるだろう。一人の小姓が、首を切られた遺体となって見つかった。犯人は今、衛兵が血眼になって探している」

 こんな身近なところでそのようなことが起きていたとは。彼は身震いして、老人に向き直った。

「そのようなこと、はじめて知りました。お恥ずかしい話ですが」

 もうすでに兄は知っていたと考えていいだろう。好き好んで話す話題でもないので、仕方がないが。アレクセイは胸の前で正十字をきった。

「早く犯人が見つかることを祈ります」

「神に?」

 当たり前です、とアレクセイは言いかける。だが、さらにそれを遮られた。

「神に祈るまでもない。殺人をおかしたのは、ハッセルブルク大公令嬢だ」

「なっ」

「令嬢は〈魔術〉に傾倒していたんだね。父親は必死でひた隠しにしていたようだがね、こんな王宮ではどんな秘密を露になる。知る人ぞ知る秘密になっていたわけさ。だから、彼女は、〈魔術クラブ〉の特別会員であることは有力視されていた。事実、正解さ。〈魔術〉の成功のために、何人もの女を殺している。今回のことは、彼女の暴走だがね。自分に従順で裏切らない完璧な人形を作り上げようとした。あの女は、自分が〈魔女〉になろうとしたのさ。愚かしいだろう?」

 この老人は何を言っているのだろう。アレクセイに理解できぬことを口走っている。とうてい信じられぬことを、知ってしまったところで別の疑問が出てくるようなことを話している。その別の疑問とはこうだ。――どうして、目の前のみすぼらしい老人が知り得たのだろうか。それをなぜアレクセイに話しているのだろうか、と。

「人形を作り上げることが、惨たらしい遺体を作ることにどうしてなるのでしょう?」

 口から溢れたのは、本当に尋ねたいことから、一歩も二歩も離れたところにあることだった。

「さて、それはわしにもわからんな。そもそもが〈魔術師〉の一族以外に人間で〈魔術〉など使えないというのに」

 老人は一度、アレクセイを突き放しておきながら、付け加えるように優しさを含んでいると錯覚するような猫なで声で告げる。

「ただ、魔術書によると人形の中にある生きた個人の魂を入れて動かすには、まずその者の首を人形の胴体に繋げておいて、新たな器になじませなければならないのだという。やがて魂が完全に馴染んだら、首をも人形のものにする。こういう手順を踏まなくてはならないらしい。女の柔い腕では大変だったろうな。首の骨を切断するのは、実際骨が折れそうになる」

「そう、でしょうとも」

 老人に動く気配はない。だが、すでにアレクセイは捕食する肉食動物を前にしているように慄いている。老人が一歩でもこちらへ歩みを進めた瞬間、彼は一目散に逃げ出すだろうと推測されるほどには参っている。

 アレクセイは、慎重に慎重を重ねて、頷いてみせた。

「こうまでなってしまうと、〈魔術クラブ〉はもう、歯止めが利かなくなるだろう。大公令嬢が特別会員なのはやがて知れ渡る。すると芋づる式に〈魔術クラブ〉に加わっていた王宮の要人たちが捕まっていく。王宮は収集がつかないほどの大混乱に陥るのさ。もしかしたら、レジスタンスなどの動きも活発になってくるかもしれない。そうなると君の兄のロワイユ総監がいくら有能と言えど、こればかりはどうにもならない。そもそも彼はすでに王宮の財政危機に対処するだけで精一杯だ。彼が倒れれば、彼が守っていた防波堤は決壊する。いいさ、彼は悪くない。愛人と二人でどこへなりとも亡命すればいい。君のいる教会だって、異端裁判を執行することになるだろう。それまでアレスタ神父が生きていれば彼が、そうでなければ、君が証言台に立つことになる。教会の歴史にまた一つ重大事件が記憶される」

 老人は、アレクセイとロワイユ総監との関係も、愛人との関係も知っていた。〈魔術クラブ〉のことにもよく通じているようでもある。

「しかし、〈魔術クラブ〉のメンバーが全員わかるとは思えません」

「ああ、それは問題ないとも。なぜなら、名簿が見つかるのでね」

 老人の口調は確信に満ちている。そうなることがもうすでに決まっているかのように。それはそうだろう。その老人がそうすると決めているのだから。

 そうとなれば、アレクセイは相手をこう呼ぶべきなのだろうか。――〈クラウン〉、という名で。

 背筋が寒くなる。夜風が彼の身を冷やしていくばかりではなかった。

「では、あなたは。私にどうして欲しいというのです?」

 これは教会での罪の告白のようであった。これまでとこれから犯す罪を聖職者に告白する。形だけはこの上もなく似ている。

「まさか」

 老人はにたにた笑っている。

「わしは、アレスタ神父のようにただ傍観しろと言っておる。神の名を掲げる心根の清らかな聖職者たちがなすすべもなく見守るしかないことがある、ということを思い知ればいいのさ」

「あ、アレスタ神父もご存知だったのですか!」

「薄々は感じ取っているはずさ。わしが裏におることも、半ばわかっている。でも口出ししてもどうにもならないから、口を噤んでいる。死を待つばかりの身の上だ。可哀想に」

 確かにきっとアレクセイも沈黙を守るしかないのだろう。ことが大きすぎて、どうにもならない。そして、誰かが罰されたとしても、それは自業自得で、弁解の余地もない。もしも、老人がいうような大混乱があれば、あるいは国一つを左右しかねない。

 この国は現在とてつもない大発展を遂げている。アレクセイが行きに使った列車を初め、生活を大きく変えるものに溢れている。それに合わせて、社会も変わっていくだろう。様相が変わるということは、内部にも変化が現れる。旧態然とした王宮では、たちうちできない流れに投じることにもなりかねない。万が一にも、革命などが起きてしまったら。

 この国を支配していた身分制度が根底からひっくり返される。中心となるのは、工場経営や大農場を成功させた中産階級の人々になるだろう。そうだ、もうすでに革命の〈土壌〉は出来上がっている。

彼にできたのは、この悪魔の化身のような老人を呆然と見つめることである。この老い先短い老人が、まさか国を壊しかねない重犯罪に手を染めているとは思うまい。悪魔に魅入られたとしたって、こんなだいそれたことを考えるだろうか。

「あなたは……一体誰なのですか」

 老人は嗤い続けている。

「別に何者でもないね。どぶに生まれて、どぶに沈んでいるただのねずみさ。そして、悪魔に身を売った、名も無き画家、だった男じゃないかね」



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