王子と王女の夜
今晩は夜会のために人手が足りない。夕食の配膳係も足りなくて、夜会に参加しないカロの夕食の席についたのは、フェルメール侍女長直々であった。
燭台の蝋燭が揺れる中、カロはぱくりと大きく切り分けた肉を頬張った。
「うん、美味しい」
「殿下」
侍女長がすっと視線を送る。カロは肉とともに彼女の意図も飲み込んだ。慌てて咀嚼し、次に切る肉はもっと小さくする。
ちらと侍女長が頷くのを確認して、ほっと息をつく。
かちゃかちゃと食器同士が触れる音ばかりが小さな食堂に響く。カロはすぐに耐え切れなくなって、後ろに控える侍女長との会話を試みた。
「なんかさあ」
「いかがなされましたか、殿下」
「いや。フェルメールは侍女長なんだからさ、えーと、そのう、クリスタのところに行った方がいいんじゃないかな。あと、ほら、ホルテンシュタイン夫人とか。たまにあの人のところに通っているし」
おそるおそるカロが侍女長を顧みる。見透かすような灰色の目とばっちり合ってしまった。
「殿下。ご心配は無用です」
感情がにじみ出ないような声で、あっさりと却下されてしまった。
「クリスタさまやホルテンシュタイン夫人には、他の者をつけております。今晩は皇太子殿下から、カロ王子殿下のお世話をするように特別に言いつけられておりますので」
カロの眉間にぴくりぴくりと皺が寄る。
「……ジョルジュ、今日は結構根に持っているみたいだ。しまったな」
今日も今日とて、兄の機嫌を損ねることしかしていない気がする。今更ながら悔やまれることが多すぎた。
「ちゃんと宿題をやっておこう……。明日こそはちゃんとしよう。うん、そうしよう」
カロはしっかりと自分に言い聞かせながら、目の前の空の杯に葡萄酒が満たされていくのを眺めている。
すると、後ろでくす、と侍女長が珍しくも、やや砕けたように笑っているのが聞こえる。
「何か面白いことがあったの、フェルメール?」
「いいえ、〈坊ちゃん〉。ただ、昔から同じようなことをおっしゃられていたことを思い出してしまっただけですよ」
「それって、僕が進歩していないってことじゃないか」
「大変素直でよろしいということです、〈坊ちゃん〉」
昔の呼び名まで持ち出したフェルメール侍女長は慇懃にこう言い、ますますカロの機嫌は斜め上になっていく。だが、それはどこか子供のように拗ねている、というような可愛らしいところに留まっている。
カロは葡萄酒を一息で飲み干した。がしがしとどこか乱暴に頭を掻きながら、言い含めるように侍女長にこういうのだ。
「僕だって、少しは大人になっているんだけれどな、フェルメール」
夜会はガラスの輝きを幾度も反射しながら、輝いている。
一、二、三.一、二、三.
単調なリズムと単調な音楽に身をゆだね続けるのは、耳にも身体にも毒だ。他のことに気を取られてしまう。
例えば、今肩がふれあいそうになった紳士。パートナーに熱心に話しかけているように見えるけれど、実際はその向こう側にいる女性が気になっている。あぁ、だから、相手の足を踏んでしまう。女性が男性の足をふむならともかく、男性が女性の足をふむのはいけない。エスコートしきれていないことになってしまう。ほら、踏まれた女性だって、にこやかな顔を保っているけれど、もう二度とダンスに応じないに違いない。腹いせのように、男性のつま先を蹴っている。顔に出さないだけましだけれど、あの女性のやっていることもあまりいただけない。すなわち、あの二人は似たもの同士、ダンスのパートナーとしてお似合いということ。
お次は、あの壁際にいる淑女。彼女は優雅にグラスを手にして、一見ただダンスの合間に唇を湿らせているように見える。けれど、内心は必死。ちらちらと紳士方がたむろしているところを見ては、誘ってくれないかしらと思っている。だって、彼女、今のところ誰にも誘われていないのだから。
でも、ご心配無用。彼女の背後で、二人の男性が牽制しあっている。きっと、彼女を誘いにやってくる。どちらが恋の勝利者になるかはわからないけれど。
「クリスタ。またか」
「あら、なに?」
呆れた声が上から降ってきて、彼女はゆっくりと意識を目の前の兄に向けた。その間にも、まるで機械のように、単調なステップを踏み続けている。くるくるとターンを繰り返す。蝶のように軽やかな歩調で、しかし恐るべき正確さでもって、彼女は兄と舞踏する。
皇太子の兄と、王女の妹。今回の夜会でも、もっとも注目を浴びる組み合わせである。ただし、お互いがほとんどお互いとしか踊らないために、見慣れた光景でもあった。ホルテンシュタイン夫人のように、蜜蜂のごとく大勢の紳士という名の華を飛び移るようなことはしない。だからこそ、お互いに慣れきってしまっていて、癖も十分すぎるほどにわかってしまう。
「またよそ見していたのだろう。何を考えていた?」
兄が囁くのに合わせ、彼女の声もごく小さなものになった。
「取るに足りない、暇つぶしよ、ジョルジュ。みんな、何を考えているのかしら、と考えていたの」
「目の前の私はまったく無視してか? まあいいが、他の誰かと踊るときはそんなことをしないでくれ」
「ジョルジュ以外の男性と踊ることなんて、そうそうないわ。それにあったとしても、そのときには調子を合わせるのに必死で、何かを考えている余裕はないもの」
「確かに」
クリスタが無言となって、しばらく沈黙が続いた。ふと口をついたようにクリスタが尋ねた。
「ね、今、何時だったかしら」
「ああ、先ほど見たときは、七時半だったな」
ジョルジュの言葉に彼女はふふ、と柔らかな笑みをこぼした。
「じゃあ、カロは何をしているのかしらね? 食事かしら、それともお風呂?」
「私はそれよりも、あの子が今日の宿題をちゃんとやってくるかが気になっているのだがな」
「やってくるんじゃなくて? やるときはやる子だもの」
「それはそうだが。クリスタ、お前からも言ってやってくれないか」
クリスタの青い瞳がふと陰る。そのまま伏せる。金色のけぶる睫毛が彼女の目を覆ってしまう。
「やめておくわ。……あまり言いすぎてしまうのは駄目。カロにとっては、命令になってしまうから」
兄が何か言いたげに口を開くが、言葉が出ることなく閉じられる。
曲が終わったのをきりに、踊りの輪から抜け出た。グラスを手に取り、兄が妹をエスコートしながら歩く。
周囲の騒がしさなど、二人にとっては雑音にもならなかった。互いの声しか聞こうとしていない。
「昼間はまだいいの。ただ、今日のような夜はいけないわ。……こんな、雨が降りそうな、月もない夜には」
ジョルジュの目が剣呑に細められた。妹を睨んでいるのではなく、ただ己の不甲斐なさを感じているのである。
「思い出すようなら、帰ってもいいぞ。我々にも、それぐらいの権利はある」
「それぐらいでわざわざ戻るわけにはいかないでしょう。私は大丈夫」
クリスタは己の身に降りかかった不幸な出来事に、もう泣いているだけの小娘ではないのだから。
こうして、王女は優美に夜会を渡り歩く。持って生まれた義務を果たすために。




