走る王子と休む総監
やはり朝の運動は大切だろう、とカロの兄はぜいぜいと息を切らしながらもどうにか言い終えた。カロはふわあと間抜けな欠伸を噛み殺しながら、軽快な走りを見せている。
「でも、ジョルジュには厳しい日課なのに。もうがむしゃらに走る年でもないでしょ。後が続かないじゃないか」
「私はそこまで、お、おじさんじゃない!」
開きそうになった距離をさらに詰めたジョルジュはカロの隣に並ぶ。汗が頬を伝い、金の髪は濡れていた。白い顔は熱を帯びて赤く染まっている。疲労は目に見えて溜まっており、すでに肩で息をしている始末。カロは走るのをやめた。
「別に馬鹿にしているわけじゃないよ。だって二十代のころのように体の無茶はきかないって聞くし。昨夜だって遅かったんだろ? 僕はぐっすり眠ってしまったけれど。ジョルジュが倒れてしまったら、僕にしわ寄せが来るんだから、もっと元気でいるべきだよ」
二人して歩きながら、庭園を横道に入る。木立が生い茂る林の中へと至った。
「だいぶ年の離れたお前に迷惑をかけるわけにはいかないじゃないか。だが、まあ、歩いてくれる方が楽だ。文化肌だとわかっていて、お前のペースについていくのは正直きつい」
ジョルジュは後ろを振り返って、遠く離れたところを歩く数人の護衛たちを見やってから元に戻す。
「私たちに振り回される彼らだって、お前の底なしの体力に朝から付き合わされる方がもっと大変だと思う」
「僕は頭を働かせるよりは、動いている方が好きだからね。ジョルジュが研究畑を選んだように、僕の将来は軍隊かもしれないね。すべては国王陛下の思し召しに任せるさ」
「いや、お前は事務能力をつけて、できれば私の補佐として国のために、おい、ちょ、待った!」
ぐんとカロの走りが早くなった。ジョルジュが止めようとも変わらない。後ろにいた護衛の一部が彼の横をすり抜けて、カロを追っていった。
弟の代わりに彼の近くにやってきたのは、侍従のアランである。
「お供いたします」
「そうか。では、ランニングは林をショートカットして、カロに追いつくつもりだから、よろしく頼む」
「かしこまりました」
ジョルジュは道を大幅に無視し、柔らかい土を踏み、林へ入る。すでにがたがたの身体に鞭打って弟を追いかけていった。
カロが、追いかける護衛よりも早く走り、ジョルジュがそれに追いつくべく近道に入ったそのとき、本館の一角で他のどの貴族よりも早くくつろぎの時間を迎えていた者がいる。
ロワイユ総監は国王への朝の謁見を済ませたあと、一杯の紅茶を嗜むのが常である。
彼の朝は午前五時より始まり、着替えと朝食をしてから細々とした書類に目を通し、八時きっかりに形式的な謁見をする。
小腹がすいたので、片手でビスケットを摘みながら、本日の日報をチェックする。
一面に躍り出ているのは、近頃巷で話題の黒い怪人である。その記事を含めて端から端まで一読する。ふと茶色の細目がある記事に留まった。
ふむ、と頬杖をつき、もう一度熟読する。空っぽになったビスケットの籠を取替えにきた侍従が興味深そうにちらちらと目をやってくるのを感じて、顔を上げる。
「おや、新顔かな。名は?」
「マルセルです。よろしくお願いいたします、旦那様」
育ちのよさそうな若者はそう言って綺麗なお辞儀をしてみせる。ロワイユ総監はわかったというように頷き、ひらひらと手を振って合図すると、彼はすすっと後ずさり、扉の向こうに消えていく。
彼は再びバルコニーに一人となり、ソーサーにカップを置く音だけが耳に残る。
日報に目を戻す。彼が気になっていた記事というのは、よくある貴族のゴシップである。そんなものはいつもなら軽く流せるものであったが、その当事者が自分の妹となれば放っておけなかった。日報で初めて知るというのも薄情に思えるが、最近は疎遠になっていたものを、どうして知ることができただろう。彼が知れば間違いなく止めたに違いないのだが。
「馬鹿なことをしたものだ」
数多の塵と同じ、下らない記事でも彼のため息の理由になるのに十分である。
日報を放り出し、バルコニーから書斎に入り、補佐を呼びつける。
「おい、ピンシェール! 仕事を持ってこい、すぐに取り掛かる!」
扉の向こうから重い紙が落ちるような音がいくつも重なった。
すべての書類を取り集めた部下が書斎の扉を叩くまであと少し――。
カロが自分のペースで本館まで戻ってきたとき、ジョルジュが一足先にその前に立っていた。
「遅い、とか言わないでしょうね、兄さん」
「言い訳はしない。だが、毎回毎回おいておかれると、悪知恵も働くようにもなる」
ジョルジュをわざとらしく兄、と呼んだことに気づいたらしく、ジョルジュの顔はますます苦くなっていった。
「そうなんだ。じゃあ、またこちらに朝食を準備させておくよ。着替えてくるんでしょ?」
「ああ、そうするとも。言っておくが、今日は、逃げるな」
カロはぷいと顔を逸らして、入口の階段を上っていく。
「返事ぐらいはしろ、カロ!」
「善処しているよ、いつも」
互いの部屋の近くまでいつものような軽い口論を繰り返しながら行く。途中で兄と別れ、自分の部屋にたどり着く。
濡れたタオルで自分の身体を拭き、ぱりっとしたシャツとズボンに着替える。
居間に戻ってくると、兄がちょうど入ってくるところに出くわした。配膳車を押して入ってくる。
兄はいつものように侍女を帰してしまったのだろう。給仕はいないが、内輪の席なので礼儀に厳しい兄も妥協している。
席についたカロはバスケットに入ったパンを切って、適当にバターを塗って、口に放り込む。
「口を大きく開けすぎているぞ、カロ。もう少し上品にできないのか。公式の場でもそのようなことをするつもりではないだろう?」
カロはむっと不機嫌そうな表情をして、心底つまらなそうにこう言った。
「ジョルジュはいつも叱ってばかりだね。この後も一緒にいなくちゃいけないのに、これでは憂鬱」
「お前に恥ずかしい思いをさせたくないという兄心だ」
ジョルジュは親指と人差し指でパンを小さくちぎる。小さく口を開けて、静かに咀嚼する。
典型的なテーブルマナーを見せられたカロは揶揄するように、
「親心の間違いじゃないの」
と、笑う。
ゆで卵とベーコン、チーズ、サラダなどという健康的な朝食を腹に収めると、カロがベッドから垂れ下がる呼び鈴の紐を引いて、侍女を呼び寄せる。
まもなく現れたフェルメール侍女長に配膳車を託した。
扉がぱたりと閉まる。ジョルジュはカロを振り返った。学者らしい神経質な面持ちとなった彼は、つかつかと続き間に行き、マホガニーの大きな机を指で弾いた。
「さて、勉強の時間だ、カロ」
兄は暇に違いない、とカロは半ば思っている。彼が思うより、皇太子という職務は案外暇なのかもしれなかった。そうでなければ、弟王子の教育に自ら乗り出すということもあるまい。
「わかりましたよ、先生」
カロ王子は食事のテーブルからよろよろと立ち上がった。彼の疲労感はジョギング後の比ではない。