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鏡合わせの兄弟

 王宮地下の使用人の世界は、朝以上の喧騒に包まれている。会場に食事を運ぶ使用人たちがいて、招待客を中へ案内する使用人たちが出て行く。料理人たちは怒号を交えながら、追加の料理を皿に放り込む。食器や燭台を数え上げて上に持っていく者もいれば、たまにさぼろうとして上司に叱られる者もいる。

 もちろん、地上こそが騒がしい。使用人ばかりでなく、招待客がすでに会場にたむろする。最上位にあたるジョルジュ皇太子、クリスタ王女、ホルテンシュタイン夫人の到着はまだであるが、すでに楽士たちが演奏を開始して、客たちは思い思いにダンスに興じ、あるいは噂話に花を咲かせる。照明は明々と照らされて、本館以上に輝いている。

 少し薄暗く思えるような本館の廊下から、会場の離宮を一瞥したのは、アレクセイであった。

「派手にやっているものだな」

 そっけなく呟く。誰に聞かせたわけでもないのだが、彼を先導していた男が律儀に応えた。

「これでもまだ内輪のものです。国王陛下が出席なされたなら、これの比ではありません」

「これにほぼ毎回、兄上も参加なされているのか。大変なことだ。毎晩毎晩こうして贅沢をしている……。王宮の出費も馬鹿にならないだろう」

 二人は不自然に明るい一角を過ぎていった。

 人通りがない廊下の絨毯を踏みしめて、角を曲がる。他の部屋の扉より一回り大きな突き当たりの扉を、連れの男がノックする。

「入れ」

 扉向こうから身にしみ込むような深い声がして、アレクセイは部屋に踏み入れた。

 アレクセイの髪先が揺れる。大きく開け放たれた窓から夜風が忍び寄ってきたのだ。

 バルコニーへとつながる両開きの窓の前に、赤い火の玉が浮かんでいる。ついで、うっすらと白い靄が空へと吐き出されていく。

 夜に溶け込んでいた人影がすっと前に進み出て、ぼんやりと壁につけられていた照明の前、アレクセイに相対するように立った。

 巻きタバコの、独特の芳香が鼻につく。アレクセイは眉をひそめながら兄の顔を見た。

「ひどいざまですね。ロワイユ総監」

 彼は兄の腫れ上がった顔を揶揄するように口の端を上げた。

義姉上(あねうえ)にやられたのでしょう。あなたが女などにうつつをぬかしているから、そのようなことになるのです。辺境の修道院にも書簡が届きましたよ。あなたの実家と、婚家から」

「アレクセイか。随分と久しぶりだ。アレスタ神父から伝言を受け取ったようだな」

 タバコの火を机に置いたガラス皿でもみ消したロワイユ総監は彫像のごとく佇んでいる。

「ええ、受け取りましたよ。今晩は夜会に出席されないと聞きまして、こうして参上してきたというわけです。そこの」

 彼はふと背後のピンシェールを見やった。

「秘書に連れてきていただきましたよ。……偶然にも、あなたの愛人のところでお会いしたもので」

 ロワイユの表情がごくわずかな間、固まる。どうやら、この異母兄の関心を少なからず引いたらしい。

「あなたは何をしているのですか」

 アレクセイが責めるような強い口調になるというのも、女に溺れる兄というのが情けなくて見ていられないからである。

 彼のところに近頃ぞくぞくと届く書簡は、半分愚痴で、半分が憂さ晴らし、建前は兄の改心への説得を頼むものであった。立場が弱く、一方で人々を導く聖職者でもあったアレクセイは粛々と受け取るしかなかったが、内容から事情を鑑みることはできる。

 アンネマリー・ディートリヒ。ロワイユ総監の愛人の名もそれで知った。

「自分の別邸にあの方を閉じ込める気ですか。今まであなたは何一つ道を踏み外さなかったのに、今になってどうしてです? 恥も外聞もなくしては、あなたの地位は成り立たないというのに」

 噂はいまだ水面下にある。だがいつまで続くであろうか。貴婦人を離婚させ、自分の邸に住まわせてしまったら。

 アレクセイは兄を心配している。幼いアレクセイに援助の手を差し伸べたのは、若き日の誠実な兄だったのだから。

「地位があるからこそなのだ、アレクセイ。今の私には、アンネマリーを捕まえるだけの力がある。伯爵家も、家の財政を把握しつくしている私を手放せまい。後ろ暗い部分も知っているからな。…昔から決めていたことだ、いかに弟とは言え、文句は言わせん」

 兄は頑として譲らない。それこそ兄らしく。気が狂ったわけでもない。兄は昔の兄のままで、あの婦人を欲していたのだと思い知らされる。

 冷静沈着で頭が切れる兄も本当の兄だし、一人の女に執着心を抱く兄もまた真実なのだ。

 アレクセイは聖職者であった。彼が兄のためにできるのは、兄の理性と良心に訴えかけることしかない。たとえ、兄がそれらをすべて秤にかけた上で行動しているのだとしてもだ。

「あなたは私を弟と呼んでくださるのですね。愛人の子の私を」

 彼は静かに切り出した。

「でも、こんな立場だからこそ、私は兄上に言いたい。もしも、あなたと愛人との間に子供ができたらどうするのです? 私と同じように日陰になさるおつもりなのですか? あの哀れなご婦人を、鳥籠に閉じこめるのですか? あの婦人を私の母のようになさりたいのですか?」

「お前の母とアンネマリーは違う。お前の母は父の他に頼るものもなかった。手を放しても、逃げる心配などなかった。……アンネマリーは、この手で掴み続けなければ」

 ロワイユの視線が自ずと右手に向けられる。掌にまるで彼女の手があるかのごとく、力強く握りしめる。拳が震えている様をアレクセイは、悲しげな瞳で見つめる。

「するりと抜け出していってしまうのだ。私のことなど気にも留めずに、呆気なく。だが、結婚という形で縛り付けられぬ私に何が出来るのだ。せいぜい、持てる財力で着飾らせてやるぐらいだろう。アレクセイ、私はアンネマリーとの子どもが欲しい。子どもがいれば繋ぎ止められるかもしれないのだ」

「あなたは……どうかしている。一方通行の愛情を捧げても、あなたの欲しいものは手に入りません。あの方の意志はどうなるのです? あなたが積み上げてきたものはそんなに軽かったのですか」

「彼女は許してくれる」

「兄上」

「許してくれる。アレクセイ、この私を許せ」

 ロワイユはアレクセイを拒むように顔を逸らせた。

 アレクセイの言葉は届かない。

 人を救うのは人でしかないのだ――。〈神書〉の中の創世神話には、人の世を作った天使たちが己の手で創り出した人間に伝えた言葉がある。

 同じ人を救うための機能を持ったのが、教会で、修道会で、修道院でもあり、アレクセイたち聖職者だったというのに。血のつながった兄でさえ、善の道へと戻すこともできない。

 だから、世俗というのは嫌だ。神と対話するより何倍もままならない。自分の無力さばかり目の当たりにして、何も成し遂げられない。

 彼はあまりの悔しさに兄へと食ってかかった。

「それなら、どうして私を呼んだのですか。私は、こんな兄上に会いたくなかったというのに」

 ロワイユは唇を歪め、鋭いばかりの眼光を地に落とす。

「お前には私が愚かな男であるように映るだろう。お前は昔からずっと正しかった。だからこそ、私はお前に告白せずにはいられないのだ」

「私はあなたに許しを与えませんよ。教会の教えに反している」

 彼が即答すると、兄は緩慢に頷いた。

「それでいい」

 アレクセイには相手の意図が掴めなかった。ただただ憂慮の溜息を零す。

「私はもうお暇させていただきます。怪我の方、お大事になさってください」

「あぁ、また尋ねてきてくれ」

 アレクセイは扉をゆっくりと閉めた。

 名残惜しげに一瞥し、しかし、彼は足早にその場を立ち去った。兄から逃げるように。

 自分ではとうに家族との縁は薄れていたつもりだったが、やはりまだ囚われていたようである。少なくとも己が身内と決めていた人物には、思い入れが残る。まだたっぷりと世俗への未練が捨てきれない。このような状態で、どうしてアレスタ神父が言うような、何にも負けぬ強い心を持てるというのだろう。

 己で築き上げてきたものがぱらぱらと崩れ落ちていく音がする。いいや、元からあったのかもわからないものだったのだ。

 急き立てられるように駆けていた足が勢いを失っていく。彼は気づけば、情けなくうなだれている。もう、一歩も動けそうになかった。

 帰り道が、こんなに遠くあろうとは、思いもしなかったのだ。



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