夜会前に
しなやかな筋肉のついた長い足を、目一杯階段の端にかけながら、王宮本館の階層を駆け上がっていく。不審そうに彼を見やる視線など、彼がいま、気にかけることではない。気づくよりも前に彼の足は上へと向かっている。ひたすら上を見る、彼の顔は何やら差し迫ったものがあった。早く、早く、と体よりも早く心が疾走している。
目的の階に至ると、彼は夢中で赤い絨毯の上を走った。
彼の訪れに面食らった護衛が静止するのを止める間もなく、彼は両手で扉を勢いよく開け放った。
「ジョルジュ!」
彼が叫べば、兄は執務机で文字通り飛び上がった。
「お、おま、なんなのだ、カロ! 先触れくらいよこせ!」
「どうして! こっちにはそんな余裕はないよ! ね、ジョルジュなら知っているだろ? 何なんだ、〈黒鴉〉が人を殺したって。一体、どういう状況なのさ」
正面から掌を机の上に叩きつける。皇太子はびっくりしたように弟王子を見た。
カロの三白眼ぎみの黒い瞳に、真剣な色が宿っている。
ジョルジュは己を落ち着かせるように息を吐いた。
「ただの噂だろう。〈黒鴉〉の目撃談も確かじゃない。現場に駆けつけた衛兵が黒い影を見たというだけのことだ。それが勝手に〈黒鴉〉と結び付けられ、〈黒鴉〉が殺人を犯したのだ、というふうに話に尾ひれがついたのだ。まったく、こちらは夜会も控えているというのに、ますます王宮内を混乱させるようなことを」
「つまり?」
彼は食いつかんばかりに顔を寄せてくる弟の額をぱちん、と指で弾いた。痛い、とカロは一歩大きく下がる。
ジョルジュは腕を組み、弟に断言する。
「確たる証拠というものは存在しないということだ」
「そ、そうなの。ごめん」
カロは一度謝って、ややあってから、奇妙なことに出くわしたかのように首を傾げた。
「……ジョルジュ、さっきはさらりと言っていたけれど、まさか、こんな時にも夜会をやるの?」
「本当にそう思うよ。このような時にこそ警備を固めるべきだろうに、出席者にとってはお楽しみのほうが最優先らしい。だが、変に王宮が暗くなっても困るのだ」
そういう彼のほうが困ったような顔をして、弟を見上げる。カロも、兄の言いたいことがわかっていたから、黙っていた。
「王宮はいつでも何も起こっていないような顔をせねばならないのだ。これしきのことで、揺るがぬ、とな。見栄っ張りなのだ」
「ジョルジュが言うと、なんだか説得力があるよ」
カロはちょっと拗ねたように口を尖らせると、ジョルジュは、ふん、と自慢げに胸を張った。
「当たり前だろう、皇太子をやっているのだからな。それで」
彼はあくまで優しい兄の顔をしながら続けた。
「わざわざここまで来るほど余裕があるのなら、宿題は終わっているのだろうな?」
カロはそろそろと一歩、また一歩と下がる。
「ん? う~ん、いや?」
「カロ! 夜会に行かないのなら、今からでもさっさとやってこい。提出期限は伸ばしてやらないからな」
ジョルジュが声を荒らげたとき、やんわりと二人の間に入った者がいる。
「ジョルジュ」
彼は押し黙った。
「カロ」
逃げ出そうとしていたカロの足が止まる。
「クリスタ、いたんだ」
今まで影も形も見えなかった姉が、兄弟二人に挟まれるような格好で立っている。カロは驚いたような声を上げ、ジョルジュは少しだけ苦虫を噛み潰したような顔をする。
「今来たところなの。忙しいジョルジュが、わたしのエスコート役を忘れていないか心配になったものだから」
クリスタはにっこり笑った。
「心配は的中、ジョルジュは支度もしていないようだもの。来て正解だったわね」
ねえ、ジョルジュ。妹の咎めるような視線に耐えかねたジョルジュは、挙動不審に陥った。
「それは、確かに。頭から綺麗さっぱり抜けていた。すまない、クリスタ」
「そうね。一国の皇太子がそうそう約束を破ってはいけないものね。わたしもいけなかったわね、こうなることを見越して、お茶会のときにもう一度念を押しておけばよかったわ。はぁ、ジョルジュが抜けているのも、今更なことなのにね」
頬に手を当てて、困ったように首をかしげているクリスタはすでに夜会服に着替えていた。深い葡萄酒色のドレスにレースをシンプルにあしらったものだ。こういった夜会服だと胸や背中はぎりぎりまで開けるものだが、彼女は極力こういった露出を避けていた。髪も、首筋がくっきり見えるほどに結い上げたりなどしない。慎ましやかな王女。世間は彼女を評して、その貞淑さに太鼓判を押す。
だが、彼女は自らのイメージのためにそうしているわけではない。彼女だって、本当は同じ年頃の令嬢や夫人たちと同じく、夜会で華やかに踊る蝶々になりたかったろう。控えめではなく、才気煥発さによって社交界で光り輝く宝石にだって、なれたかもしれない。あるいは、恋だって……。
夜会の時、カロは自分が姉から奪い去ったものを思い出さずにはいられない。カロはクリスタが好きだが、夜会のときのクリスタを見ると、罪悪感で押しつぶされそうになる。普段は気にしないように蓋をしている深い穴から、思い出すべきものが、形を変えて彼に襲いかかってくる。
カロは兄のところに来たことを猛烈に後悔した。
姉は弟の心境を知る由もない。カロの前でゆっくりとターンをしてみせる。
「どう、カロ? 似合っているかしら?」
「うん。大丈夫。よく似合っているよ、クリスタ」
カロは笑う。ぎこちなさが残っていないか、彼は無性に気になった。
「ありがとう。今晩の夜会も無事に乗り切ってみせるわ。ねえ、ジョルジュ?」
「もちろんだとも」
ジョルジュは先ほどの妹の発言に衝撃を受けたように立ち尽くしていたが、クリスタの言葉に力強く頷いた。自信のため、というよりは半分意地なのかもしれない。
「私がついているのだ、兄として、妹をしっかりエスコートする」
「ええ、それこそしっかり、ね。汚名返上なさってね、ジョルジュ」
「するとも。悪いが少し待っていてくれ。準備してくる」
彼の背中がクローゼット部屋に消えると、ふう、とクリスタは頬を栗鼠のように膨らませてから吐く。
「カロ、今晩はジョルジュにエスコートしてもらうけれど、いつかはあなたもしてちょうだいね」
「僕がクリスタのエスコートをするのは、ちょっと荷が重いよ」
カロは黒髪をがしがしとかき揚げて、躊躇うようにいえば、クリスタは小さく笑む。その顔に微かな陰が差したように思ったのはカロの気のせいであろうか。まるで日陰にひっそりと咲く花であり、長く陽光に照らされたままではいられないのだ。
「そんな恐縮することもないでしょう? 家族の方が気楽だものね。カロがちゃんとできるかチェックしてあげる」
「だからこそ、おっかないんじゃないか」
クリスタがくすくす笑っていることにほっと胸をなでおろし、カロは兄の部屋を出た。
夜会の出席者はもうそろそろ本館に隣接する離宮に集まっているはずである。そのためか、廊下の人影はまばらであった。時折、夜会に出ると見える一層着飾った貴族たちが立ち止まって談笑している。
彼は、人々を無い者として通り抜けた。毅然と、あるいは颯爽として、規則正しい足音をさせながら。
壁に取り付けられた電灯が、あますところなく、とは言わないまでも、足元がもつれない程度には廊下を照らしている。金や銀の装飾や、インテリアの絵画や彫刻が、ガラスに収められた電気の明かりに不気味に反射する。
三白眼の黒い眼が、それらを映しては、ただただ過ぎ行く光景の中に置いていく。
衛兵、婦人、役人、使用人……。彼らも景色の中に埋没した。
カロは何も考えていなかった。ただ、無意識に自分の部屋に向かっているだけのこと。惰性でのみ動いている。
「カロ王子」
誰かが彼の名を呼んでいる。掠れた様な、重苦しい声である。
視線を遠くにやれば、そこには一人のぼろをまとった老人がぽつんと立つばかりであった。杖をつき、背中を丸め、こちらへゆっくりとやってくる。
カロはそのまま足を進めた。
二人が交差する一瞬、彼は老人に気まぐれな一瞥をくれたが、老人の方は何も気にしていない様子である。カロも特に何の関心をもたずに、再び正面を向く。
誰かが呼んだように聞こえたが、それは空耳だったのだろう、と彼は結論付けている。
だが、彼はこう呟かずにはいられない。
「もう、とうに尻尾は掴んでいるぞ、メジリアク」
カロの声が届いていたのなら、老人は立ち止まったのか、それとも何も知らぬふりをして過ぎていくばかりであるか。彼は見届けることなく、廊下から続く階段を下りていった。




