〈黒鴉〉
違うさ、と彼は腕に抱くものを見つめながら言った。
「どうして、〈黒鴉〉がそんなことをするっていうんだい? だろ、〈小さな王様〉」
にゃあ、と黒猫は返事をするように啼く。
「〈黒鴉〉はここにいる」
今度は、彼は腕を伸ばす。暗闇が差し迫った黄昏の中、林の中を滑空してきたものは、間違いなく彼の腕に止まった。一羽の鴉が王者たる堂々とした風格で翼を仕舞う。
カア、と一つ啼いてから、黒いつぶらな瞳で彼を見つめた。
「〈黒鴉〉は人を殺さない。いつだって、子供や女性の味方であるべきだ。……はるか昔と同じくね。君たちもそこまで心配そうにするんじゃない。大丈夫だ、すべて暴くから。さ、行け」
〈黒鴉〉が呼びかけたのは、腕に抱く猫であった。心得たように頭をもたげ、腕から滑り降りたら、あっという間にどこかへ行ってしまう。
次に彼が顔を向けたのは、黒い鴉である。
「これからは君の時間だ、〈黒鴉〉。ここはクレーエキッテェ、君たちの都市だ。夜を担う代わりに夜でも利く目を与えられたのだろ? 〈黒鴉〉が出向くまで、詳しいことを探っておいで」
〈黒鴉〉は腕を振ると、夜闇が迫る空へと黒い鴉は高く飛翔する。カア、カア、とどこからか仲間を引き連れて、彼らは町や王宮へと散らばっていく。
「あぁ、噂が広がっていく。〈黒鴉〉の知らぬところで。〈黒鴉〉はずっとここにいて動かなかったというのに、おかしなことだな」
聞こえもしない噂話を聞くように彼はそっと耳を澄ませた。町へ、王宮へ、夜へ。
昼の猫から夜の鴉へと、引き継がれた。
知らせは早馬のごとく王宮を駆け回っていく。誰彼構わず、王宮内で起きた凶報を耳にする。こうも早馬がお節介にも情報を撒き散らしていったのは、ごくごく当たり前の理由である。発見した庭師が恋人に話し、その恋人が、できたばかりの新鮮な話の種を周囲に配り歩いたのだ。
権力者が知るよりも早く知ってしまったために、この国家の中心たる王宮への侮辱とも取れるこの無残な事件の内容は、王宮中に撒き散らされることになり、隠しようもなくなった。
遣いに出したピンシェールの代わりに知らせを持ってきた新顔のマルセルが戸惑っているように口を濁らせる。
「いかがいたしましょうか、総監。誰か事態を収拾する者が必要だと思われますが……」
貴族の子弟らしく口にはしなくとも、ロワイユの顔を見る視線は雄弁に物を言う。
頬のミミズ腫れと赤く腫れた目元の痛々しいロワイユが、駄目だな、と呆気なく告げた。
「この顔ではとてもではないが、人前には出れまい。夜会にも出席できん。あいにくと、パートナーにも逃げられているのだ、やむを得まいよ」
猛々しい嵐は、最後に一つの旋風を残して去った。
ロワイユ伯爵夫人がひとしきり不満をロワイユの顔に刻みつけ、悔しそうに唇を噛み締めてから、部屋を出て行く。
――お前、わたくしが浮気したときも顔色一つ変えなかったわね。いらだたしい男だこと。死んでしまえばいいのに。
最後に、こんな安い三文芝居のようなセリフを吐き捨てたのだ。
だが、一番初めに彼に近づいたのは彼女だったはずだ。ロワイユから名字と愛しい女を奪ったのは彼女だったではないか。ロワイユを手に入れたのに、まだ、満足しないのだ。このような関係をまず望んだのは、間違いなく彼女であり、ロワイユ自身だったというのに。
――ええ、死んだほうがましでしょう。私にとってもエリーゼ様にとっても。
ロワイユは回想から醒める。つまらない感傷に浸ってしまった。
「ひとまずは衛兵隊長が現場の指揮を取ることになるだろう。しかし、このような案件は滅多にあるものではないから、助言を求めてくるかもしれないな」
少し考えてから、ロワイユは手近な便箋の上に羽ペンを走らせる。ややあってから、封筒に入れて、マルセルに差し出した。
「もしもそういうことがあれば、まず警察総監のヨスト卿を頼るように、と伝えておけ。これが彼の連絡先だ。殺人に関しては彼に一家言がある」
「かしこまりました。……あの、閣下。実は現場近くで〈黒鴉〉が目撃されたとかで、話が広がるうちに犯人は〈黒鴉〉であるという噂が流れております」
「ふむ、奇妙な話だ。〈黒鴉〉が出る時間帯にしては早いな。夕方だったら、目立って仕方がないだろう」
ロワイユが机の上で手を組む。目線は若者にひたりと据えられた。
どぎまぎした様子でマルセルは頷く。
「はい、それで少し気になってしまい。出過ぎた真似をいたしました」
「いいや? お前の言うことももっともだ。人を助ける〈黒鴉〉が死体の近くに出没したのだ。不自然の塊だろう。だがね、マルセル。これは我々の仕事ではない。……個人的にはそのような噂を信じる理屈はない。〈黒鴉〉が信念を曲げるようなことでもあったのか、はたまた、その〈黒鴉〉は〈黒鴉〉ではなかったのか」
ロワイユは、不可解そうな彼の顔をどことなく楽しげに見やった。
「偽物の〈黒鴉〉がこれみよがしに人々の前に現れた、ということだ」




