夜と女たち
クレーエキッツェにもかつては王都をぐるりと囲み込む城壁が存在した。夕方に城壁の上に走る小さな通路を横切った時、そこからは田園の遥か遠く、地面の稜線に沈み込む半円の夕陽が見えたという。もう永遠に見られぬ失われた景色である。
城壁が壊されて、王都は著しい人口流入を迎えた。きのこのように以前の城壁の外に次々と密集して家が建つ。鉄道が敷かれ、鉄の箱が唸り声を上げながら、別の都市とを結んでいった。
ぽっかりと見えた夕陽も、地面に届く前に建物に大きく遮られて、歪な形に取って変わる。産業という名の怪物が町のあり方も根こそぎ奪っていってしまった。彼に都合のいいように、まるで別の都市の顔をしながら作り替えられた。
しかし、その中でひっそりと沈黙を守っている旧世代の遺物が今も息づいている。時代の流れを見つめながら、灰の中に身を潜めている。
貴族たちの服装は百年も前から変わらない。百年前と同じように優雅に談笑するし、気に入った銘柄のワインを何十年も口にする。金に糸目もつけず、毎夜遊び呆けて帰らない。身を飾る宝飾品は、法外な値段でも美しくさえあれば貴婦人たちを釣り上げるには十分。
別の階級が紛れ込めば、誰もが気づく違和感を放つ。彼らはそそくさとそこを退散するしかない。そこは国の中心であるはずなのに、内実は同じ国民にも排他的である。
王宮。
今まさに黄昏時を迎え、夜へと衣替えをする中に、王宮は自身の持つ緑色の衣に影を落とす。黄色に塗られた壁もさらに深い色になっていく。〈彼〉の夜の装いは、貴族たちの身にまとう黒の装束とまるきり同じ。最後に王宮内を明々と照らす電灯が、装飾品のごとく散りばめられた。
黄昏の間のほんの刹那、王宮はこうして明から暗へと変貌する。闇が濃くなるとともに、地下に閉じ込められていたものが開放されていく。
歴史の残骸や、怪奇の物語、はたまた、暗躍する怪人も。枷が消え失せた夜のうちに、彼らは玩具箱から彷徨いでていくのだろう――。
夜会が始まるまでに時間がない。
オレリーたち、ホルテンシュタイン夫人付き侍女が夜会の準備をするわけではないけれど、夫人自身は出席する予定なのだから、あれやこれやと夫人のために準備が必要だ。もちろん、少しぐらい遅れることはマナーの一つ。今回の出席者から鑑みるに、ホルテンシュタイン夫人は国王の愛妾として、最後の方に登場しなければならない。
でも、それにしても、オレリーたちをひやひやさせるほどなのだから、困ってしまう。
「大公妃さま。素敵でしょう、このダリア。気になって、侍女を取りにやりましたら、思っていたよりも美しいものができておりましたわ。真紅のルビーのよう」
侍女たちの焦燥にも気づかない意地悪な女主人は、彼女と同じカウチに座るもう一人の貴婦人に微笑みかけている。
コルネリウス大公妃は、差し出された花束を受け取るものの、明らかに眉根を寄せていた。
「ええ、素敵。でも、夫人? そこまでご機嫌伺いをせずとも結構よ。わたくしは、どちらにも付く気はないわ。夫人と公妃、どちらかに肩入れすることは、陛下のご意志じゃない。二人が並び立つのがちょうどいい按配ということ。それと同様に、わたくしの中でも、夫人と公妃は並び立っている。どちらも、好きでも嫌いでもないということよ。巻き込まれて損をするのは嫌だわ」
「はい、おっしゃるとおりですわ。人の好意はこれしきのもので買えるほど安くはありませんもの」
夫人は気分を害した様子もなく、平然とした調子で返す。
「そうね」
大公妃は目線を下げて、手の中のダリアを見つめる。花弁を繊細な手つきでそっと撫でた。
「ならば、わたくしも花ばかりを受け取るわ。昔から綺麗なものは好きなのよ」
「存じておりますわ」
夫人が首を巡らせる。そこには、それぞれの侍女ばかりではなく、壁に掛けられたいくつもの絵画が存在していた。
〈睡蓮の間〉に照明が入れられるまであとわずか。それはぼんやりと暗みを帯びてきた景色でもあった。
二人の貴婦人は立ち上がる気配も見せず、先ほどからくつろいだ会話を繰り返していた。元はホルテンシュタイン夫人の気まぐれが原因だった。そろそろ準備を、というところで
赤いダリアを手土産に大公妃を尋ねると告げたのだった。大公妃も機嫌が良かったためか、
常に良くも悪くも不干渉を貫いていた二人が会うことになり、思ったよりも話が弾んでい
るようだった。
この様子では埒があかない。そう思ったのはオレリーばかりではないだろう。
彼女に至っては、帰郷するため、今日の夜に王宮を出なければならないのだ。馬車の手配はしているが、約束の時間がある。荷造りだって、最後の仕上げが待っている。
女主人の準備まで見届けたかったが、そういうわけにもいかないようである。
「美しいものも好きなのよ。今日見ていたこの絵。綺麗ではないけれど……美しくて優しい情景だわ。題名が〈忘却〉。アカデミーに所属するバルテスの絵画」
酒場で男たちが酒を飲み交わす、という壁一面を覆った風俗的な絵を手で指し示しながら、コルネリウス大公妃は自らもうっとりと見つめている。
「ええ、わたくしも絵には疎いですが、どこか、懐かしいものを感じます」
夫人が見つめるのに釣られて、オレリーも眺めてみた。しかし、平凡な風景であるな、と思うほか特別何か感ずるものはなかった。わずかに首をかしげながら、絵を凝視し続ける。
「それで、夫人」
大公妃の声色が変わる。
「あなたが〈睡蓮の間〉に来たということは、何か気がかりなことがあるの?」
「ございます」
間髪挟まず夫人は答える。「実は公妃のことで気になる言動がございまして。少しお耳を」
扇で口元を隠しながら、夫人はそっと大公妃に耳打ちした。夫人が言葉を重ねるうちに目に見えて、ぴくりと体が跳ねる。
「それは知っていたけれど、あなたにもわたくしにもどうにもできぬこと。表と裏に関することだわ。裏を見る必要はないわ、夫人」
聞いているオレリーにはわからぬことを早口に言い捨てる。頭の中で疑問符を浮かべた彼女だが、隣から小さく肩を叩かれる。
「オレリー」
小声で囁きかけたのは、ユーディトである。オレリーとユーディトは共にダリアを温室で受け取ったあと、そのまま夫人の伴についたのだった。身近な同僚の不祥事を目の当たりにした彼女だが、不穏な言動をした後も、別段何かするわけでもなかった。しかし、これは嵐の前の静けさというものなのかもしれない。隠すわけにはいかないことなのだ。彼女は、自分の心情に関知せず、相手に厳正なる処断を下すのだろう。
「あなた、もう今夜発つのでしょう。大丈夫なの?」
彼女の言葉にオレリーは迷いながらも、首を振る。
「ユーディトさま。実は、その、少し余裕がないのです……」
ま、と寵姫付きの筆頭侍女は咎めるように眉を跳ねあげた。
「オレリー、あなたも言いづらかっただろうけれど、変なところで気を遣う必要はないことよ。奥方さまだって、あなたの事情はすべてご存じよ。他の者、何なら隣にいた私に声をかけて退出するべきだわ。いつまでも自分を一段下に置かなくてもいいの。奥方さまだって、あなたに常々おっしゃっていたはず。あの方こそが、一番それを望んでいるのだから」
強い口調の囁きはまるで連射された弓矢のように空を切り、オレリーの心を打ち抜いた。貫かれたところが、ぶるりと震えている。
オレリーは猛烈に逃げ出したくなった。恥ずかしい、いつまでも同じことを言われ続ける自分自身が恥ずかしくてたまらなかった。
なけなしの理性を必死でかき集め、常識という柱に寄りかかったオレリーは、すみません、と小さく言って頭を下げた。すでに女主人たちの会話など耳に入っていない。彼女はどうしようもない思考の迷路から出られなくなってしまっていた。
ふう、と頭上から溜息が下りてきた。ついで、ユーディトの疲れたような声が鼓膜に響いた。
「私は自分でも思っているより動揺していたらしいわね。ごめんなさいね」
「いえ」
ユーディトの中での懸案事項は、昼間見た光景にあるのだろう。事情を知るオレリーには、どう声をかけるべきかもわからなかった。
「とにかく、私が奥方様に伝えておくから、オレリー、早く行って準備なさい。色々と段取りがあるのでしょう?」
気を取り直したユーディトが告げ、彼女は周囲にいた侍女たちに小さく会釈をして、〈睡蓮の間〉を後にした。
誰も見ないような道は半分駆けるようにしながら、彼女は広大な庭を横切って、本館の隅にある自分の部屋に飛び込んだ。
「えっと、まずは服を着替えなくちゃ」
すぐに着替えられるよう、あらかじめ服はクローゼットから出していて、ベッドの上に畳んで置いてあった。
慌ただしく髪をまとめていたピンを抜き取って、彼女の胡桃色の髪が肩へと滑り落ちていく。ふと、隣にある空っぽのベッドが目に入った。シーツも剥がしたままで、今は彼女の大きなトランクが寝かされている。
侍女の部屋は二人で兼用だが、オレリーの隣のベッドは空いていた。つい先日、ベッドの主は結婚が決まって実家に帰ったのである。確か、彼女も実家に帰ってから、そのまま親の勧める縁談が決まって辞めてしまったのだった。
――私は、どうなるのかしら。
長期の休みでもないのに、実家に呼び出される理由が何も思い当たらない。それこそ、縁談の二文字が頭をよぎる。彼女はいやいやをするように頭を振った。でも、惨めたらしい気持ちが沸き上がってくる。不毛な想いを抱き続け、そのために結婚が嫌と駄々を捏ねることは、なんと愚かなことなのだろう。人には分相応というものがある。きっと、彼女は縁談が出たところで断りはしないのだ。猫と戯れる王子の姿を、胸の底にしまい込み、何かの折りに懐かしく取り出して眺めてみる。そうする自分が目に見えているのに、ぐずぐずとうなだれているオレリーもいる。ずっと思考はループして、定まらない。
もう少しだけ、時間を欲しい。
疎かになっていた手を動かして、お仕着せを脱ぎ、実家で着るような淡い水色の華奢なシルエットのドレスを身にまとう。侍女の仮面を脱ぎ、貞淑な令嬢の姿になる。髪は後ろにゆるく束ねて、後は背中に流してしまう。
鏡で出来栄えを一通り確認してから、最後に化粧台の引き出しからあるものを取り出す。封が切られた一通の手紙だ。それが彼女を喧騒で溢れる王宮から、穏やかな田園風景へと連れ戻す。
戻っておいで、大事な話があるのだ、オレリー。手紙を要約すれば、そういうことだったけれど、肝心の「大事な話」を曖昧に誤魔化すなんて、父らしくなかった。縁談の話が来たら、きっちりと詳細を手紙で伝えよう、と以前言っていたこともあった。間違いなく、父の筆跡であるのだが……。それとおかしなことがあと一つ。今までどんな手紙でも、母や妹たちの様子を事細かに書いていたというのに、今回はそれがなかったのだ。まるでおかしなことだらけ。
直接会いに行けば、それもわかるのかもしれない。ただ、縁談を仄めかすような文言が見えなかったことにひとまず安堵する。
気を取り直して、荷造りを最後までやり終える。ちょうどよいタイミングで、とんとん、と扉が叩かれた。闇夜が迫って、悪くなってきた視界の中、彼女は扉へと歩み寄った。少し時間は早いが、迎えの御者が来たという知らせが届いたのかもしれないと思ったのだ。
しかし、予想とは大きく違えた。扉の向こうには誰もいなかったのだ。
「え?」
通路の左右をきょろきょろと眺める。すると、遠くの方、右の角に差し掛かるあたりに、みすぼらしい身なりの老人が立っていた。杖をつき、片方しかない目を細めながら、間違いなくオレリーを見つめている。口元はにやり、と歪んでいた。
彼女は、悪魔に魅入られてしまった、と思った。怖い、でも目が離せなかった。両足が震え、目を逸らせないまま、彼女は扉を支えに座り込んでしまう。
王宮にあんな人がいたなんて、と彼女は口の中で呟いた。あんな格好で、なのに王宮のしかも本館に出入りできる。杖をついていたということは、忍び込むという真似も無理だ。老人は明らかに許されて入館したのだ。その意味を考えるだけで、オレリーの心臓は縮み上がってしまう。
長い時が経った。オレリーの視界には誰もいなかった。老人は魔法のように消え失せてしまったのだ。彼女が凍りついた時からようやく立ち上がれたのは、今度こそ本物の知らせが舞い込んだその時だったのである。だが、同時に、彼女は使いの少年の口から、恐るべき噂話が飛び込んできたのである。
――〈黒鴉〉が、いたいけな少年を一人、殺したのだと。




