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神父と淑女

 黒いローブを脱ぎ捨てたアレスタ神父とアレクセイが自らの本拠地とでもいうべき礼拝堂に戻ってきたとき、手近な信者席に本が山積みになっている。

「おや、そうだった。借りてきた本を置きっぱなしにしていたようだった」

 アレスタ神父が持ち上げようとするのを察し、アレクセイが代わりに持った。古書の独特の匂いが鼻につく。ちらりと見た題名から見るに、研究用のものらしい。

「僕が持ちますよ」

 アレクセイの気遣うような言葉に、アレスタ神父はほっとしたように頬を緩めた。

「すまないね。ちょっと欲張って多く借りてきたものだから、助かるよ」

「いいえ、お気持ちはわかりますから。僕もついつい読みきれない量を借りてきてしまいます。……しかし、これは王宮の図書室からですか?」

 おそらくそうなのだろう、と半ば答えを予期しながら聞いてみたのだが、神父はいや、とあっけなく首を振った。

「これは国立図書館からだ。特別に私が研究者であると知った陛下からお許しを頂いたものでね。数百年前の貴重な古書も豊富に揃っているのだ。修道院でもなかなか手に入らない古い通俗本があって、非常に助かっているのだよ」

「それはすばらしいですね」

 若者は素直に感嘆の声を上げた。その眼が彼の学究心を表すように爛々と輝く。

 二人は裏の建物に行くために歩き始めたが、その途中で神父は、ずれた鼻先の眼鏡を乗せ直して、あぁ、とおもむろに呟いた。

「つい言いそびれていたのだが、君がサロンに行っている間に、図書館で君の兄上にお会いした」

「……そうですか」

 アレスタ神父がアレクセイの表情を見て、苦笑いを零した。

「君は優等生然として、常に穏やかな顔をしているようだが、身内には弱いようだね。ただでさえ、我々聖職者は孤独な生涯を送るのだ、生きている身内ぐらいは大事にしてはどうだね」

 アレクセイは眉間に皺を寄せながら答える。

「身内、と言っても僕は幼い頃から修道院にいたのです。ほとんど他人のようなものですよ。それで、兄は何か言っておりましたか?」

「王宮に来たのなら、一度は顔を出すように――とおっしゃっていた。アレクセイ君、行ってきてはどうかね」

 彼は本を持ったまま黙りこくる。やがて、神父の強い視線と、聞いてしまった以上無下にはできまいという義務感に突き動かされて、彼は頷いた。ただし、多分に溜め息も含んでいる。

「そうですね、帰る前に一応訪ねることにします」

 建物の中に入り、手近な机に本を置く。

 神父はありがとう、と礼を述べ、さらに続ける。

「では、君ももう帰って構わない。あの御方が今晩の夜会に出かけてしまう前に行くといい。本館の方で誰か近くの者に尋ねれば、たどり着けるだろう。季節柄、夜にいつ雨が降るかもわからないだろうし、早く帰り給え。宿は取ってあるのだろう?」

「ええ、王都の教会に泊めていただくことになっておりますから。アレスタ神父、今日はありがとうございました。お元気で」

「君も。私も出来うる限り長生きをするつもりだがね……もしもの時は、よろしく頼むよ」

 アレスタ神父がじっと自らの後継者に神妙な眼を注ぐ。

 別れを惜しむのももっともなこと。直接会うのはこれが最後にもなり得た。アレスタ神父の顔は、以前よりもやつれたような気がする。病魔は確かに彼を蝕んでいるのだ。今この瞬間に、神父はアレクセイにすべてを託しているのだ。

「わかっておりますよ。それでも、少しでも長くご健勝であられますよう」

 神父が差し出した手をしっかり握り返した。しっかりと目を合わせ、安心させるようにほのかな笑みを浮かべてみせた。

 一礼して、かぼちゃが潰れたような黒い帽子をかぶり直す。

 アレスタ神父を後に残し、彼は王宮本館へと足を向ける。

 豪奢な廊下で貫かれた建物の内部に入った彼は、そのことをひどく後悔することとなった。

 黒い服装、というのは聖職者ばかりではなく、貴族の謁見用の衣装でもあるものだが、いやに目立って困ってしまった。華やかなドレス姿や蝶ネクタイ姿の男女が無遠慮な視線を浴びせる。見知らぬ聖職者の姿は、人目を引くらしい。

 視線から逃げるようにアレクセイは自然と早足になっていく。きょろきょろと周囲を眺めながら、侍女や使用人を探す。

 しかし生憎、目の届くところにそれとおぼしき人物はいない。いたとしても貴族のお付きとしてその場にいるものだから、容易に尋ねることはできない。

 探しているうちに足は段々と奥へと向かっていく。人通りが少なくなっていくにつれ、彼はにわかに焦ってきた。

 今のところ誰にも咎め立てはされていないものの、うっかりと立ち入ってはいけないところに入ってしまったら大変だ。

 その時、彼の肩を軽く叩く者があった。

「もしもし、神父さま?」

 不意をつかれて、彼は物凄い勢いで振り返った。

「えっ」

声の主がたまらず、後ずさるように足踏みしている。

それは艶やかな深緑のドレスを身に纏った女だった。白い手袋に包まれた手で口元を押さえ、驚きのためか、目を見開いている。

「あの、お困りではありませんか。先程から、わたくしの部屋の前を行ったり来たりしていらしたようですが」

 気遣わしげに彼に話しかける女の眼には、紛うことなき親しみと善意の色が浮かんでいる。今日、アレクセイは大勢の女たちを目にしてきたが、ここまで正直に本音を顔に出している女は初めて見た。

 大人の女性らしい落ち着きと、階級によって培われた嫌味のない品の良さが絶妙に合わさっている完璧な貴婦人であるが、顔立ちがどこか娘めいていた。三十前後に見えるが、もしかしたら、彼が思うより五歳ほどは上かもしれない。

しかし、彼女が浮かべる慈愛に満ちた笑顔と壁を感じさせない気さくさは、幼い頃に引き離された母に似ている。穏やかで、アレクセイをいつでも包んでくれた母のものだった。記憶でもおぼろげな母は、彼にとっての聖女だった。修道院に入りたてで、信仰という言葉の意味をよく知らなかった頃は神ではなく、母へと必死に祈っていたものだ。

「失礼いたしました」

 アレクセイは冷静を装って、慇懃に軽く会釈をする。上手く顔を作れていたか、自信が持てなかった。

「実は人を尋ねる用がございまして。部屋の場所を知りたく」

 慎重に口を開くと、女は、それぐらい、と小首を傾げて、請け合った。

「知っている方なら、わたくしが教えて差し上げるわ。どなた?」

 恐れ多いと思うものの、母に似た眼差しでじい、と見つめられては、アレクセイも弱かった。

 目元を伏せながら、ぼそぼそと名前を答えると、女は笑みをそのままに凍りついた。ふと顔に陰りが落ちる。……そうだ、母もこのような顔をしていた。

 母は日陰の身だった。没落貴族の娘に生まれ、貴族の男の子を産んだ。幸福な結婚さえ望むべくもなく、世間から隠れるように市井に身を沈めた。気づかぬ苦労もあったかもしれない。だから、母もああした顔をしていたのだろう。

「そう」

 女は呆然とした体で呟く。それから、繕ったように微笑む。

「あの方の私室は知っているわ。そうね、ちょっと説明に手間取ってしまうから、地図を書いて差し上げるわね。こちらの部屋へ入っていらして」

 女は手近にあった部屋へ入る。続いて彼も足を踏み入れた。

 貴族の部屋というものは、絵画や装飾品などできらきらしいと思っていたが、とんでもない。その部屋はありとあらゆる家具が取り払われて、目に見えるところには、書物机が一つきりぽつんと置かれているばかり。あまりにもさみしいありようだった。

「ごめんなさいね。今、引越しの準備をしているものだから、あまり神父さまをおもてなしできるようなものがありませんの。アニス、紅茶を」

 部屋の奥から侍女が来て、お客用と思しき椅子を二脚分置く。それから、紅茶の入れたポットを書物机に置いてから、女主人と神父にそれぞれカップを手渡した。

「ごゆっくりどうぞ」

 侍女が丁寧な所作で一礼して、また奥に引っ込んだ。青年に先に座るように促してから、女は言った。

「よかったわ。最後に王宮で紅茶を飲もうと思ってちょうど用意させておいたの。一人きりで飲むのもつまらないと思っていたものだから、神父さまが来てくださって嬉しいですわ。ちょっと待っていらして。今のうちに地図を書きますから」

 彼女は書物机の引き出しから、白い紙を取り出して、羽ペンにインクをつけながら、手元を動かした。

「お待たせいたしました。どうぞ、神父さま」

 差し出された紙片は、流れるような筆跡で、彼の想像通り美麗なものだった。

「恐れ入ります」

 彼は丁重に受け取って、胸元の内側のポケットに滑り込ませた。

 向かい側に女が座る。口元を紅茶で湿らせてから、神父の方へと静かに視線を送った。

「本当に来てくださって嬉しく思っているのよ、神父さま。王宮を出るときに、礼拝堂に伺おうと思っていたの。きっと、神父さまはアレスタ神父の関係者なのでしょう?」

「胸に秘められないことがおありなのですか?」

 このような非の打ち所のない貴婦人には、ひっそりと神父に打ち明けたくなるほどのことがあるのだろうか。役割として、多くの人びとの悩みを耳にしてきたアレクセイは思わず問い返していた。

 ええ、と女は頷く。それでいて、言うべきか言わざるべきか、躊躇う風情でもあった。

「わたくしは、きっと罪深いことをしている。告白してしまえば楽だと知っていても、それを世間に公にもできないこと。わたくしの過ちと、この上もない不名誉なことについて、ですわ」

 女はカップの中の小波(さざなみ)に目を凝らしていたが、ぱちぱちとそれを瞬かせる。まるで泣いているのをこらえるように。

「神父さま。ここの廊下を通っていただいて、よかった。こうして、落ち着いてお話できますもの」

 そう前置きしておいて、上品に口紅を塗った唇が無防備に開く。

「――わたくしは、夫を裏切っております」

 女は驚愕の事実を吐いた。およそ、この女から連想できない発言に、彼は信じがたいと言いたげに口を開きかけるが、やめた。それは聖職者の職務ではないのだから。

「もちろん、本意ではありません。……しかし、こうは言ってもそうなってしまった以上は、事実の前では何の意味もないことでしょう。わたくしは、夫を裏切った。夫も承知していることです。こうして、王宮内に賜っていた部屋を片付けているのも、夫との関係を精算するためですわ」

 女はアレクセイから視線を逸らし、どこか遠方へと投げている。飾りが取り払われた壁を突き抜けて、夕暮れ間近の空を見渡しているのではないかと思わせる。

「結婚を、解消されるのですか」

 幾分、緊張をにじませた声で彼は聞く。彼女の眼が彼に戻ってくる。

「ええ」

 短く答え、彼女は紅茶を口に含んだ。アレクセイも、釣られてカップを手に持つ。思っていたよりも喉が渇いていたらしい、こくりと喉が鳴った。

「気弱だったけれど、優しい人でした。そんな人を裏切り続けることなど、してはならないですわ、神父さま。わたくしの事情に巻き込むわけにはいきませんもの」

「そうですね。お辛かったでしょう」

 神父に苦悩を語ることは何も助言が欲しいわけではない。親身に聞いて、その心情に寄り添うことが何よりの励ましになる。そう思う一方で、女がいまだに決定的な言葉を口にしないのが気になった。夫を『どのような形』で裏切ってしまったのか、を。

「いいえ。むしろ、ほっといたしましたの。考えて、考えて、でもやはりどうにもできなくて。もう、流されてしまう方がどれだけ楽なことか……」

 物憂げな表情を浮かべて、彼女はほう、と息を吐く。

「これから引っ越して、どちらに?」

 先ほどからぶしつけだとは思ったが、思い切って尋ねる。案の定、彼女ははっと息を詰めた。

「え、ええ」

 彼女は一瞬の歯切れ悪さを挟んだあと告げる。

「王都に用意されている屋敷に移る予定ですわ。そこで社交界とは無縁に慎ましく暮らします。特に好きでも嫌いでもなかった社交界ですけれど、いざ離れるとなれば寂しく思えるのは不思議なことです」

「慣れ親しんだところを去るのです。どんな場所であれ、惜しんでしまうものでしょう。〈神書〉にも記述があります。――〈住まう場所を恐れてはならない。新たな場所にも意味はあるもの。恐れつつ、飛び込みなさい〉、と」

 アレクセイに渡せるものは、たわいもない言葉の羅列だ。それでも届いて欲しいと望みながら、口にする。

「新たな場所……」

 ソーサーの上にカップを置いて、口元に指を持ってくる。彼は女がそうですわね、と気を取り直したように微笑むものだと思っていたのに、なぜか哀しそうに面差しを伏せた。

「間違っていると知っていて、新しい場所に赴くことにも、意味はあるのでしょうか。〈あの方〉の元に縋ることも。囲われることにも」

 うっすらと事情の片鱗が見えてきて、彼は押し黙る。どうして、汚らわしい行為に手を染めていたと知っていても、彼女の品性は少しも損なわれたようには思わないのだろう。悩ましげな顔をしていても、ちっとも卑しさや下品な艶めかしさは見えない。むしろ、絵画に写し取ってしまいたいほどに完成された光景であった。

 唐突に、扉から二度三度とノックが聞こえた。

「アニス」

 女主人が声をかければ、またも部屋の奥から音もなく侍女が滑り出て、扉を開く。

 女は、少しお待ちになって、といいおいてから、立ち上がった。

 客人が来たのなら、これ以上お邪魔するわけにはいくまいとアレクセイも腰を浮かせる。

「長々と申し訳ございません。え、と、奥方さま。私はもう行きますので、どうかお気になさらず」

 奥方様、という呼称を使いながら、彼はここでようやく、女の名前を一切聞いていなかったことに気がつく。我ながら頭の悪い真似をするものだ。いつもなら、こんなヘマはしないというのに。

「わたくしの方こそ、話を聞いていただいて感謝しておりますわ、神父さま」

 女は早口で、それでも真摯そうに告げる。客人に目を向けるより先に、彼女はさらに続けた。

「名前も名乗らず、失礼いたしました。わたくしは、アンネマリー。アンネマリー・ディートリッヒと申します」

 彼が反応を示す前に扉口から男が入ってくる。アレクセイは、男を知っている。彼は兄の傍で仕えている右腕であった。

男の方でも二人の姿を見るなり、目を瞠って、その場で二の足を踏んだ。

「どうして、こちらにいらっしゃるのですか、アレクセイさま」

 二人の男と一人の女が三者三様に時を凍らせた。奇妙なものに出くわしたとばかりに、互いの顔を凝視し合うのだ。

 すなわち、それは会うはずのない取り合わせが成り立った瞬間であった。

 



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