厨房の朝と侍女の秘めたる恋
王宮本館の一階、貴族たちがさざめく廊下から一本外れた人のまばらな小さな通路には、飾り気のない木の扉がひっそりとついている。その奥こそに使用人の世界がある。
その階下の世界は今、戦争の最中にあった。
いくつもの足音が同時に駆け回り、何人もの男女の怒声が響く。かちゃかちゃという物がぶつかり合う音と、床に落ちて砕け散る音が耳を鋭く刺激する。
ただし、戦場に漂うのは火薬の匂いでも、そこにあるのは思わず鼻をうごめかすような香ばしさ。食欲を満たす幸福な匂いも、彼らの平和を乱すものである。
「エーゼット伯爵夫妻がお目覚めです!」
「マルツェン侯爵夫人がお目覚めです!」
「ハッセルブルク大公がお目覚めです!」
甲高い声で叫びながら、三人の小姓たちが駆け込んでくる。そっくり同じお仕着せを着た彼らが互いに顔を見合わせた。
「エーゼット伯爵夫妻は今すぐに朝食をご所望です!」
「マルツェン侯爵夫人はいつもより早く食べたいと仰せです。即刻準備を!」
「ハッセルブルク大公は胃の調子が優れません。消化によい粥を食したいそうです!」
小姓たちはそれぞれに用事を言い切ると、三人ともが再び顔を見合わせた。
「悪いけれど、僕が先に言ったから。エーゼット伯爵が一番ということで」
「それは困る。マルツェン侯爵夫人は今、とてもご立腹なんだよ。昨日の逢瀬が上手くいかなかったから、こっちにとばっちりが飛んできているんだ! この通りだ、頼む。人助けだと思って!」
「あの伯爵夫人がキイキイ言っているのはいつものことだろ! 僕のご主人、ハッセルブルク大公は君たちよりも身分の高いお方だ。こちらに合わせてくれるのは当然だ!」
三者三様に己の主張を並べ立て、歯茎を見せるほどにいがみ合う。
「うるさいよ、お前たち!」
恰幅のいいコック服の親父が青筋たてて怒号した。
「手前勝手な都合で厨房は動かんぞ! 良家の坊ちゃんはこれだからいけねえ! 順番はわしが決める! 通常の朝食を取られるエーゼット伯爵夫妻とマルツェン侯爵夫人の分はあそこから持っていけ! ハッセルブルク大公の分は、わしが今から作るから、ハッセルブルクのは、そこで皿洗いと食器磨きでもしてろ!」
三人は一様にびくりと肩を震わせて、慌てて指示に従った。二人はそれぞれにがらがらと配膳車を押していく。可哀想なのは最後の一人である。恐ろしい戦場の兵士と化すことになった彼は、そろそろと流し台に近づいて、おとなしく皿洗いに従事した。時折、鼻をすすりながらもどうにか皿を割らないで進めていく。
しかしながら、通りがかった先ほどの親爺が眉を吊り上げて、洗いかけの皿を取り上げた。
「あんた、もっときびきび動くんだよ! あっ、これ洗い残しじゃないか、こんな調子でなあなあで出世できると思ったら、大間違いだ!」
周囲が一瞬動きを止めてしまうほどの小気味のいい音が厨房に響いた。少年の脳天に拳骨が落ちたのである。
少年は歯を食いしばっているが、なみなみと涙を湛えた目で、その表情を察するのは容易だった。
「す、すみません。ちゃんとやります!」
噛み付くように言い、彼はごしごし力を込めて皿を洗う。
「最初から、そうすりゃいいんだよ、坊ちゃん!」
皮肉を最後に残して、親爺は離れていく。厨房長、と彼の助言を仰ぐためか、若い白服の男が呼ぶからだ。
厨房長が離れていくのを、少年は盗み見る。彼の唇は不機嫌そうにむっと尖っていく。
ギニオン、というのが彼の名である。だがその名はここでは何の役に立ちやしない。あんた、坊ちゃん、ハッセルブルク大公の……。ぐるぐると幾つもの呼称が頭の上を飛び交うと同時に振り回されている。
苛立ちを、皿を洗うことにぶつけていく。冷たい水に手がすっかり赤くなって皮膚がひりひりしてくるころになってから、ようやく厨房長がぽんと肩を叩いた。
「ハッセルブルク大公様の分があそこにある。持っていけ」
「どうも、ありがとうございます」
ギニオンは憮然とした返答をする。
気づけば、満杯だった厨房に隙間ができつつあった。朝食づくりがひと段落したということなのだ。料理人たちはさきほどまでよりはゆとりのある表情でフライパンを握ったり、スープをかき混ぜている。
厨房長が指さした先に配膳車を見つけるやいなや、奮然とそれに詰め寄ろうとする。
「おい、そこの。待ちな」
今度は「そこの」と呼称された彼は、さすがに無視したい思いに駆られたが、かろうじて思いとどまる。振り向くと、口に何かを押し込められる。
「ふぐ、な、なに?」
茹でたてのソーセージが一本彼の口から飛び出していた。噛み切った残りの部分を見つめ、あとは黙って咀嚼する。
「旨いだろ?」
ぽんぽんと頭を叩いた厨房長は髭面を撫でながら、意地悪げにそうのたまう。
「どうも」
言葉少なに食膳車を押し出していこうとしたギニオンは出て行く直前に、美味しかったです、と蚊の鳴くような声を出す。
それを聞いて顔をほころばせたのは、厨房長でなく、第三者である。少年が出て行く厨房の入口ですれ違った女であった。
去っていく少年の肉付きの少ない華奢な背中を見つめて、微笑ましく思う。
彼女は胡桃色の髪を左右にひと房ずつ垂らしたものを揺らしながら、気を取り直して、厨房の中に入った。
「おはようございます。フェルメール侍女長に言われてお手伝いに参りました」
「ああ、オレリーか。いつも有難いがね、今日はもうピークは過ぎてしまったようだ。これからは朝早くに食べ損ねてしまった使用人たちがぼちぼち食べに来るぐらいさ。お前さんはもう食べたのかい?」
オレリーはええ、と申し訳なさそうに答える。
「本日はホルテンシュタイン夫人の週三日行っている、早朝体操の日でしたから。夫人が早く食べ終えられたときに向こうで食事を取ってしまったのです」
彼女の主のホルテンシュタイン夫人は国王の愛妾である。元から美しさは誉れ高いが、彼女自身もそれを保つことに余念がない。自分を磨きあげるためにあらゆる健康法を試しており、早朝の体操は彼女のもっともお気に入りの健康法の一つであった。
「あの夫人は相変わらずの努力家なこったね」
厨房長は肩をすくめた。近くの壁に背中をもたせかける。
「栄養のことを考えていないからって、自分で連れてきたコックに食事を任せちまう方なんだからなあ。キッチンも自分の隣の部屋をぶち抜きにして作っちまうし。裏方泣かせだ」
「厨房長にとってはそうかもしれませんね。ところで、私の手伝いがいらないようでしたら、これで失礼しますね」
「フェルメール侍女長によろしく伝えてくれ」
厨房長が手を振るのを最後に、オレリーは踵を返した。木がぎしぎしと軋む通路の果てには、きらびやかな外界へ繋がる木の扉がある。金属の取っ手を回して、王宮の廊下に出た。
王宮はとうに目覚めているものの、まだ寝ぼける者やベッドで再び微睡む者、あるいは優雅な朝食を取っている者ばかり。貴族たちが活動を始めるにはまだ早い。
かつかつとヒールを鳴らしながら歩く彼女とすれ違うのは、同じ誰かに仕える身の者であった。
角を曲がると赤い毛氈がひかれた、いくつものシャンデリアが並んで吊り下がる廊下に出た。柱に取り付けられたのは金のつる草と縦長の鏡であった。そこにも使用人たちがいて、棒を使って覆われていたカーテンをちょうどあげようとしているところであった。
「おはようございます」
オレリーに気づいて、会釈をしてきた使用人にこちらも笑顔で応える。
「おはようございます」
当然のようにこの時、彼女は彼に視線を投げかけた。すると、彼はカーテンを開け終わったところであり、大きな窓の外の様子がよく見えた。
彼女の丸い目は緑の庭園の中の黒にたやすく惹きつけられてしまった。とくん、と聞こえもしない鼓動が胸を打つ。
彼は兄とともに庭園の周りを走っていた。彼の日課なのだとオレリーも知っている。朝から会えるなんて幸せだという気持ちと、こちらには気づかれないというさみしさに、彼女の心は二分されてしまう。
手が届かない人なのだ。彼女は行儀見習いのために宮廷で働く、地方地主の娘で、あちらは正真正銘の王子殿下である。このように遠くから見るので手一杯で、言葉を交わすことすらままならない。
不審がられる前に、彼女はもう一度庭園を駆けていく人影を一瞥して、主の元へと去っていった。